第5話 国土信用師―廃村の赤—(前編)
コンクリートのトンネルを超えると、赤く染まった
俺が運転する白いレンタカーは、時折舞い落ちる赤い葉を掠めながらのんびりと進む。対向車も後続車もいない。ゆっくりと景色を楽しませてもらった。
視界が開けると、今度は山の斜面が見下ろせた。こちらも紅葉が進んでおり、混ざっている常緑樹の緑がアクセントとなっていい具合に目立つ。全てが赤であるより、目が惹きつけられて全体が映える。そんな気がした。
道行く人々の記憶が飛ぶように背後に過ぎて行く。ここで俺と同じように、紅葉に目を楽しませた彼らもまた、事故を起こさないように気をつけながら走ったことが伝わってくる。俺はふう、と息をつき、山道を右に折れた。急峻な上り坂を駆け上がり、すぐに平坦な道に戻る。
記憶の気配が急激に薄くなったことに安心しつつ、車を走らせること約五分。そこは見えてきた。
大梅原。かつては大梅原村と呼ばれ、今では市の端っこに合併された、この土地の名だ。
統計上の人口は、0人。
旧大梅原村エリアの入口で車を停め、徒歩で集落内に入っていく。かつては稲穂や作物の葉が茂ったであろう田畑には雑草が背を高く伸ばし、点在する家々は、人の気配がなくなってやや荒廃した雰囲気で彩られている。
家というものは不思議だ。人が住んでいないと、急激に老け込んでいく。逆に人が住んで手入れが行き届いていれば、どんな古い家屋も老いきらない。この村の家屋はどれも老い、人が住まなくなって久しいことがわかる。だからこそ、俺が派遣されてきたのだが。
人々の記憶の気配が濃い方向へ進むと、公民館および、併設された広場に着いた。公民館は二階建ての民家のようなもので、玄関には「大梅原村公民館」と達筆な筆で書かれた木の板が張り付けられている。試しに玄関の引き戸を引いてみたが、開かなかった。
振り返ると、テニスコート二、三面はつくれそうな広場になっている。祭りや盆踊りなんかを、ここでしていたのだろう。チカチカと大勢の人々の記憶が俺の琴線に触れては消えていく。空気には賑やかな声が残り、公民館には多数の人の出入りが記憶されている。
それらの記憶ほとんど全てに、「大梅原」というタグが付いていた。中には「日本」や「故郷」というタグも感じられる。その記憶を捕まえた端から、タグを外していく。この広場と公民館だけで一日潰れそうだった。
ふと、ごく最近の記憶が指先に触れた。目で追うと、広場の外に続いている。
俺は少し考え、優先すべき事項であると判断し、公民館を離れた。その記憶を追っていく。
濃くなったり薄くなったりと気配が揺らめきながらも、大まかには追跡できた。やがて、村の外れ、やや高くなった場所に建つ一軒の民家へと、俺は導かれた。
その民家の庭には薄いピンク色の軽自動車が停まっていた。
腕を組んで考えた。明らかに人がいる。住民はいないと聞いていたのだが。
立ち尽くしていても仕方ないので、庭を横切り、インターホンを鳴らそうと思った瞬間、縁側の雨戸が開いた。若めの、三十手前かと思われる女性が現れ、目が合う。向こうも人がいるとは思わなかったようで、数秒、見つめ合って黙ってしまった。
「こんにちは」
こちらが挨拶すると、向こうも控えめに頭を下げた。
「こんにちは。村の人ですか」
その様子から察した。彼女はここに住んでいる人間ではない。ならばと少しだけ気を緩め、話を続ける。
「いえ、役所の人間です」
本当は、架空物信用局国土信用部の人間であるのだが、大っぴらに存在を公表していないため、役所の人間、と自己紹介することにしている。
女性は、役所、と呟き、黙ってしまった。俺も何を言ったものか、少々悩む。
「ここの住人さんですか。誰も住んでいないと聞いて来たのですが」
「あ、いえ、ここは祖父の家だった場所です。ええと、一応、私の母が相続したことになっています」
「そうでしたか。本日は何の御用でこちらへ。荷物整理か何かですか」
「そういうわけでもありませんけど」
女性は言い淀み、俺を見て首を傾げた。
「あなたこそ、何の用ですか」
迂闊なことに、聞き返されると思っていなかった。不審に思われるのは当然だった。ただの役所の人間が市民のプライバシーにずかずか踏み込んでくるのは普通じゃない。
さて、どうしたものか。
「言いにくいことですが」
前置きし、俺は正直に話すことにした。そもそも、公務員が業務に関することで、市民に不要な隠し事をするのは良くない。
「ここ、大梅原は廃村になる見通しになりました。住民がいなくなり、土地の所有者も全員が遠方に住んでいる。ここは、自治体から外されます」
「はあ、そうですか」
意外なことに、女性の反応は薄かった。
女性は目線を上げ、俺の後ろを見る。
「そうですよね。こんな有様ですもんね。そっか、本当に誰もいないんだ」
「ええ。だから、ここに住まれるつもりならばやめた方がいいですよ。いずれ水も電気も通らなくなります」
「今すぐに?」
「いえ、そういうわけではありませんが」
女性は俺から目線を外し、考える仕草になった。
本当は、女性が強硬に「これからここに住む」と主張すれば厄介なことになる。居住の自由があるため、一度インフラが整備された村に住むと決めた人間を止めることはできない。住まれる以上、その人物の命を守るためにインフラを整備し続ける必要もある。
