第39話:鉄オタライス
午前中の授業の終わりと昼休憩の始まりを告げるチャイムが、学校中に鳴り響いた。
普段ならそのまま1人で食事を口にしてから、図書館か屋上へ続く階段の踊り場へ向かう僕だけど、この日は違っていた。
(いよいよだ……楽しみだな……)
僕が用意したのは、僕と母さんが協力して作った逸品が沢山詰まっているお手製の弁当。梅鉢さんと一緒に肩を並べ、これを一緒に食べる事になっているのだ。
(梅鉢さん、喜んでくれるかな……)
今朝、僕は母さんとの約束をしっかりと守り、無事目覚ましアラームが鳴る前に目を覚ます事に成功した。そして眠い目をこすりながらも、僕は母さんと共に台所に立ち、一緒に昼に食べる予定の弁当を一緒に作った。
家にある様々なものを上手に活用する母さんの腕前のお陰もあって、僕の弁当はどんどん色彩豊かに仕上がっていった。勿論、僕も出来る限りの事を手伝ったけれど、メイン料理のちらし寿司など、大半は母さんが作ってくれたものだった。
少し申し訳ない、と語った僕だけど、母さんは笑顔で励ましてくれた。弁当に入っているのは単に料理の美味しさだけではない、その料理を仕上げた人の優しさや想いも込められている。だから、きっと僕の心――梅鉢さんと一緒に仲良く美味しく弁当を食べる、という思いもたっぷり含まれているはずだ、と。
(梅鉢さんの弁当の中身も楽しみ……)
互いに中身を見せ合ったりおすそ分けしたり、楽しい時間が過ごせるはず。
そう思い、椅子から立ち上がった時だった。
「よう、鉄オタくん、弁当を抱えてどこへ行くつもりだい?」
声をかけてきたのは、僕が一番会いたくなかった相手――この学校の理事長の息子である稲川君と、その取り巻きの生徒たちだった。
「そんなに楽しそうにどこへ行くのか、気になっちゃうな~♪」
「もしかして撮り鉄か~?線路の中に入って、でんちゃっちゃをパシャパシャ撮るのかな~?」
「ありそうありそう!鉄道オタクは授業をサボって電車の写真を撮りに行く連中ばかりだもんね~」
「なあなあ、教えてくれよ~。俺たちクラスメイトだろ~?」
四方八方から聞こえる、わざとらしさを隠さない馴れ馴れしい声の数々に、僕は耳を塞ぎたくなった。でも、今日はそれを我慢するだけの勇気があった。この状況を切り抜けられれば梅鉢さんとの楽しい時間が待っている、という希望があったからだ。
そして、周りから聞こえ続ける罵詈雑言を何とか無視しつつ、大切な弁当を持って歩き始めた僕が、教室の扉に近づいた、まさにその時だった。
「おらよっ!」
稲川君の取り巻きの男子の1人、どこかの体育系部活のエースだという生徒の声が聞こえた瞬間、僕の足が何かに引っかかった感触を覚えた。机でも椅子でもなく、それが『男子の屈強な脚』である事に気づいたのは、僕の体が一瞬宙に浮いたと思ったら、床に叩きつけられた時だった。
硬い教室の床の痛みがじわりと全身に走りながらも、何とか立ち上がろうとした僕は、目の前に弁当が包みごと転がっているのに気が付いた。急いで取り戻そうと手を伸ばした瞬間、弁当は僕の掌から遠い場所へと離されていった。そして、ゆっくりと目線を上げた僕の瞳に映ったのは、大事な弁当が、稲川君の手に握られている光景だった。
「鉄道オタクの弁当いただき~♪」
「おい、早速中に何が入っているか見ようぜ♪」
「鉄道オタクって不潔だし、ゴキブリとかネズミとか入ってそうだよね~♪」
「な、何をするの……や、やめて……」
立ち上がった僕はその動きを止めようとしたけれど、逆に稲川君の取り巻きたちに跳ねのけられ、バランスを崩して机に体を打ってしまった。再び全身に痛みが走る僕を助けてくれる手は、どこからも伸びなかった。
やがて、僕の声をすべて無視した稲川君たちによって包みが取られ、蓋が外され、とうとう弁当の中身が露わになってしまった。梅鉢さんよりも先に、一番見せたくない面々に見られてしまったのだ。
「なんだこれ、クッソ不味そうなご飯ばっかじゃん!」
「うわー、こんなの毎日食ってんの?だから鉄道オタクなんじゃん」
「そうだよなー、なんか可愛そうに思えてきたぜ♪」
「まあ鉄道オタクは社会的にも弱者だし、こんな出来栄えの弁当ばかり食ってるのも当然だよ~」
