第4話 国家信用師―革命の歌—(後編)
フランシスとの再会はすぐだった。
建国記念祭を来週に控え、首都では式典の準備が進んでいた。革命の象徴とされている「青の広場」に屋根付きの仮説ステージが建設されている。ここで大統領や来賓の演説に始まり、歌唱、舞踊、演劇が上演されることになっている。フランシスの国歌独唱はプログラムの最序盤。大統領演説の前振り的な位置にある。
今日はそのリハーサルのために、フランシスが首都へ来ていた。僕とミラは、ステージ上で動きを確認する彼女の姿を一目だけ見て、その場を離れた。そのために来たのは単に、ミラがフランシスの姿を見たがったためである。
当日は大勢の来賓や国民が押し掛けることになるだろうし、僕らは近くで見られるような地位でもない。直接イベントに関わっているわけでもないので、舞台裏を見られるような役得もない。テレビ中継される映像を、他の国民と一緒に見るしかない。
サングラスをかけて顔を隠し、ラフな服だったが、ミラはフランシスのその姿にむしろレア感を覚えたらしく、庁舎への帰り道はずっと興奮していた。フランシスに信用師としての才能があると知ってから、ファン熱が止まらなくなっている。
「格好いいなあ。信念があるっていうか、本物、って感じがしますよね」
「そうだな」
人に本物も偽物もないだろうと思って苦笑すると、敏感に察知された。
「今、私のこと馬鹿だと思ったでしょう」
「思っていないよ」
「いいえ、思っていました。コーさん、たまに私を馬鹿にした目で見るの、気づいていますからね」
「それは被害妄想だ」
「女の勘を舐めないでください」
ギョッとした。日本から遠く離れたこの国で同じ例えを聞くことになるとは。その反応をどう解釈したのか、ミラは勝ち誇った顔で笑う。
「絶対成功しますよ」
国家信用処理は積み重ねであり、一発で成否が決まるものではないと知っているはずだが、そこまで訂正するのは野暮に思えて僕は笑顔を浮かべるだけにした。
ミラを見ていると、国家信用師という、成果がわかりにくいこの仕事にも活力が湧いてくる。信用処理は日本よりずっと上手くいっていないが、コツコツと、できることを積み重ねることにやりがいを覚える。
来てよかったな。
庁舎の国旗が見えてそんな感情が去来した瞬間、背後から爆発音が響いた。
腹に響く、重低音が足元を伝って僕らの体を揺るがす。咄嗟にミラの体を抱えてしゃがみ込んだ。
「何かありましたね」
意外にも、ミラは落ち着いていた。僕の方がよっぽど動揺している。ミラは元来た道を駆け出し、僕は数瞬遅れて我を取り戻し、後を追った。運動不足の体だったが、走ってくれた。
人だかりを探せば爆発があった場所はすぐにわかった。「青の広場」だ。そして、鉄の塊と化した仮説ステージが目に入る。
「なんだよ、これ」
近くに寄った僕は呆然とした。
ステージの足場がひしゃげ、地下から突き上げられたようにステージが盛り上がっていた。小さく噴火でもしたかのようだ。そのエネルギーの名残に、次の言葉が出てこない。
「爆弾ですね」
ミラが淡々と言った。そうだった、この子は血が流れた革命を見て思春期を過ごした世代なのだ。
ミラの言葉を受けて見るとよく分かった。ステージと地面の間に爆弾が仕掛けてあったか、投げ込まれたのだとわかる。ステージの足場が上向きに、噴火したようにひしゃげているのはそのためだ。
救急車が既に数台停まっており、やがて走り出した。怪我人を連れ出すと、今度は軍の人間がやってきて現場を検証し始めた。
「こういうことは、よくあるのか」
「まだ、たまに」
ミラが無表情で言うその言葉の裏側に眠る物が深すぎて、僕は慄いてしまった。
「なんていうか、冷静だな」
「私は首都で生まれ育ちましたから」
「そうか」
革命の舞台となったのは、ここだ。
この「青の広場」では軍部と革命派との武力衝突もあったと聞いている。そして革命派が勝利した。だからこそ、建国記念祭の舞台となった。
「どうして本番ではなく、こんなタイミングを狙ったんだ」
「本番は警備が厳重になりますから。誰かを暗殺することではなく、建国記念祭を頓挫させることが目的なんだと思います」
「建国記念祭はどうなるんだろうな」
「わかりません」
僕らはできることも見る物もなくなって、庁舎にとぼとぼと帰った。
こんなことがあるのか、なんて陳腐なことを思いながら。
急に、日本という平和な国にいたことが恥ずかしくなった。潰れかけのステージが脳裏に現れては消える。自分がとても小さな人間に思えた。