市は、この村が無人になるときを待っていた。最後の住人であった高齢女性が息子夫婦に引き取られて街中へ引っ越したことを見て、ここのインフラを撤廃する作業に移った。
俺が来たのは、その第一段階といえる。
だから困るのだ。ただの荷物整理ならばいい。だが、ここを新しい住所にすると言われると、市の目論見が進まない。あえて廃村になることが決まった、という口調で話をしたが、本当はまだ告知が済んでいないし、決定もしていない。
「私がここにいたら、困りますか」
「……まあ」
「あなたは何のためにここに来たんですか」
女性は縁側に腰掛けた。
「住民がいないことを確認するためです」
「それって、いま来てもあまり意味がないですよね。買い物に出ているかもしれない。仕事に行っているかもしれない。仕事も、日勤か夜勤かによって在宅時間帯は変わりそうです。あなた一人が平日の昼間にふらりと来て、何を確認するつもりだったんですか」
なるほど。俺は疑われているわけか。そりゃあ、そうだ。
まあ、いい。架空物信用局、通称架空局は基本的に存在を秘するが、別に絶対の秘密というわけではない。業務上必要とあらば明かしてよいことになっている。
「嘘ではありませんが、詳細を話すと長くなります。座っても?」
女性はどうぞ、と縁側、自分の傍を手で差した。軽く掃除はされているようで、スーツが汚れることもなさそうだった。
「遠藤俊介といいます」
腰掛けた縁側から見える景色は、老いた家々と荒れた田畑だった。人の姿は、当然無い。
「
疑っているわりに警戒心はないのか、鏑谷は遠くを見たまま言う。無人の村で、すぐ隣に初対面の男がいるのに、危機意識が甘くはないか。
俺は鞄から名刺を取り出して渡す。
「役所は役所でも、私は架空物信用局というところから来ました」
「架空物?」
鏑谷は名刺を受け取り、胡散臭げに眺めた。
「ご存知ないでしょう。有名な部署ではありませんから。簡単に言うと、お金、国家、国土といった社会の約束事を皆様に信じていただく部署です。私はその中でも国土信用部。ここが日本であると、国民に信じていただく作業を生業にしています」
鏑谷は首を傾げた。
「ここが日本だなんて、当たり前じゃないですか」
「その当たり前を当たり前にしてきたのは、過去の信用師、私たちのような職業の者たちのことですが、彼らが積み重ねた功績あってのことです」
俺の仕事を理解してもらうのは難しい。俺はよく酒の場で使う表現を選んだ。
「私たちは社会科の授業で日本の国境線を学びますよね。でも、その内側が日本だと信じたのはなぜですか」
「なぜって……そう、教わったから?」
「その通り。重ねて聞きます。それをすんなり信じられたのはなぜでしょう」
鏑谷は、ううん、と唸って困ってしまった。
あまり意地悪をしても仕方ないので、さっさと答えを明かす。
「それを教わった学校や、そのとき住んでいる家、暮らしている土地、そういった場所に、国土信用処理が施してあったためです。ここは日本だと信じられる土地で、国境を学ぶ。そして自分たちがいる都道府県の場所も教われば、ああ、たしかにここは日本で、日本はこんな形をしていたんだな、と納得するわけです」
「国土、信用処理?」
「それこそが、私の仕事です」
「具体的には何をするんですか」
「いろいろなやり方がありますが、重要なことは、土地に残った人の記憶です。その土地を通った、住んだ、何かの用で滞在した、そんな人の記憶に、ここは日本だとタグ付けしていきます」
「記憶にタグ付け?」
「人がいた残滓といってもいいです。感じやすい場所でいうと、夜の学校ですね。なぜか不気味に感じるでしょう。あれは、日中の子供たちの記憶を感じているからです。記憶はその場に留まり、時間によって薄まりながら、土に、空気に、残り続けます」
鏑谷は、ああ、と頷いた。
「なんとなくわかるかも。それは霊感とは違うのですか」
「限りなく近いものではあると思います。私は霊感について詳しくありませんが、過去の人間の姿が見えることもありますから、ほとんど同じようなものだと思っていただければいいでしょう。そこにタグ付けする作業は、記憶を感じる素質があればできることです」
信用師に必要なものは一に感覚、二に感覚、三、四が感覚、五に信用処理だ。適した鋭敏な感覚を持っていれば、信用処理は必ずできる。
霊感と混同されるのは不本意だが、あまり説明が複雑になっても良くない。そこはあえて厳密な説明をしないでおく。
「あれは、人の記憶だったんだ」
意外な返事だった。
「何か、身に覚えがございますか」
「私たちの後ろ、お祖父ちゃんがうろついているような気がするんですよね。姿もたまに見えます」
俺は背後を振り返った。物が少ない和室。放置された神棚。あれは、仏壇と遺影だろうか。
国土信用師としての目に切り替える。ふっと、人が通った。男だ。老年で、腰が曲がっている。
「たしかに残っていますね、彼の記憶が。長年ここに住まれていたなら必然です」
「幽霊でも幻覚でもなかったんだ」
「少なくとも私には、彼と、奥様の記憶が見えます。若い頃のお姿も見えますよ」