その『不味そう』で『こんな出来栄え』の料理の中に含まれているのは、僕の梅鉢さんへの思いだけじゃない。食べてくれる人の笑顔を思い浮かべながら作ってくれた僕の母さんの思いもたっぷり含まれているのだ。それを、あまりにも卑劣で下衆な笑い顔で全否定される。誰かの事を思って作ってくれた代物を笑われる。それは、僕にとって屈辱そのものだった。
「返して……返してよ……僕の弁当……!」
返してよ、お願いだから、僕の大切な弁当を返して。何度も何度も、僕は懸命に訴え続けた。痛みが残りつつも何とか稲川君たちに近づき、弁当を取り返そうとした。でも、その度に彼らは弁当を僕の方から遠ざけ、中身を嘲笑い続けた。必死の僕の行動は、稲川君やその取り巻きの笑いを誘う結果になったのだ。そして、気付いた時には周りでずっと見ていたクラスメイトたちまで、僕を見てにやけ顔を見せ始めていた。
それでも、僕は惨めな現実に打ちのめされそうな状況に耐えながら、頼み込んだ。この弁当が無ければ、梅鉢さんとの約束も、母さんから託された思いも、全てが無駄になってしまうからだ。
大事で大切な僕の弁当を返して。何でもするから返して。
「……ほぉ、鉄道オタク、今なんて言った?」
その言葉を聞いた時、弁当を持っていた稲川君が動きを止め、もう一度復唱させるよう僕に命令をした。
背筋が恐怖で震えながらも、僕は何とか先程の言葉をもう一度繰り返した。弁当を僕のもとに返してくれるのなら『何でもする』、と。
「ふふ、おいお前ら聞いたか?鉄道オタク、『何でもする』ってさ!」
「聞いた聞いた、俺たち教室にいる全員が立派な証人だな!」
「ちゃんと動画にも撮ったよ~♪これで言い訳は通用しないね♪」
そんな事を言いながらスマホのカメラを僕の方に向ける生徒、稲川君と共に下品な笑い声を響かせる生徒、そして助けもせず怒りもせずに周りで様子を見つめるだけの生徒。周りに味方となってくれる生徒が誰一人いない現実が再度僕の心に突き刺さった、その時だった。
「じゃ、こうしてもらおうかな?」
稲川君の言葉の直後、目の前で起きた光景を、最初僕は理解する事が出来なかった。
どうして、弁当箱の中に綺麗に入っているはずのちらし寿司、唐揚げ、かまぼこ、サラダが、不衛生な教室の床に散らばっているのだろうか。
どうして、稲川君の手に握られていた弁当箱の中に、何も入っていないのだろうか。
どうしてまだ何も食べていないのに、美味しい食事が『残飯』のような姿になっているのだろうか。
どうして――。
「……あ……え……」
――ようやく事態を把握した僕は、無残な状態になっている『残飯』に、何も言う事が出来なくなっていた。
やがて、そんな状況に追い打ちをかけるかのように、床に散らばった『残飯』の傍に、父さんと母さんが入学祝いに買ってくれた大切な弁当箱が乱暴に落とされた。そして――。
「おらぁっ!」
――掛け声と共に、稲川君の足が、弁当箱だったものを幾つものプラスチックの破片へと変えた。
「……な……な……なん……で……こんな……」
どうしてこのような事をしたのか、尋ねようとしても、声が出なかった。何とか喉に力を入れ、吐き出すように出した言葉は、弱々しいものだった。
それを聞いた途端、僕の耳に飛び込んできたのは、あちこちから聞こえる大爆笑だった。それはまるで、僕の一挙一動を『お笑い番組』のネタとして消費するような声のように聞こえた。
そして、ひとしきり笑った後、稲川君は改めて僕の方を見て、この状況を詳細に説明した。しなくても良い説明を、たっぷりといやらしく、ねちっこく語った。
「綺麗な弁当箱に入ってる料理なんて、『鉄道オタク』君には不味いだろう、って事。俺たちは君の事を考えて、こーんな素晴らしい『料理』を用意したんだぜ。鉄道オタク専用のでんちゃっちゃご飯、題して『鉄オタライス』!」
「おー、稲川、お前ネーミングセンスあるな!」
「稲川君や私たちの
わざとらしく褒めたえる周りの取り巻きを宥めながら、稲川君ははっきりと言った。
食べろ。
「え……?」
教室の床に散らばった、『残飯』と化した何かを、僕は食べなければならいのか。
梅鉢さんへの思いも、母さんの愛情も、父さんの思いやりも、全てが無残に打ち砕かれた代物を、口にしなければならないのか。
「い、いや……いやだ……」
僕の口から思わず漏れてしまった本音を、稲川君たちは聞き逃さなかった。
