第6話 国土信用師―廃村の赤—(後編)

 今日の大梅原は雨が降っていた。スマートフォンで天気予報を見ると、一日中ぐずついた天気が続くだろうとのこと。憂鬱になる。雨具を着込んで、さらに傘を差し、俺は車の外に出た。雨は強くないものの、一日中降られると、やっぱり体に堪える。

 梅の樹周りの逆処理を終え、旧小学校、無人の郵便局など、各施設の逆処理を進めていく。もう七割方仕事は終わった。鏑谷がいることで遅れるかと思ったが、意外なことにペースが予想より早い。

 鏑谷との会話が適度な休憩になって集中力が上がっているのか、それとも鏑谷が無意識に俺を真似て逆処理をしているのか。

 後者はないと思う。逆信用処理は信用処理よりも一段上の技術だ。素人が真似てできるのは通常の信用処理までのはず。ということは、一人じゃないというだけで効率が上がったらしい。

 いよいよ本当に、部長に廃村処理は二人以上で行うように進言すべきかもしれない。六年前の暴動以降、職員の数も増やしていることだし。

 雨は時間が経つごとに強くなり、正午を迎える頃には膝下が浸水したようにぐっしょり濡れてうんざりしていた。どこの軒下も濡れていて、行きの道中で買った昼飯を落ち着いて食べられる場所すらない。仕方なく、鏑谷の家に行くことにした。

 雨に降られながら歩いていくと、鏑谷の家から漏れている灯りが見えた。それに安心している自分がいる。

 初めて来たときとは違った気持ちで、さっさとインターホンを押した。家の中で音が響くのが聞こえる。

 だが、待っても鏑谷は出て来ない。もう一度押す。出て来ない。

 古めかしい引き戸を試しに引くと、抵抗なく開いた。

 玄関は土間になっていて、高い段差の上に座敷がある。その奥から明かりが見えた。

 胸騒ぎがして、靴を脱ぐのももどかしく、水の足跡がつくのも構わず俺は上がり込んだ。

「おい」

 鏑谷は、いた。座り込んで、俺の声に反応し、緩慢に首を回す。

「鍵をかけていないのは、まあ、いいとしても、返事くらいはしてくれてもいいんじゃないか」

 鏑谷は少しの間黙り、ようやく口を開いた。

「ごめん」

 あまりに反応が鈍くて薄い。謝罪の声も小さい。

「あんまり、調子が良くなくて。天気が悪いとね」

 そういえば、鏑谷は雨の日は出て来ない。面倒なのだとばかり思っていた。妻から、気圧の変化で体に不調をきたす人もいると聞いたことがある。そのタイプなのか。

「まあ、無事で良かったよ。何かあったのかと思った」

「何かって?」

「何かって、それは……」

 俺は、何を想像した?