家にはそこに住んだ人間の記憶が残る。霊とは違うから、彼らは何もしない。ただそこにある。
その記憶から、俺は「日本」や「大梅原」のタグを外していった。
「そんな古くまでわかりますか」
「一応プロなので。でも、鏑谷さんも感じられたのなら、もしかしたら私と同じ、国土信用師の素質があるのかもしれませんね」
「血縁だから見えたのではないんですか」
「記憶を感じることと、血縁は無関係です。感じにくい記憶、感じやすい記憶はありますが、それはもっと別の要因で決まります」
「そうなんですね」
「ええ」
お互いに頷き合うと、ふと静かな時間が流れた。信用師としての目を通して見れば、田畑やあぜ道を行き交う人々が動き回っている記憶が見える。
この家は村の外れの高台にあって、集落を見下ろせる場所のようだった。この縁側はさぞ気持ちのいい場所だったことだろう。
惜しいな、と切なくなったことは否めない。きっと美しい村だった。人々の生活が強く根を張り、昔ながらの文化や人間関係に一喜一憂しながら生きる人生が無数にあったのだろう。
だが、この村から人はいなくなった。我らが日本は少子高齢化と都市化の波で、地方では過疎化が急激に進んでいる。避けられない運命だった。
ここだけではない。日本全国で小さな集落は消滅の一途を辿っている。これからの国土信用師の仕事のうち、廃村処理はどんどん大きな比率を占めていくことになるだろう。
「ここ、好きだったんだけどな」
鏑谷の言葉に、横目を向ける。遠くを見るその表情には様々なものが混ざっていて、俺には正体を判じることができない。彼女には、在りし日の大梅原が見えているのだろう。俺に見えているものとは、また違う光景が。
「なくなっちゃうのか」
「はい」
「聞きたいことがあるんですけど」
「何でしょうか」
「遠藤さんが仰ったことを信じるとして、あなたはここを日本だと皆に信じさせるんですよね。こんな、誰もいなくなった土地を。それって、意味はありますか。それとも、意味がなくてもやるものですか」
意味がなくてもやるもの、という言葉は公務員的にとても心惹かれたが、今回はそういうわけではない。
「国土信用処理をされなかった土地は、潜在意識では日本と見なされません。国民が住むのは国土です。国土でなければ住もうとしない。私がここでやることは、逆信用処理と呼ばれる作業です。ここを日本だと信じさせないことで、新たな住民がつかないようにします」
悪い虫がつくような言い方になってしまったが、実際そういうことである。インフラ停止を進める中で、やっぱりやめろ、と言い出す者が出ないとも限らない。もしくは、インフラが無くなった後で住み始める者が現れてトラブルになってもよくない。
国土信用処理が外された土地には、愛着が湧きにくい。後のクレームを先回りして潰しておくためにも、まず逆信用処理を施しておくことが廃村化する際のセオリーになっている。
「それはどれくらいかかりますか」
「二週間か、三週間くらいですかね」
この仕事は期限が厳しくない。一か月以内に終わらせればよいと部長からは言われている。
簡単な仕事だと油断していたことは否めない。次に出る鏑谷の言葉が無ければ。
「そのお仕事、ついて回らせてもらってもいいですか」
「それは……え?」
◇
「それで、どうしたの」
大梅原を訪れた初日の夜、俺はビジネスホテルから通貨信用部の三輪に電話をかけていた。三輪とは同期にあたるので、よく相談ともつかない雑談をする仲になっている。
「連れて行ったよ」
「マジか」
「仕事を見せてくれたら村を出て行くって言われたんだ。強制退去させることもできないんだから、これが一番穏便だろ」
「そうだけどさ。見ていて楽しいものでもなくない?」
「俺もそう言ったんだけどな」
唸ってしまう。
国土逆信用処理は、派手なことをするわけではない。飛び回っている、もしくは土地に染みついている記憶を拾い集め、「日本」や「大梅原」のタグを外していく、非常に感覚的な仕事だ。ダイナミックな儀式もなく、傍目には、ぼうっと突っ立っているか座り込んでいるようにしか見えない。
「一応、その鏑谷さんも素質はあるようだから、何もわからないってことはないと思うけど」
「そうなんだ。珍しいね」
「2%を引いた」
信用師の素質を持っている人間は2%といわれている。その中からさらに、通貨信用師、国家信用師、国土信用師、神性信用師に適性に応じて配属が決まっていく。
俺は国土信用師と国家信用師の素質があって国土信用部の所属だが、三輪は通貨信用部と神性信用部の掛け持ちだ。しかも一時期は国土信用部と国家信用部にもいたオールラウンダー。
「あんたが逆処理している間、鏑谷さんは何をしているの」
「何も。ただ見ているというか、何か考えている」
「邪魔じゃない?」
「そうでもない。本当に黙ってついて来ているだけだ。今日はずっと公民館に座り込んで逆処理していたけど、飽きもせず一緒に座り込んでいたよ」
「怪しいね」
「そうなんだ」
「それで私に電話してきたわけだ」
「……そうなんだ。察しが良くて助かる。これからどうなるかわからないけど、後ろめたいことはないと主張しておきたくてな」
「奥さんに詰め寄られたときに庇えってことね」
