第40話:我慢を捨てた時

「おい、えーと……そこの女子生徒」


 普段誰も訪れないはずの、屋上へ続く階段の踊り場に、僕のクラスを担当する教師がやって来た。

 なんでしょう、と言葉を返す『女子生徒』=梅鉢さんは、苛立ちを少し混ぜたような感情を見せていた。別のクラスの生徒とはいえ自分の名前を覚えてもらえなかっただけではなく、教師からにじみ出る上から目線の気持ちを感じ取ったからかもしれない。


「探している生徒がいるんだが、協力してくれないか?」

「どんな生徒ですか?」


 梅鉢さんの問いに対し、教師は自分のスマホを取り出し、画面を見せてきた。

 それを見た梅鉢さんは、そっと下の方を向き、一瞬だけ笑顔を作った。そして、すぐに教師に対して対抗心を剥き出しにするかのような表情へ戻り、そのような生徒・・・・・・・は見ていない、と断言した。


「本当か?こっちの方に逃げてきたとクラスの生徒が知らせてくれたんだが……」

「いえ、私は知りません。ずっと1人でいましたので」

「そうか。だが、嘘はつかない方がいいぞ」

「どういう事ですか?」

こいつ・・・は相当な不良でな、俺のクラスの真面目な生徒の弁当を奪ってイタズラで踏みつぶした挙句、教室から逃げ出したんだ」


 そうですか、と冷たく返した梅鉢さんに、教師は言葉を続けた。

 この生徒は少しの事でも大げさに伝えてきたり、嘘の相談を持ち込んだり、信頼性にも欠けた存在。自分のクラスの真面目な生徒たちにいつも迷惑をかけている。だから、嘘をついて庇うような事をするのはやめた方が良い――まるで梅鉢さんに警告をするかのように、断言してきたのだ。


「……分かりました。見つけたら報告します」

「そうだな。そうした方が、今後のためにも賢明だぞ」


 そう言いながら、教師は階段の踊り場を去っていった。どこへ逃げた、と面倒くさそうに呟きながら。


 それからしばらく時間が経った後、梅鉢さんは下の方にずっと隠れ続けていた『僕』の方へ向き直り、満面の笑みを見せてくれた。もう大丈夫、あの教師がこの場所に気づく事はない、と僕を励ますような口調で言いながら。

 それでも、僕の体から、青ざめたような心地や全身に立つ恐怖からの鳥肌が消える事は無かった。僕が真に怖がっていたのは、僕を追いかけまわしていたクラスの生徒でも、僕の言葉をまるで信用しない教師でもなかった。


「……大丈夫、譲司君?立てる?」


 まるで僕の心を包み込むように優しい言葉をかけ続けてくれる梅鉢さんとの約束――一緒に弁当を美味しく食べる、という事が果たせなくなった事、梅鉢さんとの信頼を裏切った事への恐怖心が、まだ心に残っていたのだ。


「……ご、ごめん……梅鉢さん……」

「心配しないで、私が手伝ってあげるから。それに、ここで座ったままだと、あのうっとうしい教師がまた来るかもしれないわ」


 その言葉に従い、僕は梅鉢さんの肩を借りながらゆっくりと立ち上がった。そして、そのまま僕たちは階段を上がり、屋上へ続く扉の前へと辿り着いた。


「……ごめんなさい……」

「いいのよ。それより、ここの扉を開かない事には……よし、あったわ」


 そう言いながら梅鉢さんが取り出したのは、1つの鍵だった。それをノブへ差し込んだ瞬間、誰も開くことが出来なかった扉がゆっくりと開いた。恐怖に怯えながらも、驚く表情を少しだけ見せることが出来た僕へ向けて、梅鉢さんは悪戯げな笑みを見せながら言った。

 確かに、ここは普段は生徒が立ち入り禁止の場所。足を踏み入れたら、自分たちは誰かから怒られてしまうかもしれない、と思ってしまうだろう。でも、そんな心配はご無用だ、と梅鉢さんは力強く語ったのだ。


