第36話:第2ジェラシー・エクスプレス

 とある休日、都合よく用事が無かった僕と梅鉢さんは、一緒に図書館へ行って本を借りる事にした。

 今まで借りていた本を返却しつつ、もっと読みたい本は継続借用の許可を申請し、新たな好きな本を探して借りる。いつも同じだけど楽しい時間になるはずだったけれど、僕は梅鉢さんの様子がどこかおかしい事に気が付いた。

 普段なら列車の中でも、道を歩いている時でも、積極的に僕に話しかけてくれる梅鉢さんが、何故かほとんど僕に何も話してくれないのだ。どうしたの、と尋ねても、何でもないと返すばかりで、その理由は一向に分からずじまいだった。そして、その状態が続くと当然不安になってくるもので、次第に僕は笑顔が作れないようになっていた。


 それでも、何とか無事に互いに借りたい本を見つけ、事前に決めていた通り、図書館に併設されたレストランを訪れた。店員さんがメニューを渡してくれてもなお、梅鉢さんは一言も話さなかった。

 一体どうして、今日はずっと無口のままなのか。まさか、誰も寄せ付けず常に冷たい態度の『絶対零度の美少女』に戻ってしまうのか。嫌な予感が頭をよぎった時だった。


「……譲司君!」

「……は、はい!」


 突然、梅鉢さんが大声で僕の名前を呼んだのである。

 慌てて返事をした僕に、梅鉢さんはそのまま言葉を続けた。


「私は今日、譲司君にどうしても尋ねたい事があります」

「……は、はい、な、なんでしょうか……」


 その真剣な表情から感じられる気迫は、つい僕まで敬語を使ってしまうほどだった。

 ここまで迫られるなんて、一体僕は何をしたのだろうか、急いで思い返してみたけれど、該当しそうな事柄はなかなか浮かばなかった。もしかしたら、僕は無意識のうちに梅鉢さんを怒らせるような、大変な事をやってしまったのではないか。僕と梅鉢さんの関係に亀裂が走るほどの深刻な事態だったらどうしよう、どうやって謝ればよいのだろうか。

 困惑と不安から全身が青ざめる感覚まで現れ始めた僕に、梅鉢さんははっきりと、大きな声でその『事柄』を述べた。

 

「……どうして……」

「……えっ……?」


「どうして、私をリアルで『彩華さん』って呼んでくれないの!?」

「……え……え……あっ……!?」


 それは、僕にとって非常に思い当たる内容だった。


 確か、初めて梅鉢さんが僕の事を苗字ではなく『譲司君』という名前で呼んでくれた時、自分の事も下の名前の『彩華いろは』と呼んで欲しい、と頼んだ事を覚えている。

 その時はいきなり下の名前で呼ぶのは馴れ馴れしいし、そもそもどこか恥ずかしい気分が抜けず、照れくさくて今は無理だ、でもいつか下の名前で呼べるようになるよう善処する、と僕は返答した。ところが、それ以降もリアルで顔を合わせる度に、僕は梅鉢さんを苗字で呼ぶという状況が延々と続いてしまっていた。


「で、でも、『鉄デポ』だと下の名前で……」

「確かにそうだけれど、あれは私が決めたハンドルネームみたいなものよ。強制的に言わせているようなものじゃない」

「うっ……言われてみると……そうかもしれない……」


 確かに『鉄デポ』と言うネットの世界では、僕は何とか梅鉢さんの事を下の名前で呼ぶよう努力していた。梅鉢さん本人がそうやって登録していたからだ。でも、実際のところ、それは指摘通り、無理やり言わせているような形になってしまっていた。梅鉢さんにとって、それは僕が本心から『彩華さん』と呼ぶ行為とは見做せなかったのである。

 一方、そんな複雑な状況の中で、僕はどんどん『鉄デポ』の皆と打ち解け、仲良くなっていった。最初は恐る恐る、若干尻込みしながら会話する事もあったけれど、気付けばすっかりあの賑やかな面々の輪の中に加われるようになった。そして、梅鉢さんにとって決定打のような出来事があった。


「それに、私がいない間に、ナガレ君とあんなに仲良くなったなんて……!」

「い、いや、そ、それは説明の通り……」

「ええ、それも分かっているわよ。私がログインできなかった日に、互いに腹を割って色々な事を語り合ったんでしょ?」


 その過程の中で、ナガレ君からの提案により、僕は今までの敬語はやめて、『ナガレ君』として接することになったのである。

 翌日、その経緯を他の『鉄デポ』のメンバーにもちゃんと話したけれど、梅鉢さんには、まるで自分がナガレ君に追い越されたようで悔しかったというのだ。

 そんな気にしていたのなら本当にごめん、と謝った僕だけど、梅鉢さんは羨ましげな感情を垣間見せながら僕をにらみ続けていた。

 