「そうはならないと思っているけど」
女性と二人きりで長時間一緒にいるとなると、当然怪しまれることもある。俺としては誰もが納得する道を選んだつもりなのだが、それで問題が起きても面白くない。職務上の機密にあたるので妻にも気軽に話すわけにいかない、ということで選んだのが三輪だった。
「それにしても廃村化か。国土信用はどこまで失わせるつもりなの」
「90%ってところかな。それだけ下げておけば、住もうとする人間も出ないと思う」
「下げ過ぎも良くないもんね。その辺が妥当か」
「六年前の暴動みたいなことになっても困るしな」
六年前の暴動は、首都の西端に位置する市で架空物信用が急に失われたことが原因で起こったとされている。調査に向かった職員が巻き込まれて死亡する事態にもなった、大事件だ。
暴動の中では、少なくとも通貨、国家、国土信用がほぼ0になったことがわかっている。神性信用は、少し特殊な部署が管轄しているのでわからない。俺も当時の調査に加わり、暴動の外縁部を歩いたが、「日本」のタグはなく、感情だけが飛び回っていた。
人の記憶は、沢山のタグがぶら下がった人形のようなものだと、俺は理解している。大梅原でも、過去の人の記憶が、歩き回る等身大人形のように見えており、それらには「日本」、「大梅原」といった土地名のタグや、喜怒哀楽といった感情、記憶の持ち主の名前が見えることもあるし、強い感情を向ける相手の名前が見えることもある。
そこに「日本」のタグがつくことで、その土地は国土として信用を得られ、住民に国民意識や愛着を持たせることができるわけなのだが、かの暴動の現場では「日本」のタグが全く無かった。おそらく、国家信用処理が何らかの理由で崩壊し、巻き込まれる形で国土信用も消えたのだろう。
自分の住処である実感がなければ、建造物を大切に扱う気持ちは生まれない。日本に属していると信用できなければ、法を遵守しなくなり、力が支配する世界に変わる。刑罰を信じられないから、殺人だって平気で行う。暴動の内部は、まさに狂乱といった様子で、とても踏み込めなかった。
それでも、少しでも暴動を押さえようと、巻き込まれないように気をつけながら、飛び回る記憶に「日本」のタグをつけて回った。焼石に水だったのか、今でもわからない。暴動は、ある日を境に急激に鎮静化し、残ったものは架空物信用を失った土地と死体の山だった。
生き残った人々は廃人と化すか、自分でも何故こうなったのかわからない、とわななきながら証言する者ばかりであった。身を守っていたら、いつの間にか大きなうねりになっていた、生きるためには殺すしかなかった、と。
その後数か月は、暴動跡地の国土信用処理に追われた。後にも先にも、あれほどすっからかんに国土信用が失われた土地は見たことが無い。
その経験もあって、廃村化の際も、完全に国土信用を失わせるのは危険だと、今の国土信用部は考えている。
だから、一人くらい村に残っていても構わない。鏑谷の記憶は逆処理しないことになるだろうが、それくらいならば問題ない。むしろやり過ぎを防止する意味では丁度いい。
「その鏑谷さん、あんたが逆処理をやりきるまで見ているつもりなの?」
「そのつもりみたいだぞ」
「何が目的なんだろう。彼女の記憶は何て言っているの」
「俺はそこまで詳しく読み取れるわけじゃない。漠然とした喜怒哀楽がせいぜいだ」
国土信用師のスキルは土地が相手だ。目の前の人の記憶をリアルタイムで読むのは得意ではない。間接照明で本を読むような、回りくどさと難しさがある。そもそも、記憶を辿って居場所を見つけるような真似がそもそも応用なのだ。この技術は読心術ではない。
部長クラスともなればわかるのかもしれないが、俺や三輪レベルではとても無理だ。
「最後までついて回るなら、少なくとも二週間はある。気長に探るさ」
国土信用師の技術ではなく、一人の人間として。俺たちには会話というツールがあるのだから。
「貸し1ね」
「はいはい」
こうして三輪に、返した覚えのない貸しがたまっていく。
◇
翌日も公民館から始めた。持ち込んだ折り畳み椅子に座り込んで逆処理を進めていく。昨日一日でかなりここのタグは外せた。昼前になると鏑谷もやってきた。気のせいかふらついているように見える。
「どこに泊まっているんですか」
「どこって、お祖父ちゃんの家に決まっているでしょ。あ、今はお母さんの家か」
「長い間手入れされていなかった家によく泊まれましたね」
鏑谷は気怠そうに髪をかき上げた。朝は苦手なのだろうか。声も心なしか小さい。
「長い間といっても、人が住んでいない期間は二年くらいだし、たまに掃除していたんだよね。そんなに長居するわけでもないから、別に問題ないよ」
「そうですか」
ネズミや虫が出なかったのだろうか。鏑谷の外見からはそれほどタフな印象を受けなかったが、案外図太いのかもしれない。俺はそんなボロ屋での宿泊は遠慮したい。
「話しかけていいの?」
昨日は敬語だったのだが、今日は一転してタメ口になっている。ならばと俺も敬語を使うことをやめた。
「どうぞ。話しながらでも仕事はできるから」
「じゃあ、気が向いたら話しかけるね」