「どうしてかは……ふふ、秘密。でも、大丈夫。ここなら、誰にも邪魔される事なく2人の昼休憩が楽しめるわ」


 ゆっくりと、恐る恐る、怯えながら頷いた僕を安心させるかのように、梅鉢さんは優しく、そして力強く微笑んでくれた。

 でも、僕にはそんな梅鉢さんの表情でさえ、恐怖の対象になってしまっていた。ここまで僕の事を気遣い、一緒にお昼ご飯を食べる事を楽しみにしてくれている梅鉢さんの笑顔を、結果として僕は裏切ってしまったのだから。

 そんな僕をエスコートするかのように、ゆっくりと梅鉢さんは屋上へ足を踏み入れさせた。普段は絶対に入れないような場所へ飛びこんだ感触は、確かに特別だった。でも、それを堪能する余裕は、今の僕には一切存在しなかった。


「……ごめん……」


 口を開けば、僕の口から出るのは謝罪の言葉だけ。心の中に渦巻いていたのは、恐怖と不安、恐れといった、負の感情ばかりだった。


「……」


 そんなみっともない姿の僕を、梅鉢さんはしばらくの間じっと見つめていた。何を考えているか読み取る事は出来なかったけれど、少なくとも僕を軽蔑したり見損なったりは一切していない、という事だけは確かだった。その瞳や口元に、ずっと僕の心を温かく包む優しさが秘められていたのを、僕ははっきりと認識できたのだから。

 やがて、梅鉢さんは、そっと語り始めた。屋上に吹くそよ風に、長い黒髪をたなびかせながら。


「……私は、譲司君をいつだって信じているわ」

「……」

「譲司君は、どんな時でも私の心の支えになってくれた。『絶対零度の美少女』で居続ける道を選んだ、自業自得の私にも常に優しく接してくれた。鉄道の話題だけじゃなく、様々な話を一緒に楽しんで、私と心を共有してくれた……」


 僕は、梅鉢さんの言葉を静かに聞き続けた。


「私は、そんな優しい譲司君の『特別な友達』で居続けたい。今までも、これからも、ずっと。だから……」


 譲司君は、一切悪くない。


 そんな事はない、僕は梅鉢さんの楽しみを裏切った。一緒にお弁当を食べるという約束が果たせない状態になったのは、全て僕の責任だ。だから、僕は謝らなければならないんだ――そう伝えようとしたのに、声が喉に詰まってしまい、口に出すことが出来なかった。代わりに口から漏れ出したのは、嗚咽のような、いや、そうとしか言いようがない、言葉にならない音だった。

 そして、いつの間にか僕の視界は、水のようなもので覆われ始めた。目の前の梅鉢さんがよく見えず、何度も何度も目をこすって取り除こうとしたが、それでも水は溢れ続け、止まる気配を見せなかった。やがて、それに呼応するかのように、鼻からも水が流れる感触を覚え始めた。


 自分がどのような状況に置かれているのか、僕は嫌と言う程認識させられた。

 僕は、梅鉢さんに絶対に見せたくない表情や感情を、露わにしようとしているのだ。


「あ……あ……あっ……」


 『特別な友達』として、梅鉢さんを守らなければならない立場として、情けなさの極致に達したようなその状態を、必死に隠そうとした時だった。

 僕の顔、僕の体、そして僕の心は、今まで感じた事がない、優しく心地良い感触に覆われた。それが、梅鉢さんの柔らかな『体』と暖かな『心』だと気づいたのは――。


「……もう、我慢しなくてもいいわ」


 ――その言葉が発せられた瞬間だった。


「……う……ううう……ううああああ……ああああああ……ああああああああああ!!!!!」


 僕の体が梅鉢さんの細い腕で優しく抱きしめられていた事、学校一の美少女である梅鉢さんの肉体が僕の体の全てを包み込んでいた事を堪能する余裕は、一切存在しなかった。

 その時の僕に出来たのは、梅鉢さんと出会う前からずっと、延々と、果てしなく耐え続けていた辛さ、苦しさ、絶望、そして『いじめ』を克服できず誰かに頼らざるを得なくなった事に対する悔しさを、大粒の涙という形で溢れさせる事だけだった……。

 

「ああああああああああああああ!!!!!!!」

 

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