「……譲司君、はっきり尋ねるわ。私を『彩華さん』って呼んでくれない理由を教えてくれる?私たち、『特別な友達』でしょ。なのに、どうして?」


 特別な友達だからこそ、梅鉢さんは僕の事を下の名前で呼ぶようになった。でも、僕は未だにそれが完全には出来ていない。自分の常識が通用しない事に、梅鉢さんが疑問と焦りを感じている事を、僕はその問いでようやく気付けた。心の中で抱き続けていた感情が、とうとう我慢の限界を超えてしまったのだ。

 その様子を見て、僕もはっきりとその理由を告げる事にした。言い訳でも責任逃れでもない、僕の心の中にある本当の思いを。


「……ぼ、僕は、ずっと梅鉢さんの事を、『特別な友達』だと思っている。これは……絶対に嘘じゃない」

「うん……じゃあ、どうして私の名前を……」


「『特別な友達』だから、意識しちゃうんだ……」

「……えっ?」


 僕は梅鉢さんを何物にも代えがたい存在だとずっと認識し続けている・鉄道に例えればパーラーカーや展望車、車両の階級で言えば最高級の『1等車』に値するほどだ。だからこそ、僕はどうしてもそのような素敵な人を、『下の名前』で呼ぶことに対して気恥ずかしさを感じてしまう。梅鉢彩華さん、と言う人物が『大事』だからこそ、ついその事を意識しすぎて言えなくなってしまう――。


「その、何というか……梅鉢さんと僕は、考え方が『逆』なのかもしれない。梅鉢さんは僕の事を特別だと思ってくれるから『譲司君』って言えるけれど、僕は特別だからこそ言えなくなっちゃう……」


 ――梅鉢さんと僕の間にある『違い』が、このような事態を生んでしまった、と言うのが、僕の中の結論だった。

 若干重苦しい空気がしばらく流れた後、梅鉢さんはゆっくりと口を開いた。


「……そういう事だったのね、譲司君。納得したわ」


 その声は、僕が聞き慣れた、優しくて凛々しい、普段のものに戻っていた。


「譲司君と私は、同じ『鉄道』っていう趣味で繋がっている。でも、譲司君と私は、同じ形式、同じ車両番号じゃない。連結運転を行う東北新幹線と山形・秋田新幹線の車両のように、外見も諸元も違う。だから、考え方だって異なっている。こういう事で合っているかしら?」

「……う、うん……」


 そして、梅鉢さんは僕に向けて頭を下げて謝った。こんな当たり前のことを忘れて、苛立ちのような言葉を投げかけてしまった自分の方こそ情けない、許してほしい、と。

 勿論、僕は怒っても憎んでもいないし、むしろ謝られてしまうと逆に恐縮してしまう立場だった。


「こっちこそ謝らないといけないよ……こんなに梅鉢さんが悩んでいる事に気づけなかったんだから……」

「ううん、大丈夫。私は譲司君の思いを聞けただけでとても嬉しいわ」


 これなら、不安に思う事なく、いつでも譲司君が自分の事をネットでもリアルでも下の名前で呼んでくれる日を待つことが出来る、と梅鉢さんは語ってくれた。焦る必要はない、下の名前で呼んでくれる勇気を得ることが出来たら、それだけでも嬉しい、と。


「でも、なるべく早めに『彩華』って呼んでくれたら嬉しい、って事は覚えてくれると嬉しいわ」

「……分かった……頑張ってみるよ……う……うめ……」

「いいわよ、まだ『梅鉢さん』って呼んでも。この苗字・・・・、結構好きだから」

「梅鉢さん……分かった……」


 そして、ようやくこの複雑な一件が落着し、互いに笑顔を向けあった時、店員さんが絶妙なタイミングでメニューを伺いにやって来た。

 笑顔を見せる店員さんの様子を見て、僕たちは恥ずかしさで顔を真っ赤になってしまった。もしかしたら、僕たちの会話に区切りがつくまで、ずっと待っていたのかもしれない、と考えてしまったのだ。

 でも、実際のところどうだったのか、僕たちは聞くことはなかった。今やるべきことは店員さんの心の中を詮索する事ではなく――。


「……じゃ、じゃあ、この日替わりランチをお願いします」

「私も、同じメニューでお願いします」


 ――いつの間にやらすっかり空腹状態になってしまった僕たちの体を、お揃いの食事で満たす事だからだ……。

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