そう言って、鏑谷はまたしゃがみ込んでぼんやりと遠くに目をやる。昨日に引き続き、何を考えているのかわからない。
注視されているわけではないが、素人に見られながらの仕事は初めてで少しだけ緊張する。どのみち鏑谷に俺の仕事の進捗はわからないとはいっても。
そう思った矢先に話しかけられた。
「ここ、昨日と雰囲気が違うね」
「わかるのか」
少し意外で声が上ずってしまった。素質があるといっても、何の訓練も受けていない人間が感じ取るのは簡単ではない。
「なんとなく。入った瞬間、薄いっていうか、抜けている感じがした」
思った以上に鋭敏だ。
「俺がしていることが、まさにそれだからな。「日本」のタグ、「大梅原」のタグを外して、人々の記憶からこの土地を消すんだ」
「そんなことができるの?」
「あくまで感覚の話だからな、わかりにくい。でも、できる」
俺は何かの宴会の記憶からタグを外す。この行為を延々と繰り返すことで逆処理が進む。鏑谷風に言えば、抜けていく。抜けが進めば、やがてこの村自体、居心地が悪くなっていくだろう。縁側から見下ろす景色に心地よさを感じなくなっていく、ということでもある。
「よくテレビの心霊番組なんかで、廃村でロケすることあるだろ」
「そういうの怖くてあんまり見ないけど、ありそう」
「あれは国土信用師の知識があると意味がわかるんだ。廃村というのは逆処理を施された記憶だらけだから、あんたが言ったように、タグが抜けた記憶で埋め尽くされている。人はそんな土地にいると不安になって避けたくなる。不自然な、嫌な空気を感じるんだ。敏感な人間ならば、残った記憶を捕まえて幽霊らしきものも見える。人が少ない土地では、人の記憶を感じやすくなる傾向もあるから、そのせいでもある」
「そうなんだね」
気の無い返事に、俺は口を閉じた。てっきり、俺の仕事に興味があるからついて来ているのだと思っていたが、それならばもう少し身を乗り出すだろう。鏑谷の口調はまるで上の空で、俺が何を言っても「そうなんだね」と言いそうな気がする。
俺の仕事に興味があってついて来ているわけではないのか。
その後俺が黙っていても、鏑谷は気にせず少し離れた場所で俺を眺め続けた。ただ、その目に俺が映っているようには思えなかった。
昨日、三輪と話してからずっと、俺は鏑谷の目的を考えている。廃村が決まった村に滞在し、突然現れた国土信用師を名乗る男に付き纏う女。出て行くのであれば早く準備をしないと、この村は水も電気も止まる。今だって、バス停の一つもなくなった不便な村なのだ。
俺の仕事を見せてくれたら村を出て行く、鏑谷はそう言った。
ただの、この村に留まるための時間稼ぎか?
答えは出ないまま、俺は黙々と逆処理を進め、鏑谷は何かを考え続けるような素振りをしていた。
公民館がひと段落ついたので、午後からは一軒一軒の庭先で逆処理をしていくことにした。各家に根付いた記憶も多いし、どちらかというとそちらがメインだ。それら一つ一つの記憶からタグを外して回る。俺の後ろには鏑谷が付いて回り、その様子を見ていた。
逆処理に疲れたらなんとなく話しかけ、鏑谷は半分くらいの集中力で答えを返した。
「あんたの仕事は?」
「働いていたら、こんな時間に、こんな所にいないよ」
「無職なのか」
「そんなもん」
若いのに、という言葉が出かけた。
「ずっと無職なのか」
「そういうわけじゃないけど、今は休職中」
「そうか。休みも必要だからな」
「うん」
なぜかその日は、あっという間に夜になった。廃村の逆信用処理は、長く、退屈な仕事なのだが、話し相手がいたからだろうか。
帰りの車の中で、もしも一人だったなら、と想像してみる。
自然の音だけが聞こえる無人の村で、一人で延々と人々の記憶を欠けさせていく。それは、とても空しくなる作業である気がした。国土信用師の数は多くないが、二人以上で取り組むべきだと、部長に進言してみるのも良いかもしれない。
◇
鏑谷は基本的に朝が弱いようだった。遅いときは午後になって現れることもあった。狭い村なので、俺の姿を探して歩けばすぐに見つかる。
雨の日は現れなかった。こちらは仕事なので、雨の日でも傘と雨具でしのぎながら逆処理をしていくのだが、鏑谷はただのギャラリーだ。いなくても責めることではない。一応、一日の仕事を終える前に、家に寄って挨拶して帰ることにしていた。村にいるのかどうか確認する意味合いもある。
大梅原の逆処理を始めて一週間、その日の鏑谷は朝から様子が違った。
「機嫌がいいな」
「まあね」
軽快な声が返ってくる。
表情、歩き方、声のトーン。それらで体調を察することができるくらいには、俺たちは顔を合わせていた。
「いいことでもあったのか」
「そうとも言えるかな」
鼻歌でも歌いそうな足取りでついてくる。今日は墓地から始めることにしていた。いきなり辛気臭い場所に俺が行っても鏑谷は気にする様子もない。むしろ珍しく向こうから話を振ってきた。
「墓地ってさ、幽霊が出るんじゃないの。遠藤さんの技術って霊感みたいなものなんでしょ」
俺は話しかけられたことにまず軽く驚いて、逆処理をしながら答えを考える。
「少なくとも俺は、幽霊に会ったことがない。それに、心霊番組で廃村は定番だけど、墓地って、案外取り上げられないぞ」