 考え始めると、とんでもなく嫌な方向に行きそうで、俺は話を変えた。

「雨宿りさせてくれ。雨で、昼飯も落ち着いて食えないんだ。土間だけでもいい」

 鏑谷は追及してこなかった。

「うん。好きにして」

 鏑谷はそれだけ言って畳の上に横になった。体調が悪いのは本当らしい。俺は玄関に腰掛け、コンビニおにぎりを食べた。

 食べ終えても雨は止まず、むしろ強まってきた。天気予報も、今日は夜まで雨が続くと報じている。

 今日は撤退かな。スケジュールは前倒しで進んでいるし。

「ねえ」

 俺が腰を上げかけたとき、鏑谷から声が掛かった。見ると、起き上がって胡坐をかいている。

「大丈夫か。寝ていた方がいいんじゃないのか」

「ちょっとましになった。雨、強いね。行くの?」

「いや、今日の作業は切り上げる。ホテルに戻るよ。日程に余裕はあるし。そうだな、銭湯にでも入って疲れを取ってもいいかもな」

「そっか」

 鏑谷は膝をついた四つん這いで、体を引き摺るように俺の近くまで来た。

「ねえ、遠藤さん。空しくならない?」

 鏑谷の声は広すぎる土間の玄関に反響した。雨の音と混ざって消えていく。その響きこそが空しい。

「何が」

「遠藤さんの仕事。誰にも知られず、延々と無人の村を忘れさせる仕事。離島に行って誰にも理解されない仕事を延々と続ける仕事。空しくならない?」

 以前、鏑谷はこの場所が好きだと言っていた。雨に降り込められたこの家で、俺たちは二人、話をしている。

 やけに落ち着く。雨の音が妙に心地よい。出るのが億劫で、膝下が濡れていなければこのまま昼寝でもしたくなるような。

「今はあんたが見ているし、無人の村でもない。俺の仕事はちゃんと知られている」

「他の仕事は?」

 思わず笑ってしまった。

「空しくなるよ、たまにね。俺なんて必要ないんじゃないかって、感じることはある。俺が国土信用処理をサボったら誰が困るのか、俺は給料分の仕事をしていると言えるのか、どこか納得できない部分はある。でも、それってどの仕事でも大なり小なり感じることだろ」

「そうなのかな」

「多分」

 他の仕事をやったことはないが、大学時代の友人と話すと、同意されることは多い。給料分の仕事をしているのかわからない、もしくは、給料が不当に低い、と。

 自分の給料と仕事にジャストの感覚を抱いている人間の方が少ないのではないだろうか。

「それに、六年前の暴動がある。あれの原因は俺も知らないけど、おそらく、俺たちがなんとかするべき事件だったんだ」

「そうなの?」

「警察が機能しなかった。通貨が価値を無くし、人々の自制心は消え去った」

 あの事件について、一般人に詳細を明かすことは禁じられている。俺が知っているわずかなことも、話すことは本来できない。

 でも、今、鏑谷だけには話した方がいい気がした。

 さっきの嫌な想像が瞬間、頭をよぎる。国土の前に、鏑谷の信用を得たいと思った。

「あれは、架空物信用処理の失敗だ。何を間違えたのかはわからない。だが、俺たちが何かを間違えた結果、何千人も死んだ。俺たちがやっているのはそういう仕事だ。だから、空しくても、誰にも知られなくても、手を抜くわけにはいかない」

 何をすれば防げたのかわからない。だから、ベストを尽くす。この村も、ベストを尽くしてきっちり廃村にする。

 誰も褒めてくれなくても、職務経歴書に一切書けなくても、止めない。辞めない。

 信用師たちだけが知る矜持があるから。

「本人は大したことない仕事だと思っていても、そこにはちゃんと意味があるもんだ」

「働けない人は? その意味ある仕事をできない人はどうなの」

 鏑谷のしっとりとした視線を受け止めて、俺は慎重に口を開く。

「働くことができない人間にも意味はある。仕事が全てじゃない。生きていれば、それだけで意味と価値は生まれる。本来、生まれた上で重要なことは生きることだ。働くことは、その手段でしかない」

 六年前の俺は、生産性の無い人間に生きる意味はないと答えたかもしれない。十年前なら間違いなくそう答えた。でも、この数年で家族を持ち、子供が生まれた。

 生きていることで既に価値があることを、今の俺は知っている。仮に生後一日で死んだとしても、その後に遺るものはある。

「酷いこと言うね」

 深呼吸する。この家には、真新しい悲しみと苦しみの記憶が満ちていた。

 鏑谷は俺の傍で横になった。

「好きな人がいたの」

「それは、恋人だったのか」

「うん」

 俺たちは綱渡りのような会話を続ける。

「大学からずっと付き合っていた。結婚も、私の中では考えていた。でも、駄目だった。駄目にしちゃった。彼は悪くなくて、私が彼の想いにも、行動にもついていけなくなっちゃったの」

「他に好きな男ができたか」

「違う、そうじゃない。誰も好きになんてなれない。もう駄目なの。もう、私は壊れちゃった」

 鏑谷のすすり泣く声が玄関に流れる。俺はただそれを聞きながら雨が弱まるのを待った。止んでほしいのか降り続いてほしいのか、自分でもわからないまま。ただ、この家の玄関が妙に馴染んで、腰が重かった。