庁舎に戻ると、パドレとドミーが心配して待っていた。僕たちが無事だとわかると、今度は暗い顔でパドレがミラに告げる。
「爆弾で、フランシスが怪我をしたと連絡があったよ」
ヒッとミラが身を竦める。パドレは宥めるように両手を突き出した。
「命に別状はない。軽傷だ」
ほっと息を吐くミラを横目に、僕は聞く。
「建国記念祭はどうなるんですか。ステージは使い物にならない有様でしたが」
答えたのはドミーだった。
「何としても開催するさ。今から不眠不休で再設営するんだよ。国家の威信がかかっている。工事業者にどんな無茶もさせて、警備体制を強化して、予定通り行うはずだ」
国家の威信。僕には馴染みがない、というか日本では示す必要がなかったのだが、今のアジュールには必要なものだ。警察や軍による力を国民に示すことは、国家信用処理の観点からも有効である。国家の名のもとに機能する組織が力強く存在することを示すことができるからだ。
「だが、フランシスは歌えないな」
「どうして」
「攻撃目標が彼女にあるかもしれない。タイミング的に、建国記念祭の妨害がテロリスト、つまり前政権派たちの目的だろうが、フランシスを狙った可能性も否定できない。怪我のこともあるし、彼女はいい意味でも悪い意味でも目立つ。しばらくは身を潜めていた方がいいだろう」
気の回る大男が言うことはもっともだった。
僕の中にあった、フランシスの歌声が国中に広がって信用処理を進めていくイメージが崩れていく。勿体ない。どうせならもっと大物政治家でも狙えばいいものを。狙ったものがステージで、その巻き添えを食らうとは彼女も運が無い。
いや、運が良いから軽傷で済んだとも言えるのか。どちらなのか、それはテロリストに聞いてみないとわからないが、わざわざ国民に人気の歌手一人を狙ってテロを起こすとは考えにくい。デメリットの方が大きい気がする。
やはり、巻き込まれたのか。
フランシスが国家信用処理の素質を持っていることはパドレやドミーにも話してある。僕と同じように思っているのだろう。架空局は重い沈黙に包まれた。
その沈黙を裂くように電話が鳴った。電話に一番近かったパドレが取る。それを以って各自がデスクに散った。落ち込んでいても始まらない。各校への国旗配布だってまだ途中なのだ。
「はい、架空物信用局。……はい、私が局長です。……え、ちょっと待ってください」
一度は散った僕たちの意識が、再び集まる。パドレが電話で困惑するのは珍しい。
「そんな……、いえ、その通りですが……承知しました」
挨拶もそこそこに相手は電話を切ったのか、パドレはしばらく受話器を持って立ち尽くしていた。
「何の電話だったんですか」
聞いたのは僕だが、ミラとドミーの目もパドレに集まっていた。
「歌手を探せ、と」
「は?」
「国歌を歌う歌手を探せとのお達しだ。国家信用処理なんだろう、と」
僕らは唖然とした。言っていることはその通りだ。建国記念祭で国歌を歌うことは国家信用処理である。だが、その歌い手を探せだと? いきなりどういう風の吹き回しだ。
「実行委員会はパンクしているんだ。会場再設営、出し物のリハーサル場所の確保、警備体制の強化など、対応に追われている。外注できるものは任せようということだろう。正式な任命はすぐにメールで来るそうだ」
パドレが目頭を揉んで自席の椅子に倒れるように座り込んだ。
「爆弾は有効だったみたいだな」
ドミーが零した一言が、アジュール政府の現状を表していた。たった一発で混乱を引き起こした。それだけ、アジュール政府には余裕がない。
内情を、よく知られている。
ドミーが文字通り頭を抱えた。
「ウチに歌手とのコネクションなんて無い。そもそも、有名な歌手は革命のときに国を出たし、何せ一週間後だ」
パドレがようやく受話器を置いて言う。
「ドミー、悪い条件を数えても仕方ない。今からでも探そう。プロダクションを総当たりすれば一人くらいいるだろう」
僕はミラに耳打ちする。
「芸能プロダクションって、今のこの国にあるのか」
「一応は。でも、今から見つけるとなると、仕事を探している若手くらいしか……」
架空局に気まずい沈黙が流れた。知名度が確保できないとなると、出席者、国民からは「誰だこいつは」と思われるのか。
フランシスとの落差に崩れ落ちそうな気がした。