「そうかな。そうかも」
「墓地に残っている記憶は、喜怒哀楽で言えば哀なんだけど、それだけだ。どれも生きている人間が死んだ人間に向けたもの。ただの悲しい場所ってだけだよ」
「幽霊の記憶って無いの?」
「え」
意表を衝かれ、つい逆処理を止めて鏑谷の方を向いてしまった。考えたこともなかった。
腕を組んで答えを探す。
「無い、と思う。いや、知らない間に素通りしていた可能性は否定できないか。そもそも、幽霊が存在するとも、俺は信じていないわけだけど」
「私みたいな一般人からしてみれば、お祖父ちゃんの姿が見えたり、人の気配がしたり、ほとんど幽霊と違わないものなんだけどな」
そう言われ、咄嗟に否定できない自分に驚いた。本当に、一度もじっくりと考えたことがなかったのだ。これは怠慢と責められても文句を言えない。
「幽霊を、生きていた頃の記憶の残滓、とでも定義付けすればその通りかもしれないが、やっぱり、印象が違うな。死んだ人間の霊魂が意思を持って動き回って、その記憶を残していくなんてこと、俺は感じたことがない。六年前の暴動のこと、覚えているか」
「知らない方がおかしいよ」
「あの暴動が鎮まった後、俺たちは暴動の中心地であった、西笹原市にチームで入ったんだ。大勢が死んだ事件だったけど、感じた記憶は全て生きていた人間のものだったよ」
残っていた記憶は、新しかったが混沌としていた。怒り、恐怖の感情。逃避、殺害、強奪、自殺の記憶。高層マンションからボロボロと落ちる人の記憶が見えたときは、神経の細い職員は涙が止まらず動けなくなった。
俺もまた、しばらくは睡眠不足に悩まされることになった。幸い、同僚と同じ辛さを共有できたため、大事には至らなかったが、これまでで一番辛い仕事だった。
「そっか。死人は記憶も残らないんだ。死んだら、本当に何も無くなるんだね」
「ああ」
「良かった。死んでまで苦しむこと、ないよね」
そもそも死ぬことはない、と言いそうになってやめた。あの暴動は特殊な事例だった。本当に自殺したくて身を投げた者がどれだけいたのかわからない。大半は、無くなった架空物信用のせいで、正常な判断をできなくなっていたのだと思う。死は本人の意思と無関係に襲ってくることだってある。
だからせめて、言えることを言う。
「死にたくない人が死ななくて済むようにするのも、俺たち公務員の努めだ」
「死にたい人は?」
はっと顔を上げると目が合った。にこりと笑顔を返される。
妻から学んだことだが、笑顔を浮かべている人が喜んでいるとは限らない、特に女は。
「死にたい人は、死にたいままだ。それは心の弱さじゃなく、心の有り様だからな。他人がどうこうできるものじゃない」
「止めるって言うかと思った」
「止めるって言って欲しくなさそうだったからな」
鏑谷は寂し気に微笑んで、「そっか」とだけ言った。俺は目の前の民家の逆処理を切り上げ、次の家に行く。
「遠藤さんの仕事が進むほど、人がここに住みたくなくなるんだよね」
「そうだ」
次の家は大きな蔵があり、家屋も二つが繋がっている立派な家だった。だが、感じる記憶は孤独なものが多い。老年を一人で過ごした女性の姿が見える。
「でもさ、ホームレスが入り込んで住み着くことはあるんじゃないの」
「あるな。彼らの多くはほとんど納税していない。だから国民意識がないんだ。そりゃ、聞けば日本人だと答えるだろうけど、国からの助けを得ていない人間が、国家というものに依存するとは思えない。国土とは、国家に属する人間のための架空物だ。だから、ホームレスが住み着くことは考えられる」
「住み着いちゃっていいの?」
「別に俺は構わない。自治体も気にしないさ。彼らのために税金が使われることはほとんどないからな。この廃村化の最大の目的は、インフラの放棄にある。具体的には電気、上下水道、道路の整備だ。それさえ止められるなら、ホームレスが多少入り込もうが問題にはならない」
「ふうん。ホームレスにも人権はあると思うけど」
「生活保護を申請すればいいのさ。そうすれば国民意識が芽生え、国土に住むようになる。精神的にも、制度的にも国家の一員として認められる。ただ、ホームレスになった人間の大半は、生活保護を受けたくないと思っているみたいだ」
「どうしてだろう」
「国家に所属するのが嫌になったんじゃないか。日本にいる以上、労働は半強制だし、守るべき法は多い。社会に所属する面倒さってのも、あるんだろうよ」
あるいは、国家信用処理に違和感を覚え、抗っているのか。長いものに巻かれる派の俺には、そうまでして抗う気持ちはわからない。
「私は少し、気持ちがわかる気がする」
「そうなのか。俺にはデメリットが多すぎる気がするが」
「私は日本でしか暮らしたことがないから他の国とは比べられないけど、なんていうか、少し息苦しい。常識が一つしかないような」
俺は視線を家屋に向け、着々と逆信用処理を進めていく。
国家信用処理も国土信用処理も、言ってしまえば、「お前は日本国民だ」と思い込ませる行為だ。何をもって日本国民なのかというと、それは、同じものを信じているかどうかだと、俺は解釈している。
新人研修で使われる表現に、「信仰をつくる仕事だ」という言い方がある。なかなかに的を得ている。我々は日本人であるという信仰をつくり、そして知らぬ間に押し付けるのが信用師の仕事だ。