   ◇


 廃村化のための逆信用処理は佳境に入った。村の大部分の逆処理は終わり、鏑谷の家は逆処理しないことに決めていた。今日も鏑谷は俺について回っている。

 村の外れに建つ民家の庭先にしゃがみ込んで、俺はいつも通りタグを外していった。空はよく晴れていて、スーツの上着は車に置いてきたほど穏やかな暖かさがある。

 そろそろ、言わなければならない時期だった。

「あんた、次はどこに住むんだ」

 雑草だらけの庭をぶらついていた鏑谷が振り向く。今日の調子は、まあまあといったところに見える。

「どうしようかな」

 連日、日中は俺について回っているから知っている。鏑谷は新居探しをしていない。

「俺の仕事が終わったら、本格的に行政は動き出すぞ。まず水道が止まり、すぐに電気も使えなくなる。ガスはプロパンだから、元からガス管は通っていない。郵便も届かなくなるし、住所自体が削除されるだろうな。とても住めなくなるぞ」

 俺が逆処理をしていた二週間の間にも、徐々に廃村化の告知などの手続きが進んでいるはずだった。俺は鏑谷の存在を報告していない。市は、大梅原は無人であると認識している。そして、鏑谷は出て行くと俺に約束した。

「そうだよね。大丈夫。考えているから」

 俺は次の民家を目指す。ほとんど山に呑み込まれるような場所に建つ、一軒の、小屋のような家。立ち止まり、古い記憶を捕まえては「日本」のタグを外す。

 ついてきた鏑谷は、いつも通りの顔をしている。いつも通り。そう、出会ってからずっとそうだったのだ。

 あの雨の日以外、鏑谷は心を隠している。

「引っ越すつもりなんかないんだろ。今日と明日で、俺の仕事は終わりだ。最後なんだ、本当のことを聞かせてくれないか」

 鏑谷は答えない。足元の小石を蹴飛ばして、それを見送った。草むらの中に転がっていき、ため息が聞こえる。

 その間に俺は逆処理を終え、次の場所へと歩き出す。背中に鏑谷の足音を聞いて、村の神社へと向かう。最後の場所だ。

 鏑谷がいつまで経っても喋らないので、仕方なく俺から種明かしをすることにした。

「通貨信用師って職業がある。俺の同類みたいなもんだけど、お金に信用をつける仕事だ。そいつらの特技に、紙幣や硬貨の来歴を探ることや、持ち主の素性や想いを読み取ることがある」

「そうなんだね」

「ファミレスに一緒にいったとき、俺はあんたの小銭をもらった」

「そうだっけ」

「そして、通貨信用師に見てもらった」

 足を止め、鏑谷を振り返る。俺が言ったことの意味がわかったようで、鏑谷の顔は白かった。

「私のことがわかったってこと?」

「そうだ。だいたいな」

「どこまで」

 俺はまた足を進める。村の中央にある神社まで、まだ少しだけ距離がある。あぜ道の草は背を高く伸ばし、俺たちが歩く道を飲み込むかのようだった。

「俺たちは医者じゃない。ただ、物や土地の記憶を感じ取ることができるだけの人間だ。だから断定はできないが、推測はしている。あんたは、うつ病じゃないか」

 三輪に送った硬貨を読み取ってもらい、俺は鏑谷の真意を探った。仕事をしている様子はなく、日がな一日俺を眺めて何をしたいのか。

 三輪からは、うつ病か、それに近い人と似た感覚だと教えてもらった。鏑谷は体調に波があったし、雨の日に玄関先を借りたときは酷く怠そうだった。無職であること、ずっとぼんやりとしていること、心当たりは多い。

 躁鬱なのか、薬の効きがいい日があるのか、体調の波はどちらかの要因だろう。

「何があったのか、聞かせてほしい。俺はあんたが思うほど、人に興味がないわけじゃない」

「何ってこともないよ。いつの間にか、駄目になった」

 駄目になったと、以前も聞いた。自分が駄目になった、それが鏑谷にとっての病気の認識。

「私は建築士だったの。二級建築士。大学院を卒業して、希望通り就職して、順風満帆。上司や先輩にも恵まれていたし、文句のつけようがない職場だった」

 鏑谷は俺の隣を歩き始めた。

「大学を卒業したら二級建築士の受験資格が得られるの。私は大学院にいる間に二級建築士の資格を取った。

 その後就職して、実務経験を四年間積むと一級建築士の受験資格が得られるようになる。私は、それもすぐに取るつもりだったの。そしたらね、落ちちゃった。いやあ、ショックだったなあ。試験に落ちたのなんて初めてだったもん。大学入試も院試も資格試験も敵無しだったんだよ。もちろん、すっごい努力はしたけどさ。