正式なアサインメールが来たのが三時間後。そこに記載されていた報酬などの条件を基に歌手を探していく。要するに電話をかけて回るわけだが、芳しくなかった。テロのことは首都で既に知れ渡っており、どのプロダクションも、爆弾が投げ込まれたステージに歌手を送り込みたがらなかった。こちらが用意できる報酬も、実際、大した額ではない。
「国歌を歌っても、宣伝効果ってほとんど無いんだよなあ」
自分の持ち歌でも披露できれば違うのだろうが、国歌は短い。歌う側にメリットが少なすぎる。国家信用処理が充分に行き届いていれば、愛国心や国のために、という動機でやってもらえたかもしれないが、それを望めるほどの信用処理は進んでいない。致し方ないこととはいえ、架空局の力不足が招いている状況であることもたしかだった。
散々渋られていると、こちらも気が萎えてくる。淡々と電話をかけるドミーとパドレの精神力を尊敬した。
電話をかけ終わって、何度目かの溜息をついたパドレに、僕はずっと考えていたアイデアを、おそらくこの場にいる全員が思いついていたアイデアをぶつけることにした。
「パドレ、誰が歌っても知名度が低いなら、架空局として最善の方法を選ばないか」
パドレと視線が絡む。彼もわかっている。誰が言い出すかの問題だったのだ。
「ミラにやってもらおう」
パドレもドミーも、彼女を娘のように大切に思っている。だからそんな大それた舞台に送り出すなんてこと、そんなプレッシャーをかけること、言い出せなかった。
これはきっと、僕にしか言えない。一人の信用師として、ミラを見ている僕にしか。
「国家信用処理の観点から言えば、ミラが歌うのが最も効果的だ。たとえ歌手を捕まえられたとしても、信用処理の素質がある可能性は限りなく低い。ならば、素質があるミラが歌うのが、最もこの国のためになる。彼女には、その実力がある」
この半年、僕と真白が育ててきた。ミラには、信用師の実力が育っている。無意識に素質を使っているフランシスよりも効果的に国家信用処理を進められる。
気づけば全員が電話を止めていた。ミラは自分の手元をじっと見つめている。
「コー、君でもできるのではないか」
「それは、できます。でも、僕がやるわけにはいきません。僕は日本人です。この国の人間がやるべきだ」
できるできないではない。誰がやるかが問題だ。
純粋に、僕のような日本人がステージに現れて国歌を歌えば困惑を広げるだろうし、とても受け入れられないだろう。せめてアジュールの国民でなければ。
そうでなくても、その後の自信が変わる。自分たちの力で掴み取った安定なのだと、自信を持って言えることが重要だと、僕は思う。それはパドレとドミーだってわかっているはずだった。彼らは思慮深い。
「ミラ」
パドレが優しい声で言う。
「どう思う」
ミラが顔を上げる。その眼差しに恵が重なり、僕は目を閉じた。
僕らは答えを知っていた。
パドレがどうやって上に報告したのかわからない。だが、ミラが国歌を歌うことはその日の内に承認された。実行委員会は既に、体裁だけでも開催できればよいと思っている。
今日も今日とて、僕とミラは庁舎に国旗を掲揚する。この半年間、ほとんど毎日掲げてきたこの作業中、僕は国家信用処理をミラに教えてきた。コツと本質さえ掴んでしまえば、手で触ろうが声を使おうが関係ない。
「意識することは変わらない。注目を集めることだ。国旗でも国歌でも、国民の意識をシンボルに集めること、それが国家信用処理の本質だ」
これまで何度もやってきた講義の繰り返しだ。今日は教えるためではなく、復習するために話している。
「そのために必要なことは、感覚。土地に根付く、地層のように重なった、人々の意識の変化を感じ取ること。それが感じ取れたなら、集めた注目を一番上にそっと置いていく」
国旗を掲げるワイヤーを二人で引く。この首都に根付く人々の国家意識は、やはりまだまだ前の国だ。この国旗を、その意識の上に柔らかく、決して無理に押し付けることなく置くイメージ。
「それを、歌で行う」
「はい」
「ミラには、それができる」
「歌でやったことはありませんが」
「国家意識の地層さえ感じられればいい」
日本の架空局では、国家信用処理の際に使う感覚で見えるモノを、国家意識の地層と呼んでいる。
一番上の層が現在の国家意識。日本は長らく安定しているので、深く潜って行っても、大戦敗北時まで遡らないと揺らぎは見えない。
ただ、沖縄に出張したとき感じたものは、まさに歴史通りだった。日本の下にアメリカがあり、その下の僅かな期間に混乱期、―—戦時中だと思われる――そして日本に戻り、さらに潜ると琉球王国の余波のようなものを感じることができる。