信仰の内容は、「和を貴ぶ」であったり、「日本国憲法を遵守する」であったり様々だろうが、皆で同じ信仰を共有することに変わりはない。
鏑谷が言った、常識が一つしかない、という言葉に込められた感情が、俺の推測と合致しているのか、それはわからない。答え合わせをするわけにもいかない。
俺たち信用師のせいで息苦しさを感じているとわかったら、余計な反発を生みかねない。
この仕事が終わるまでは、良好に、無難な関係を継続するべきだ。円満に村を出て行ってもらうために。
「考えすぎじゃないか。常識なんて、土地や風土によって違うだろ」
「うん。でも、根底には同じものが流れている気がする」
内心舌を巻いた。それこそが国家信用処理の効果だ。
「そうかもしれないな」
そうなのだと、わかっていて言い切らない罪悪感も、俺の作業を淀めはしない。それほど初心じゃない。
仕方がないことだ。思想と行動の多様性は認めるべきだが、それは結局のところ、日本という国家が認める範囲内で収めるしかない。
「どこでもそうなのかもしれないぞ」
どこの国に行っても、架空物信用局はあるのだから。
俺たちは村の中心にある、古い梅の木の下に立っていた。大梅原の名前の由来とも言われる樹で、樹齢はよくわかっていない。大部分がスカスカに枯れていて、大きい梅というよりもしぶとい梅という印象だが、かつて大きかったことは察せられた。
「国土処理されていない場所って他にもあるの?」
俺は梅の樹の下で日差しを遮って立ち、鏑谷は周りをうろついていた。
「国土信用処理な。廃村化した場所、それから、近づかれたくない場所は、国土信用が低い」
「近づかれたくない場所?」
「近づきたくない場所と言ってもいい。日本各地に、聖域ってものがある。古くから、人間が近づかなかった、本能的に近づきたいと思わなかった領域だ。山の中や、絶海の孤島、洞窟なんかに多い」
「パワースポットみたいな?」
「もっと神聖で、もっと怖い場所さ」
鏑谷が悩まし気に首を傾げる。
この梅の樹は一種の信仰対象となっていたようで、村人たちの記憶が集まっている。何百年も蓄積された祈りは、簡単に逆処理しきれない。
「俺たち国土信用師がどれだけタグ付けしてもいつの間にかタグが外れる場所がある。人が踏み入っても、なぜかその記憶は残らない。そんな不思議な場所が世界には点在している」
「それが聖域?」
「国土信用師の間で、便宜的にそう呼んでいるんだ。まるで国土にされることを拒むかのような土地。神様でもいて、人間の土地にはならないって言っているみたいだろ」
「そうだね」
鏑谷は立ち止まり、梅の樹を見上げた。
「じゃあ、遠藤さんがこの樹からタグを外せるってことは、この樹は神様じゃないんだね」
「今日はやけに察しがいいな。そうだと思う。どれだけ祈られても、これはただの梅の樹だ。神にはなれない」
神性信用部という、神の存在を信じさせる部署もあるのだけれど、そこも神を生むわけではない。信じさせるだけだ。
ここの村人がただの梅の樹を信仰したように。
あの部署は兼部だらけのくせに閉鎖的で、何をしているのか、架空局で十五年働いてもほとんど掴めない。
一応、目星がついていることもあるのだが、鏑谷に話すことでもない。
「気になっていたんだけどさ、沖ノ鳥島ってあるじゃん」
俺は頷く。当然知っている。日本の領土最南端の島だ。国土信用師としては最低限未満の知識。
「あそこも遠藤さんみたいな人が行って、ここは日本ですよ、ってタグ付けしているのかな」
「ああ、している。というか、俺も行ったことがある」
「本当に?」
「護岸工事業者なんかが近づいているからな。海上に人の記憶はあるんだ。それに国土信用処理をかけたよ。さすがに、この村みたいに大量の記憶が残っているわけじゃないから、ごくごく薄い処理だったけどな」
「ええ、いいなあ。どんな場所だった?」
「何も無くて退屈な場所だった。死ぬほど待ちくたびれた」
俺の感想が不満だったのか、鏑谷は口を尖らせた。
「この仕事をしていると、無人島や離島によく行く。本土は特に管理しなくても安定しているけど、国境沿いの離島は、隣国に奪われないようにしないといけないから結構重要なんだ」
「奪われることがあるの?」
「戦後は、奪われたことはない。でも、危ないことは今もたまにある。無人島に隣国の国土信用師がいつの間にか入っていて、タグがほとんど書き換えられていたって事件はあった。十年くらい前になるか」
「全部書き換えられたらどうなるの」
「実際のところ、すぐにどうこうなるわけじゃない。国際法で決めた国境が書き換わるわけじゃないからな。でも、いざ攻められたとき、防衛しようという士気が上がらない。逆に、国土信用処理を施していれば、防衛のため、士気高く戦うんだそうだ」
「本当に?」
「さあな。知らないよ、実際どうなるかなんて」
俺は戦争を経験していないのだから。
俺の言い方が不満だったのか、鏑谷はふん、と鼻を鳴らした。
今日は随分とテンションが高い。
「ただ、良くない影響が出るのはたしかだ。その良くないことが起きないようにするのが俺たちの仕事なもんでね」