「ほぅ、鉄道オタク、お前さっき何て言った?『何でも言う事聞く』って言ったよな?」
「俺たち全員が証人だって事、忘れてないよな?」
「そうだそうだ、あたしたちの
「動画にもちゃんと撮ってるんだぜ~?まだ言い訳するのか、犯罪者?」
四方八方から聞こえるのは、僕に対する非難、罵声、誹謗中傷。僕が先程口にした一言を盾に、稲川君たちは僕を『悪者』と見做すかのように、次々に言葉による攻撃を続けた。
それでも、僕は身動きを取ることが出来なかった。稲川君たちの言葉に反発するように、身も心も動かないままじっと固まり続けていた。もしかしたら、それが僕が出来るであろうたった1つの対抗手段だったのかもしれない。
でも、そんな必死の反抗を無碍にするかのように、取り巻きの一人が稲川君に耳打ちし、そして何かを手渡した。そして、そのまま稲川君は僕に笑顔を見せ、こう言った。
「そうだそうだ、大事な事を忘れてたよ。君は『鉄道オタク』なんだから、『鉄分』をちゃんと食べないといけないよな~♪」
そして、稲川君は手に持った箱の中身を、『残飯』――母さんと僕が作り、梅鉢さんとおすそ分けするはずだった手料理の成れの果ての上に撒き散らした。それは、大量の画鋲と、錆が付着した幾つもの鉄釘だった。
いつか鉄道オタクにプレゼントしたいと思っていたけれど丁度良い機会だった、と笑顔で語る稲川君や取り巻きたち。その言葉が意味しているのは、たった1つ。彼らの目の前で、画鋲や鉄釘が混ざった『残飯』を僕が口にする光景を、楽しみにしている、という事だった。
「あ……あ……」
「あ……あ……じゃねーんだよ。早く食えよ、鉄道オタク」
「そうだよ、折角『鉄分』もたっぷり振りかけたんだからさー、栄養満点だよー?」
「そうだそうだ、鉄道オタク!あたしたちの『鉄オタライス』を早く食べろー!」
「たーべーろ!たーべーろ!」
「ほら、お前たちも一緒にコールしろ!たーべーろ!たーべーろ!『鉄オタライス』をたーべーろ!」
やがて、稲川君の言葉に合わせるかのように、次第に教室の中から幾つもの声が聞こえてきた。まるで教室にいる生徒たちが団結するかのように、気持ちが一つとなるかのように、声はどんどん大きくなっていった。僕以外のクラスの生徒の声が、次々に溢れてきた。耳の中に、容赦なく入り続けた。目の前に溢れた。一面に広がり続けた。
食べろ。食べろ。食べろ。食べろ。
食べろ。食べろ。食べろ。食べろ。
食べろ。食べろ。食べろ。食べろ。
食べろ。食べろ。食べろ。食べろ――。
「……いや……いやだ……いやだ……いやだあああああああ!!!」
――その叫びの後、どうやって僕の体が動いたのか、どのような事を考えたのか、はっきりとは覚えていなかった。
でも、僕の体、僕の心が、この教室に広がる光景――『鉄オタライス』が目の前に並べられ、それを食べなければならないという現実を拒否し、そこから逃亡する事を選んだ、という事だけは確かだった。
そうでなければ、僕は必死に廊下を走っておらず、背後から稲川君たちの怒りの罵声が聞こえるはずはなかったのだから。
「おいこら!!待てよこの犯罪者!!」
「約束破るんじゃねぇ!逃げんなクソが!!」
「気色悪い鉄道オタクの癖に逃げんじゃねえぞおらぁ!!」
当然、運動が苦手な僕の足では運動部に所属している稲川君に敵うはずもなく、すぐに怒りの声は背中ギリギリまで近づいてしまった。そして、稲川君の手が僕の肩に当たる感触を覚えた時だった。
「おい稲川たち、何をしているんだ?」
「あっ……先生!」
「ちょ、ちょ、ちょっと先生……!!」
担任の教師が、丁度廊下を通りがかったのだ。
状況が理解できないのか、呑気な声で対応する教師と、慌てて教師に事情を話して追撃を続けようとする稲川君たち。そのやり取りが行われている隙を突くかのように、僕はその場から必死に逃げ出した。
やがて、いつの間にか屋上へ続く階段の踊り場に辿り着いていた僕の目の前には、唖然とした表情の美少女、梅鉢彩華さんの姿があった。
「……ど、どうしたの、譲……」
梅鉢さんがすべてを言い終わる前に、僕は大声で叫んだ……。
「梅鉢さん……助けて!!」
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