あとは北海道の北方領土が気持ち悪いことになっていたり、台湾も日本が占領していた歴史があって興味深い地層をしている。台湾は特に親日派ということもあり、古い層が今も強く最上層に影響を及ぼしている。
この、国家意識の地層を感じることさえできれば、国家信用処理を会得したも同然だ。この国の首都は毎日見てきた。まだ最上層、アジュールの層は薄氷のように頼りない。首都を離れればなおのこと。
「まず、あまり目標を高くするのはやめよう。現状を維持できればそれで充分なんだから」
国家信用処理は一朝一夕で進むものではない。この国の人々が歴史をつくり、文化をつくり、段々と国家を受け入れていく。国家信用師にできるのはそれを後押しすることだ。主役は国民なのである。
「それより、歌は得意なのか」
「普通だと思います」
「そっちの方が問題かもしれないな」
早速ボイストレーナーを探してミラを教室に放り込んだ。国民全員の前で歌うのだ。最低限の歌唱力は持たせてやりたい。
ふらふらになって戻ってきたミラに、ドミーは仕立て屋を呼んだ。本番で着る服がないだろう、と。ドミーに親指を立ててグッジョブと伝える。僕は完全に見落としていた。大急ぎで作ってもらう。
「喉が……、喉が……」
声帯が疲れて小声になっているミラに、パドレは喉にいいというお茶を淹れて振舞った。それを啜りながら、ミラは不思議そうに言う。
「みんな、張り切っていますね」
僕ら男三人は顔を見合わせ、苦笑を付き合わせた。
代表するかのようにパドレが破顔する。
「大事なミラの晴れ舞台だからな。できることはしてやりたいのさ」
ドミーは大きく頷き、僕は照れくさくて頬を掻いた。
アジュール架空物信用局史上最大の仕事になる。気合が入るのは当然だ。だけどやっぱり、何よりも、ミラにかかる負担を少しでも和らげてあげたい。
やるべきことに真っすぐ進む、恵を助けてあげられなかった棘が、僕の心にまだ刺さっている。
この仕事が無事に終われば、その棘が抜けるような気がするのだ。
◇
街は色めき、屋台が並ぶ。建国記念祭当日は、華やいだ街並みを眺めて普段よりかなり早く登庁した。僕は相変わらず料理の名前が覚えられず、また、知らない屋台が多く出ていることもあり、異国であることを久しぶりに実感した。
仮説ステージは間に合った。一回きりだけど、ミラのリハーサルもできた。あれからテロは起きていない。警察と軍が忙しなく動いているから、その成果でもあるのだろう。
僕が執務室に入ると、ミラは既にいた。明らかに緊張した面持ちで自席に座っている。
「おはようございます」
すっかり身についた腹式呼吸でミラが挨拶した。今日のステージが終わるまではこの調子だろう。
「おはよう。昨日は眠れた?」
「いえ、あまり……」
「そうだよね」
もしも僕が同じ立場なら、やはり安穏と眠ることなんてできなかったに違いない。こうなると、ミラの出番が早めなのはラッキーだ。緊張に苦しむ時間が短くて済む。
建国記念祭の開始は午前十時。開始の挨拶が司会から為され、すぐにミラの国歌独唱となる。現在、午前八時半。いつもよりも早く来たが、それはミラがメークアップに入る前に会って緊張を和らげてあげたかったからだ。
同じことを考えていたのか、パドレとドミーも登庁した。普段より遥かに早い。僕たちは絶えずミラに話しかけ、冗談を言い、お茶を淹れ、肩を揉んだ。
やがてメークアップの時間だから、と言ってミラは執務室を出て行った。今日は世間的には祝日なので、国旗の発注も送付もしない。ミラに限らず僕らもそわそわと落ち着きなく執務室をうろつきながら雑談を交わした。
そんな中、僕のパソコンにIP電話の着信があった。真白だ。
「ミラちゃん、今日が本番ですよね」
「ああ。今はメークアップ中だ」
「一足遅かったか。頑張れって言ってあげたかったんだけど」
僕は、あまり「頑張れ」という言葉が好きではない。どちらかと言えば、「無理するな」と言う方が好みだ。だが、今日のミラは頑張るしかない。無理を押して、やるしかない。
言い出したのは僕だが、彼女がそれを決めた。
「大丈夫だ。国歌なんて、二分もあれば歌い終わる短いものだ。練習もしてきたし、大丈夫だよ」
「古田先輩、それ、自分に言い聞かせていません?」
返す言葉が無い。
「先輩が緊張してどうするんですか。そんなんじゃ、ミラちゃんだって緊張しちゃいますよ」