「でしょうね」
空がだんだんと暗くなってきていた。沢山のトンボが飛んでいる。人がいなくなった土地は、あっという間に動物や虫たちが勢力を広げてくる。そういえば、虫や動物の記憶を感じたこともない。なぜなのか、今度、同僚と議論してみよう。
太陽の下端が山裾に達した。これから一気に暗くなる。街灯が無いこの村では、暗くなったら仕事はできない。今日はこの梅の樹で終わりだ。
「晩飯でも、一緒に食いに行くか」
「はあ?」
鏑谷は目を見開いて、ついでに口も開いて俺をまじまじと見た。
予想外の大きなリアクションに、俺も驚いて軽く身を引いた。
「何だよ」
「ごめん。あまりにも意外で」
「そんなにか」
「遠藤さん、他人に興味あったんだ」
「当たり前だろ」
鏑谷は含むように笑った。何が可笑しかったのかわからないが、やけに笑いが止まらない。
「いいよ」
「言っておくが、俺は結婚して子供もいる身だから、変な勘違いするなよ」
「既婚者だったんだ。それも意外」
「さっきから失礼なことを言われている気がするんだが」
「だって、遠藤さんって全然笑わないんだもん」
「笑うタイミングが無かったんだ」
「愛想笑いの一つもしないのは失礼じゃないの」
俺は鏑谷に会ってからのことを高速で思い返した。
さすがに社会人として、初対面相手に仏頂面ばかり見せていたなんてことは……。
「……たしかに、少し失礼だったかもしれないな」
笑顔をつくった記憶は、無かった。
俺のレンタカーに鏑谷を乗せ、街に下りていく。連れて行った場所は、この一週間俺が世話になっているレストランだった。
「ファミレスじゃん」
全国チェーンの有名なファミリーレストランである。
「安くてそこそこ美味い」
「そうだけどさ」
「変な勘違いはするなと言っただろう。だいたい、俺みたいな余所者が、現地のいい店を知っているわけがない」
「今はネットで何でも調べられる時代なんだよ」
「正直に言うと、食に大して興味はないんでね」
「それは特に意外じゃない。まあ、いいけどさ。肩肘張らなくて気楽だし」
注文した料理を待ちながら、話題は俺の家族のことになった。
「奥さんとはどこで知り合ったの」
「ヘリの中」
「場所を答えられるとは思わなかったな。普通、状況を答えるものじゃない? しかもヘリの中って、どういうこと」
「彼女はヘリコプターのパイロットなんだ」
「すっご」
初対面の記憶は無いに等しい。女のパイロットは珍しいな、くらいは思ったかもしれない。
「昼間も話したが、国土信用師は離島によく行く。その際、ヘリで移動することも多いんだ。何度か、彼女が操縦するヘリに乗ってな、まあ、そのうちに、だ」
「そのうち、で結婚しないでしょ。最初のデートはどっちから誘ったの」
何をもってデートというのかわからないので、二人で出掛けることを定義にしてみる。
「俺からだ」
「へえ、そうなんだ。また意外かも。どういう流れで」
「ヘリを降りて休憩していたらばったり会ってな。俺はヘリを飛ばす仕事について聞きたかったから、飯でも一緒にどうかと誘ったんだ」
「素直にお話したかったから、でいいのに。どんな場所に行ったの。和食? 洋食?」
俺は目線を上げてぐるりと見渡す。
「ここと同じチェーンのファミレスだ」
「呆れた」
鏑谷の表情が予想通りすぎて苦笑が出た。絶望したかのように顔に力が入っていない。
「よく結婚してもらえたね」
「自分で言うのもなんだが、そんなに悪い男じゃないぞ、俺は」
「もう一週間も家を空けているのに?」
「仕事なんだから仕方ないだろう」
彼女の実家が首都にあるので、子供が小さいうちはよく預けた。彼女は出産後も現役でヘリを飛ばし続けているため、俺たちは二人とも移動が多い。
似た境遇だからこそ、不満をぶつけ合わずに済んでいる。浮気を疑われることもない。妻いわく、俺はシチュエーションづくりが致命的に下手な人間だから、浮気しようとしても上手くいくはずないのだそうだ。
店員が持ってきた料理を食べ、その後も妻のことや子供のことを聞かれ、夜が遅くなる前に俺は伝票を取った。
「ご馳走様です」
「奢らんぞ」
「そうなの?」
「公務員がそれをしたら賄賂になる」
俺はクレジットカードで支払いながら言う。
「だったら最初から半分出すのに、見栄っ張り」
車の中で鏑谷の食事代分を受け取り、大梅原に引き返す。
「夜の大梅原はどんな感じなんだ」
「静かだよ、とっても。今は虫の声がよく聞こえてね。テレビ消して、それを聞きながらお風呂上りを過ごすのがいいんだ」
鏑谷を街灯一つ灯っていない村に送り届け、俺は街に下りていく。バックミラーに映った鏑谷は手を振っていたが、あっという間に闇に紛れて見えなくなった。月明りしかないこの村は、もはや近代的な暮らしを拒絶し始めている。
途中でコンビニに寄り、封筒と切手を買った。鏑谷から受け取った小銭を入れて、駅前で見つけたポストに投函する。
車に戻り、息をついてハンドルに額を乗せた。
鬼が出るか、蛇が出るか。
綺麗な魚が出ることはないだろうと思いながら、連泊しているビジネスホテルに戻っていく。
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