 でも、落ちちゃった。何となく、その頃からおかしくなっていたんだよね。眠れなくなっていたし、集中力も落ちていたし。その時点で気付いていたら良かったんだけど、無理している最中ってわかんないんだよ、自分じゃ。

 勉強時間でいったら大学受験の方がよっぽど頑張っていたし、睡眠時間も確保できていた。でも、眠れなくなって、仕事で手を抜くわけにもいかなくて。自分はやれるはずだって思いながらエンジン吹かして試験を受けた。で、落ちた」

 足音と共に、からりとした声音が晴れた空に散る。

 泣いていることは、見なくてもわかった。

「試験に落ちたことがわかって一週間後くらいかな。朝、急に起き上がれなくなったの。めっちゃくちゃ怠くて、頭も働かなくて、でも熱はなくて。どうにもならなくて三日仕事を休んだよ」

「病院に行ったのか」

「上司に言われたからね。自分じゃ、病院に行くって発想も浮かばなかったと思う。あちこち受診して、うつ病だろうって診断された。遠藤さんとご同僚さんの正解。

 彼氏と別れたのも、ちょうどその頃。私が家からも出られず、まともに会話もできなかったから、呆れて振られた。せめて説明できればよかったんだろうけど、それすらできなかったんだよね。

 働くどころじゃなかったから、休職して、少し静かな場所に行きたくなったの。それでここに来た。ほとんど人がいないことは知っていたから。まさか完全にいないとは思わなかったけど。だから安心して。住所は別にあるから。遠藤さんの仕事が終わった後、出て行くっていうか、戻る先はあるから」

 荒れ始めた神社に着いた。建物はまだ健在だが、手水場は水が止まり、柄杓は変色している。俺は鳥居の下をくぐり、新旧入り混じる記憶を逆信用処理していった。ここも行事で使われる場所だったようで、かなり多くの強い記憶が残っていた。だが、新しいものはほぼない。

「とりあえず安心したよ」

 鏑谷がしていたことは、本当に休憩だったのだ。人生の休憩。俺を眺めて何をしているのかと思っていたが、何もしないことをしていただけだった。

 帰る場所があるなら、無理に留まりもしないだろう。

「自分がこんなにも挫折に弱いなんて知らなかったな。たった一回の失敗で、心が折れちゃった」

「落ちる前から調子はおかしかったんだろ。試験に合格していても、発症したんじゃないか」

「そうかもね」

 心の弱さと精神病の発症に関係がないことを俺は知っている。だいたい、心の強さなんて、誰にも定義できないものだ。

 六年前の、西笹原市の暴動で走り回った後、心の調子を崩す職員が各部で出た。疲れや、異常な現場を目撃したショックで不眠症に陥る者もいたし、うつ病になって休職した者も数人知っている。その中には、心が強いと思っていた職員もいたし、逆に意志が弱いと思っていた人が平気だったりした。

 それまで俺は、恥ずかしながら、心の弱さが精神病を引き寄せるのだと思っていた。意志の強さ、やりたくないことをやり続ける強さ、そうしたものが足りない人間が精神病に罹るのだと。

 そうしたイメージは偏見だったと言わざるを得ない。

「心の強さ、弱さは関係ない。強いて言うなら、責任感が強すぎたんだ。俺は幸運にも心身共に健康だが、あんたが弱かったわけじゃないことは断言できる」

「ありがとう。でもさ、どうしようもないんだよね」

「何がだ」

「もう、働けないよ」

 鏑谷はしゃがみ込んだ。雑草が浸食を始めた玉石の境内には、ベンチのようなものはどこにもない。

「手が動く。足が動く。口も動いて喋ることができる。仕事はできるさ」

「調子が悪いと体も動かないよ。それに、何より頭がね、働かないの。薬が効くほど頭が働かない。効かないとそもそも駄目だから、結局、どうしようもない」

 鏑谷は空を見上げた。

「自分のパフォーマンスが下がったことを自覚しちゃうとね、絶望だよ。わかったことがわからなくなる。一瞬で判断できたことが、全然決断できなくなる。きついよ、これは」

 鏑谷は頭がいいし、勘もいい。それは会話の端々で感じていたことだった。だが、多くの時間を上の空で過ごしていることに違和感もあった。三輪から話を聞いて、それらに納得がいった。