「僕はそんなに緊張しているように見えるか」
「物凄く」
「参ったな」
「とにかく、まずは先輩がリラックスしてください。それで、私からのアドバイスを伝えてあげてください」
「アドバイスって、頑張れってやつか」
「いいえ。勇気を出して、です」
「わかった。必ず伝えるよ」
真白との通話を切り、架空局の面々を見渡した。僕を含めたどいつもこいつも表情が強張っている。むしろ笑えてきた。
「どうした、コー」
「パドレ、まずは僕らが落ち着こう。酷い顔をしている。ドミー、何か屋台で買ってこようか。今日は祭りなんだから」
二人は数秒間を空けて、思い出したかのように笑い出した。僕は顔の筋肉を解して自然な笑顔に戻そうとする。
「不思議なものだ。自分が出るとしてもこんなに緊張はしない」
パドレもくっくっと笑いを零す。かつて拷問だって受けた人間だ。大衆の前で歌うくらい大したことではないだろう。
「俺なら、ミラほど落ち着いてはいられないと思う」
ドミーは柄にもなくストレッチしながら腹の肉を揺すった。
「国旗を掲揚してきます」
僕も、いつもの自分を取り戻そう。何はともあれ、今日は快晴だ。
メークアップを終え、深緑のドレスに身を包んだミラは、僕らの雰囲気が変わったことに気付いたようだった。少しだけ笑みが柔らかくなっている。
「何があったんですか」
「僕たちが緊張してどうするんだって話をしたんだよ。さあ、行こうか」
僕たちはミラを囲むようにして会場の「青の広場」へと歩く。庁舎の目と鼻の先だが、ミラは慣れないピンヒールに苦戦していた。
「おぶろうか?」
「恥ずかしいので絶対にやめてください」
そんなことを話したり、真白からの伝言をしたりしていたらすぐに着く。「青の広場」は、地面に青のタイルを多く敷き詰めているため、そう呼ばれる。だが今日は、青いタイルがほとんど見えないほど、椅子と出席者たちで埋まっていた。開始前だというのに、軽く千人は集まっている。
僕たちはステージの裏手へ行き、係員にミラを引き渡す。そのとき、ミラが振り返って僕の右手を取った。ぎゅっと両手で掴み、目線を落として息を吐く。その手から伝わる震えに、左手を重ねる。
もう、渡す言葉はなかった。ただ握る。
やがてミラは顔を上げ、僕に頷いて見せると舞台袖へ消えて行った。
「コー、本当にアジュールに残らないか」
「ミラも気に入っているしな」
パドレとドミーが真面目な顔で言うので困ってしまった。
その後は、恋人はいるのかとか、将来を決めた女性はいるのかとか質問攻めに遭いながら開会を待った。
あとはミラを信じて待とう。僕らは緊張を隠すように喋り続けた。
ステージの正面は他国からの来賓、VIPの席がずらりと並び、その後ろに一般の聴衆が大挙している。僕たちがいるステージ裏からは詳しい様子を窺い知ることはできないが、開会が近づくにつれて人々のざわめきは確実に大きくなっていた。
国家信用師としての感覚を研ぎ澄ます。ここにいる者たちは、アジュール国民として参加している。悪くない。ここにミラの声で国歌を歌い、それが聴衆の心を惹きつけられれば、非常に強力な国家信用処理となる。
『ただいまより』
始まった。
『第一回建国記念祭を開会致します』
広場中に設置されたスピーカーから流れる音をきっかけに、拍手と嬌声の嵐が起こる。
彼らは革命という形で、望む形の国を勝ち取った。国家信用という意味ではまだ前の国に引っ張られているが、国が変わったこと自体は喜ばれている。少なくとも、大半の国民には。
『国歌、独唱』
胸が痛んだ。見えないステージの向こうのミラに向けて視線を送る。一人じゃないぞ、そう伝わるように願って。
打って変わって静かになった広場に、ミラの歌声が流れ始める。堂々と、朗々と、歌声が響く。
それは短い、戦いの歌だ。一人の労働者から始まった火が国中に広がり、新たな国を生む、ここ「青の広場」での戦いを描いた歌。革命を成し遂げたときの、革命派のシンボルソング。
歌や詩になると、僕には完全には意味がわからない。だが、そういう内容だったはずだ。
歌声を聞きながら、僕の眼前に国家意識の地層が現れた。時折、こういうことがある。意図せず感覚が引き出され、その変化を見せつけられるのだ。国家意識そのものが感情を持っていて、「さあ、変化のときを見ていろ」と言うかのように。
薄氷のようだったアジュールの国家意識の上に、ヴェールのように、優しく新たな層が置かれていく。ミラの歌が聴衆の心を惹きつけ、それを地層にそっと置いていく。そのヴェールは透けるほど薄いが広く、広場を越えて首都全体、そして遥か彼方まで広がっていくようだった。
ミラ、見事だよ。
余韻を残して歌い終わると、広場は拍手に埋め尽くされた。もちろん、僕らも全力で拍手した。
大統領の挨拶が続いたけれど、僕たちはふらつくミラと一緒に庁舎に戻った。広場を離れた途端、ミラは笑い出し、止まらなくなった。釣られて僕らも笑う。皆、緊張が解けて腹を抱えて笑い転げた。
帰り道で買い食いした、肉を挟んだサンドウィッチは、この国に来てから一番美味かった。
建国記念祭は滞りなく進行した。
アジュールという新興国がしっかりと地に足を着けて運営されていることを対外的に示す場であるから、それは非常に喜ばしい。
僕らは執務室でしばらく呆然と休み、折角だからと仕事を少し進めた。広場に戻っても、僕たちはステージを見られないし、屋台を巡っても無限に食べられるわけではない。なんだか日常が欲しかった。ミラは緊張の糸が解けたようで、眠りこけていた。誰も彼女を起こそうとはせず、できるだけ静かに仕事をした。
夕方までのろのろと仕事をこなし、予約していた店に四人で向かった。打ち上げだ。
軽くお酒を飲んで、これまでのミラを称え、僕らの大慌てっぷりを肴に笑った。ドレスアップしたミラは綺麗だったが、今のリラックスした姿の方がよっぽど彼女らしくて、僕は安心した。
幸福感とやりがいに満ちた時間だった。僕の居場所がここにあり、誰かの助けになれるという実感があった。日本では薄かった国家信用師が存在する意義を、ここでは強く感じることができる。
打ち上げは、涙が出るほど笑った。
そしてトラブルは、店を出た後に起きた。
ほろ酔いで通りを歩く。建国記念祭の熱を残した街は人通りが多く、僕たちは大通りを外れて路地に回った。人気が無い道を駅に向かう。僕とミラは近くに住んでいるが、パドレとドミーは電車で通勤している。郊外に家を持って、家族と暮らしているのだ。
彼らは音もなく現れた。
前に三人、明らかに敵意の視線を向けてくる男たちが道を塞ぐ。後ろからも足音が聴こえて振り返ると、さらに三人、男たちが立っていた。パドレは先頭で足を止め、最後尾のドミーがミラを庇うように後ろを向く。遅れて僕も、ミラの前に出た。
心臓が煩い。朝とは違う緊張が体に走る。
「何の用だ」
パドレが聞いた。その声が僅かに震えている。だが、毅然としていた。
前を塞ぐ中の、中央に立つ男が一歩前に出た。
「その女に用がある」
「代わりに聞こう」
男はしばし黙り、口を開いた。
「お前たちは架空物信用局か」
意外だった。僕らの部署を知っているゴロツキがいるとは。
「それがどうした」
「その女、国歌を歌っていたな。何者だ」
「私の部下だ」
「局員ってことか」
「それ以外の意味に取れるのか」
ざわりと男たちが殺気立つ。僕は身構えたが、中央の男が軽く手を挙げて制した。
パドレが問う。
「お前たちは何者だ。前政権派のテロリストか」
「復権派、と名乗らせてもらっている」
「今の政権に不満があるなら、選挙に出馬したらどうだ」
「不満がある、という程度ならばそれもいいがな。許せないんだよ。今の政権が革命の際に殺した命が、多すぎる」
瞬間、パドレの言葉が頭をよぎった。政府、官僚関係者が大勢死んだと言っていた。部下を生かすために、囮になったパドレとドミー。
「設営中のステージに爆弾を投げ込んだのは、お前らか」
パドレの問いには答えなかった。それだけで雄弁な肯定だった。
「革命で殺し過ぎたと言うのなら、我々、いや、私の部下に何の用だ。彼女に手を出すことは、それこそ君らが嫌う、殺し過ぎることではないのか」
「パドレ」
突然ドミーが会話に割って入った。
「見覚えのある奴がいる。元国家信用部の職員だ」
パドレが半身で振り返った。後ろの三人をじっくりと見つめていく。僕はその間、前方の三人を警戒した。
「本当だな。あの騒ぎの中、逃げられたようで良かった」
後ろでどんな表情をしているかわからないが、元国家信用師が混ざっている。それを聞いて、僕は酷く納得した。自分でもその理由は判然としなかったが、後を追うように点と点が繋がっていく。思わず口が動いていた。
「フランシスに、国家信用処理の素質があることを知っていたんだな。だからあれは、ステージではなくフランシスを狙った爆弾だった。お前らは、今回の建国記念祭で国家信用処理が進むことを妨害したかったんだ。そうすることで、国家の再転覆が有利になるよう仕向けるために」