 病気のせいで能力を発揮できないだけで、鏑谷は本来、もっと切れ味鋭い人間なのだ。

「病気なら、治せばいい」

「そんなに簡単じゃないよ。何年もかかると思うし、治るかどうかもわからない。この国に、私の居場所はもう無いんだと思う。遠藤さん、いつだったか言っていたね。国家に属すると、労働は半強制だって。私もそう思うよ。でもさ、私はもう、働けないよ。自分が一番よくわかっている。こうして、遠藤さんの後ろをついて回るので精一杯。夜には疲れ切って、でも睡眠薬でなんとか眠っている、そんな状態。こんな私を雇ってくれる会社、あると思う?」

「あるさ」

「どこに」

「ウチに来ればいい」

 俺は鏑谷の隣に、同じ方向を向いてしゃがみ込んだ。横顔に鏑谷の視線を感じる。

「信用師の素質を持つ人間は約2%と言われている。だから、人材を集めようと思っても思うようにいかない。あんたには国土信用師の素質がある。病気と折り合いがついたら、俺に連絡しろ。採用担当に話を通してやる。きっと採用試験にも合格するさ」

「本当に?」

「ああ。貴重な才能だからな」

 俺は隣を見ないまま、でも隣に居続けた。

「だから、自分のことを駄目だなんて言うなよ。この国が息苦しいと感じるかもしれないけど、居場所は必ずあるから」

「……気休めでも、嬉しい」

「俺が気休めなんて言うと思うか」

 笑う気配があった。

「言ったら意外だね」


   ◇


「当たっていたよ。やっぱり鏑谷はうつ病だった」

「そう。まあ、わかっていたことだけど、当たっていない方が良かったな」

 三輪が溜息をつく音が電話の向こうから聞こえた。

「いつの時代も、真面目が過ぎる人は危ない線を踏み越えてから気付くんだよね」

「新田のことか」

「そう。よくわかったね」

「なんとなくな」

 新田恵。六年前の暴動を調査するため西笹原に単身乗り込み、そのまま行方不明になった後輩。いつもにこにこと笑っていたが、その裏に芯がある、使命感に燃えた女だった。

 暴動の報せが入ったとき、新田は神性信用部として近くで仕事をしていたため、上司からの指示をろくに待たず調査に飛び込んだ。前例の無い事件であっただけに、上司が的確な指示を出せたのかは甚だ怪しい。だが、それでも早まったことは間違いない。

 結果的に、職員一人が行方不明になったことで、局の緊張感は一気に上がり、慎重に行動することとなった。職員たちは暴動外縁部のみで行動するよう命じられ、次なる被害を出すことなく鎮静化を迎えられた。言い換えれば、新田恵の犠牲のおかげであったとも言える。

「鏑谷さんと新田ちゃんは、似ていると思わなかった?」

「いや、よくわからん」

 さっきとは別の溜息が聞こえた。

「遠藤ほどマイペースなら、うつ病になんてならないだろうにね」

「誉め言葉だと受け取っておくよ。今回は特にな」

「そうだね。信用師には繊細な人が多いから、遠藤みたいなのは貴重だよ」

「俺も繊細だろ。鈍くちゃ信用師はやっていられないんだから」

「そうだけど」

 三輪の電話の向こうで声がした。家族の気配が聞こえてくる。俺もそろそろ自分の家が恋しくなってきた。

「鏑谷さん、病気が治るといいね」

「完治は、難しいだろうな」

 うん、と相槌が聞こえる。暴動の後調子を崩した職員の中には、そのまま退職してしまった者もいた。精神の病気は簡単ではない。復帰しても、今も症状を引きずっている者もいる。

「完全に治らなくても、仕事ができるくらい良くなればいいさ」

 病気になる前ほど頭が回らなくてもいい。弱くなることは悪いことじゃない。生きていければ、それでいいのだ。

「あんたさ、これで鏑谷さんを救えた気でいる?」

 鼻で笑った。

「まさか。俺なんかが多少話して救えるくらいなら、世界はもっと平和だよ」

 俺には、現実的に役立つ情報を教えるくらいが限界だった。目を合わせていたとしても、例え俺が鏑谷の心を覗けたとしても、病に苦しむ人の心を癒せるわけがない。人の精神はそんなに簡単にできていない。

「最終的には、鏑谷自身の問題だ。大梅原の仕事は明日が最終日。何かの抱負が聞ければいいくらいにしか、思っていないよ」

 そんな答えが見つかるのかどうか、それもまた、本人の問題だった。俺にはそれを引き出す権利もない。本人が言いたいことを聞く。それだけだ。

 大梅原の国土逆信用処理は終了した。明日は、最後に見て回って、取りこぼしがないこと、目標通り90%減を達成したことを確認し、鏑谷に挨拶して帰るだけだった。このビジネスホテルの朝食にもいい加減飽きた。

 この二週間が辛く苦しい工程にならなかったのは、鏑谷がいたおかげだ。その礼くらいはして去るつもりだった。

 三輪に、送ったお金は俺のデスクに入れておくよう指示をして電話を切る。

 目を閉じれば睡魔がやってくる。睡眠薬無しで眠れる自分の体に感謝を告げた。


   ◇


 旧大梅原村エリアの入口に車を停めると、違和感を覚えた。この二週間とは何かが違う。車を降りて歩き始めると、おぼろげながらその正体がわかってきた。

 匂いが違う。

 理由はすぐにわかった。見渡せば、もうもうと黒煙が昇っている箇所があったからだ。

 あの方向は、鏑谷の家だ。

 眉をひそめて走り出した。焦燥感と悔しさが胸を埋めていく。

 狭い集落を駆け抜け辿り着くと、鏑谷の家は業火に包まれていた。肩で息をしながら呆然と見上げる。火は完全に家屋全体に及んでおり、人が中にいたなら絶対に助からないと言い切れる炎に育っていた。

「鏑谷」

 薄いピンクの軽自動車は庭で炎に焙られていた。俺はその場に膝から崩れ落ちてしまい、渦巻く炎を見つめることしかできなかった。

 わかっていたことだった。鏑谷は死ぬためにこの村に来たのだと。三輪からも言われていたし、俺もそうなのだろうと思っていた。誰にも邪魔されずに死ぬために、こんな場所に来たのだ。

 俺が来なければ、もっと早く実行に移していたかもしれない。鏑谷はおそらく、俺の仕事を見ながらずっと考えていた。本当に死ぬかどうかということを。それを直感した俺はどうすることもできなくて、ただ監視した。せめて自分の目の前で命が絶たれることがないように、雨の日も一日一回は生存を確認していた。

 人が一人命を絶つほどの決断に、他人が横から口を出すことはできないと俺は考えている。それほどの、文字通り命を懸けたその選択を否定するなんて、俺にはできなかった。

 だからせめて、生きる道を示した。

 昨日の話は、俺にできる最大限の干渉だったのだ。

 だが、生きる道があることは、死なないことを選ばせるわけではない。

 鏑谷は俺に火事を発見させるため、今日、この時間を選んでいる。ならば与えられた役割を全うしよう。俺はのろのろとスマートフォンを取り出し、119番を押した。

 何を言ったのか覚えていないが、いつの間にか電話は切れていた。俺はよろめきながらその場を離れる。軽自動車のガソリンに引火したら爆発する。そんな、どこで手に入れたのかわからない知識が頭に浮かんでいた。