要人の暗殺、クーデター、国家転覆を狙う方法は幾つかあれど、国家信用処理を妨害するなんて発想、架空局の人間でないと思いつかない。
「お前は?」
「日本から来た、国家信用師だ」
「なるほど。国に帰ることをお勧めする。この国に二度と関わるな」
「そうもいかない」
彼らの作戦は成功していた。フランシスを軽傷で舞台から引きずり下ろすことで、死者を出すことなく、真意を隠したまま、目的を達することができた。
だが、そこで立てられた代役に驚いたことだろう。ミラという、才能ある信用師が出てきて、結果的にフランシスよりも強力に国家信用処理を進めてしまった。
その危険性に、気づかれた。
今、ミラを渡せば、何をされるかわからない。
「なぜ、信用師たちが死ななければならなったのか」
パドレは半身で後ろを向いたまま口を開いた。
「我々が行うことは、国家を安定させることだ。そこに政権の意思は関係無い。国がある。通貨や国土がある。そんな場所には自然と必要になる、そんな職業だ。私はかつての政権下でも架空物信用局にいた。総務部長だった」
「パドレ、総務部長?」
後ろから知らない声が聞こえる。そうだよ! と叫びたい。同僚の死を悼んで涙を流し、部下のために獄中に入れられ、それでもなお、今も国の安定のために不相応な立場でもがいているのがこの人なんだよ。
「そうだ。私は総務部長だった。信用師として、何の技術もない。革命のときだって、そこにいるドミーと二人で、部下を逃がすのが精一杯だった。政権が変わり、我々は架空局を立ち上げさせられた。架空局が必要になることは、君なら知っているだろう。だが、信用師はいない。私もドミーも総務畑出身だ。だから、彼女を仲間に加えてやってきた。日本人の彼も、諸外国に助けを求めて来て貰った人材だ。実に優秀で、この国のために尽力してくれている。たった四人、ここにいるたった四人で国家の安定に尽くしているんだ」
パドレは再び前を向く。
「わかるか。今の架空局に革命を起こした人間はいない。君たちが現政権を憎んでいるのは理解する。私も、多くの仲間たちを失った。だが、彼女を殺すことは君たちの正義に適うのか」
「その女は危険だ」
「違う、危険なのはお前らだ」
咄嗟に割り込んでしまった。
「黙っていろ、日本人」
「嫌だね。ミラが今日のためにどれだけ努力したと思っているんだ。まだ十九歳の女の子が、突然あんな舞台に立たされて、どんな気持ちだったかわかるのか。どれだけの責任を背負ったかわかるのか。
お前らの政治的思想も、誰が政権を取るかも、正直知ったことじゃない。だけどな、これだけは言えるぞ。やるなら僕たち全員殺してみせろ、そして同じことをもう一度言ってみろよ。革命派は殺し過ぎたってな」
僕は思わず一歩踏み出した。リーダーとみられる男に歩み寄っていく。
「なあ、聞かせてくれよ。あんたらはどうしてテロを起こす。何を正義としている。こんな女の子を狙って、そんなことをしてまで創りたい国って、どんな素晴らしい国なんだよ」
「止まれ」
男は拳銃を取り出し、僕に突きつけた。怯んだ。本物だろう。足を止めたくなった僕の頭に、恵の顔が浮かんだ。頭に刺さった棘が疼く。
僕は足を進めた。
「誓えよ。お前らが復権するときも、架空局には手を出さないと誓え。どんな国だって、どんな政策を掲げたって、僕らがいないと国は治まらないんだ」
拳銃まで、1メートルもなかった。手を伸ばせば触れられそうな距離で向かい合う。
ぐるりと振り返る。パドレ、ミラ、ドミー、そしてその向こうの元国家信用師。
「そうだろ。思ったはずだ。どうして殺されなければならなかったのかって。同じことを繰り返すなよ」
暗い通りでもはっきりと、誰が元職員なのかわかった。僕から見て一番右の男が、明らかに表情を崩し、首を振ったからだ。泣いているようにも見える。
僕は再び拳銃に向き直った。
「架空局は、政権に左右されない。敵を間違えるな」
「……お前、名前は?」
「コー。フルタ・コー」
「そうか。コー、政権に左右されないと言ったな。ならば、俺たちが復権した後も協力するということだな」
「……その通りだ。あんたらが正義を見失わない限りな」
銃口を向けられた状態で、じっと時が過ぎる。膝が震える。銃は怖い。でも、ここは譲れなかった。ミラを守る。あの日恵を守れなかった僕に今、守りたい人がいる。
不意に、拳銃が下げられた。