 俺は止められなかった。それどころか、俺が鏑谷の命の期限を決めてしまったとさえいえる。

 俺がこの村での仕事を終える。だから鏑谷は火を放った。そして、鏑谷自身は、きっと……。

 ごうごうと聞こえる炎の音を背後に、俺はかつて鏑谷の家だった場所を離れていく。無力感と、ともすれば足を止めてしまいそうな脱力感に襲われながら。

 ふと、泣き声のようなものが聞こえた。顔が上がり、思わず足が早まった。

 走り出すとすぐに見つかった。家を一軒挟んで、煤だらけになった鏑谷がブロック塀にもたれてアスファルトに座り込み、泣いていた。

「鏑谷」

 俺が近づくと、鏑谷は煤で真っ黒になった顔を上げた。涙が通った跡だけが肌色になっている。

「死ねなかった」

 その言葉だけで全てがわかった。火は点けたものの、怖くなって逃げたのだ。

「死ななくてよかった」

 鏑谷は絞り出すように小さく叫ぶ。

「よくない」

 遠くから鳴るサイレンを聞きながら、俺は隣に腰を下ろした。

「そうかもしれない。でも、俺は嬉しい」

「私が死んでも、遠藤さんのせいじゃないよ」

「そう言ってもらえただけでも、生きていてくれてよかった」

 背後で派手な爆発音がした。空気が震える。ガスボンベか軽自動車に引火したらしかった。

「死にたくない」

 鏑谷の言葉に、俺は同じ方向を向いたまま頷く。

「当たり前だ」

「生きていたくもない」

「そうか」

 それきり、俺たちは黙って消防車の到着を待った。


   ◇


 廊下で同僚と、久しぶり、と何度も言い合った。

 火事が消し止められた後、大梅原の廃村化は急ピッチで進められている。本来、コソコソと廃村化を既成事実化しようとしていた市の目論見を裏切って、大梅原に土地を持つ人間たちは再び自分の土地に注目することになった。消火作業の放水で水浸しになっていないか、延焼していないか、火災保険に入っていたのかどうか、などなど。

 誰かが大梅原に価値を見出して廃村化を妨げる前に、急いで事を終わらせてしまおうと、市は考えているのだろう。俺が逆信用処理を施しているので、滅多なことでは予定は狂わないと思うが、市の後ろめたい気持ちと急ぐ気持ちはわかる。

 廃村化は大丈夫だ。だが鏑谷に関しては、何も大丈夫にしてやれなかった。

 鏑谷を勇気づけることもできず、自死を思いとどまらせることもできなかった。鏑谷が生きているのは、本人の中に生きようという意思が残っていたからだ。決して、俺の存在が良い方向に作用したわけではない。

 鏑谷の計画では、家に火を放ってそのまま焼け死に、いつも通り午前十時に来た俺が火事を発見、通報するというものだった。これで山火事に発展するような事態は避けられるし、自分は間違いなく死ねる。

 自分自身を逃げられなくする拘束具のようなものもあったのではないかと推測するが、もはやどうでもいいことだった。鏑谷は生きることを選んだ。

 何度も考える。俺が、どこで何を言っていれば、していれば、鏑谷が火を放つ前に止められたのだろうか、と。

 答えは出ない。人の親としての目線で言えば、止めることが正しいことだと確信を持って言える。少なくとも、鏑谷には母がいて、悲しむ人がいる。だけど、そこに力強い理由をつけて話す言葉を、今も俺は持っていない。周囲の人のために生きるより、自分のために死ぬことの方が正しいと、俺の左脳は考えてしまっている。

 考えようによっては、今回のことで、鏑谷は自身の内の生きたい願望を自覚した。それがそのまま生きる力になってくれることを願う。

 俺には自分の生活があって、守るものがある。ずっと、正面から鏑谷と向き合って心の闇に呑まれてしまわないよう気をつけてきた。

 俺は今も、彼女と本気で向き合うことを避けている。彼女の人生に責任を持てないし、持つべきでもないからだ。だから鏑谷も最後まで本心を隠し続け、火を放った。それを利用されたのだと憤る資格は、俺に無いだろう。俺は何の代償も払っていない。

 でも、無責任だとしても、生きていてくれて嬉しいと、素直に言えることだってたしかなのだ。

 久しぶりの自分のデスクに座り、パソコンの電源を入れると、メールが届いていた。

『鏑谷です。先日はご迷惑をおかけしました。しばらく治療に専念して、建築事務所に復帰したいと思います。それにも失敗したら、お世話になります』

 抽斗の中の封筒を取り出す。ほんの少し、鏑谷の言葉から生きる力を感じられて目を閉じる。

 返信文を考えたが、どうも偽善らしくなってしまい、何度も消した。結局、何も踏み込まない文章に落ち着く。

『そのときは今度こそ、ファミレスでご馳走させてもらいます』

 横を歩くように、たまたま目的地が同じ旅人のように。

 きっと、向き合うだけが、人を救う全てではないと思うから。


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