「その言葉、忘れるなよ。パドレと言ったな。お前の部下が言ったことの責任は取れよ」
「当然だ。コーが言ったことは、我々の責務そのものなのだから」
男の合図で、彼らは再び音もなく去った。それを見送った僕はへたり込んでしまい、パドレが肩を叩く。
「パドレ、あなたは強いな」
「獄中で、一度は命を諦めた身だからな。それにコー、君のおかげで奴らを説得できたんだよ」
「言っていること、結構滅茶苦茶だったけどな」
「そうでもなかったさ。それに、少なくとも一人、生き残っていることも確認できた。私はそれを嬉しく思うよ」
「人が好すぎるって、あんた」
全身がじっとりと嫌な汗をかいている。
振り返ると、ミラとドミーもしゃがみ込んでいた。爆弾を使い、銃を簡単に振り回す奴らだ。リーダーが冷静な男で助かった。
「さあ、帰ろう」
パドレの言葉で、僕らはのろのろと立ち上がった。
駅でドミーとパドレを見送って、僕はミラをアパートまで送る。さすがに今日の内に再襲撃されることはないと思うけれど、用心して、できるだけ人気がある通りを選んで歩く。祭の余熱はまだ続き、人通りは多かった。さっき僕らが銃を突きつけられていたことなんて、彼らは知らない。
「今日は、大変な日だったね。この国の状況を甘く見ていたよ」
まさか自分が直接テロリストに襲われそうになるとは思っていなかった。
「嫌いになりましたか」
心配そうに言うミラに、僕は苦笑して首を振る。
「怖いけど、嫌いにはなっていないよ。僕はね、国家信用師を日本で七年間やってきた。でも、この半年の方がずっとやりがいを感じているんだ。君が育って、少しずつこの国を安定させていって、きっとこれからも少しずつ、力になっていける。それが、嬉しい」
静かな、気まずくない沈黙が二人を包んだ。たまに当たる互いの手に拒絶はなく、自然な距離感で歩き続ける。
街は賑やかで、陰でテロリストが動いていることなんか誰も知らないような顔をしている。本当はきっと、皆が知っているのだろうけれど。
この国が安定するには、これからまだまだ長い時間が必要になるだろう。また革命が起こって政権が変わるかもしれない。でも、日本に帰るのはまだ早いと、そう感じた。
ミラのアパートに着いた。
「今日は、お疲れ。晴れ舞台を見られなかったのが残念だったな」
「汗が噴水みたいに出ていましたから、あんまり見られたくなかったです」
「それくらいが可愛げがあるってものだよ」
ふっと息をつく間があった。それじゃ、と言おうとしたとき、ミラが僕の手を掴んだ。
「少し、上がっていきませんか」
◇
「真白ちゃんに頼みたいことがある」
「もうだいぶ頼まれごとされていますけど」
「六年前、もう六年半前になるけど、あの暴動についてだ」
画面の向こうで僅かに息を呑んだのがわかる。
「僕はあの事件で、先輩、いや、当時付き合っていた恵さんを亡くした。あの事件がどうして起こったのか、それがわかったら教えてほしい」
「どうして私に頼むんですか」
「僕はしばらく日本には帰らないから。こっちでできることを、やりがいってやつを見つけたんだ」
僕にしかできないことが、ここにある。その幸せは、日本にいるときには感じられなかったものだった。組織としては日本の方が完成されているが、個として必要とされる喜びに、僕は惹かれている。
「そうですか。いいですけどね。私も気になっている事件ですし」
真白の家族があの暴動で亡くなったことは知っている。興味を失うことはないはずだ。
恵を一人で行かせてしまったことを、今はもう悔やまない。今の自分には、支えたい人がいる。だが、あの暴動事件そのものへの疑念がなくなったわけでもない。
信用師として、無視すべきではないものがまだ眠っていると、直感が告げている。
恵を一人で行かせたことへの棘は、正直に言えばまだ抜けていない。だが、抜けなくてもいいのかもしれない。僕を戒める、僕が取るべき行動を思い出させてくれる、大切な棘だ。
この棘が無ければ、あの日、銃口の前に立つことは、きっとできなかったから。
「コーさん」
ミラが駆け寄ってきた。声が聞こえたのか、真白が不機嫌そうに言う。
「じゃ、デート楽しんでくださいね。ああ、私もいい男いないかなあ」
苦笑して電話を切り、僕はミラの手を取った。
アジュールの国旗が、快晴の空にはためいていた。
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