第2話 通貨信用師―赤本と空色—(後編)

「どうして当局を志望したのですか?」

 何度も答えたやり取りだった。淀みなく言葉は出てくる。

 相手は部署を名乗らなかった。それは不思議だったが、当局の採用試験である以上、どこかの部署であることはたしかだ。国家公務員になるという目標からはぶれていない。

「二年前の暴動で家族を亡くしました。それについて悲しい気持ちはもちろんありますが、一番驚いたことは、この国がそれでも揺るがず存在していたことです。私はあの時、このまま混乱が広がって首都全てが動乱に巻き込まれ、この国が無くなることを覚悟しました。でも、そうなりませんでした。きっと、私が知らない場所で沢山の人たちの尽力があったのだと思います。そのことに感動し、私もその力になりたいと思いました」

 面接官、当時の篠崎部長はうんうんと頷き、何かを手元の紙に書き込んだ。

「あと、実家が凄く貧乏だったので、安定した職に就きたいと思っています」

 篠崎部長は、ふふ、と笑った。

「正直だね」

 好感触だ。下手に言い繕うよりも有効だと踏んで、各所で答えている。

「高校生のとき、気に入ったワンピースを買えなかったことがトラウマになっていまして」

「そんなに?」

「はい。参考書だって渋られるような家でしたよ」

「それはまた。でも結構いい大学入っているのは、すごいね」

 篠崎部長は私のエントリーシートをめくる。

「物凄く、頑張りました」

 当局の採用試験は、こちらが出した希望や部署側の都合によって、何度も呼ばれ、何度も同じ質問を別の人間からされる。正直、テンプレートな質問は情報共有してほしいくらいだ。

 このやり取りも三回目である。篠崎部長はぺらりぺらりと何かを捲る。

「二年前の暴動か。あのときは大変だったなあ。ご愁傷様って今さら言うのも変だけど。五人も巻き込まれたんですね」

「いえ、四人です。両親と祖父母。私は首都の外にいました」

 篠崎部長の手が止まり、こちらをうかがう。何か失言しただろうかと思ったが、しばらくしてまた書類に目を落とした。

「なるほど。君は難を逃れたわけだ」

 篠崎部長はのんびりと言いながら、机の下から二つの袋を取り出した。

 さすがに緊張していた私は、何が来るのか身構えた。

「それでは、ちょっと適性試験をします。聞いていてくださいね」

 篠崎部長は右手に持った袋を揺すった。ジャラついた金属音が鳴る。

「次はこっち」

 左手に持った袋も同様に揺する。こちらも金属音がするが、少し軽い気がした。

「何が入っていると思いますか」

 私は質問の意図がわからないまま、思ったことを答える。

「お金だと、思いました」

「正解です。では、どちらが古いでしょうか?」

 篠崎部長はいたずらっぽく微笑む。中年のおじさんなのに、嫌味を感じない。この人が上司になるなら悪くない、そう思った。

「私から見て左、右手にお持ちの袋の方が、なんとなく古い気がします」

「そうですか」

 篠崎部長は袋を下ろし、今度は二枚の硬貨を私の前に置いた。どちらも綺麗な銀色をした百円玉だ。桜の花の面が上を向いている。

「どちらが古いと思いますか」

 ようやく質問の意図が見えてきた。この人はお金に関する部署の面接官だ。造幣局、財務局、具体的なことはわからないが、何か、お金に関わる仕事であることは間違いない。財務局なんて花形だ。

 気合が入る。

 じっと硬貨を見つめた。うろ覚えの知識だが、こちらは表面で、裏面には発行年が彫られている。意図的にわかりにくくされている。

 とはいえ、分析できたのはそこまでだった。見た目には全く違いがわからない。

「上の面だけなら触ってもいいですよ」

「はい」

 言われて触れてみるが、だからといってわかるわけではない。両手の人差し指で百円玉を突いた奇妙な姿勢で、私は誰かに笑いものにされているような恥ずかしさを覚えた。

 馬鹿正直に触ってやがる、とかなんとか。

 誰に笑われているのかはわからないが、さっさと見切りをつけようと思って左手を離す。

「この、右手で触れている方です」

「どうして、そう思いましたか」

「先に手が離れたのが左だったからです」

「なるほど」

 篠崎部長は笑いもせず、呆れもせず、穏やかな表情のまま何かを書き込む。

 そんなテストを数回続けた後、面接は終わった。

「最後に何か、質問はありますか。私の部署をお教えすることはできませんが」

 一番聞きたいことを封殺され、私は苦肉の質問を捻りだした。こういうとき、何も質問せずに帰るのは良くないと就活テクニックの本で読んだから。

「私はどれだけ正解していましたか」

「詳細は申し上げられませんが」

 篠崎部長はそこで区切り、目線を横に向けた。そこには人事担当者と、後になって知るのだが、架空物信用局の局長がいた。

「結果は期待していいです」

 一か月後、私に採用通知が届き、架空物信用局なる謎の部署への就職が決まった。


   ◇


「つまりね、私たちは才能があるから採用されたわけ」

 三輪とランチでパスタを食べていた。特に用がなければ、こうして二人でランチを食べる。時折人が増えたり、コンビニ弁当で済ませたりすることもあるが、大抵二人だ。

 三級昇級試験の不安を三輪に聞いて貰った後、話題は採用試験のことになった。

「この仕事って、才能がないとそもそもできないわけじゃない。お金から過去を感じ取るとか、何年使われたお金か読み取るだとか、見たり触れたりしただけじゃ普通はわからないよ。そんな職場だから、ちゃんと面接時に適性試験が行われているの」

 奇妙な採用面接で出された問を、なんと私は完璧に当てていたらしい。八問中八問正解。全て二択だったから、まぐれならば256分の1の確率だ。

「それに、見えている人、感じている人の動きは見てわかるの。私から見て、真白ちゃんはちゃんと素質がある人。だから大丈夫」

「大丈夫ですかね……」

 どうしても弱気になってしまう。この三年、自分なりに技量を上げようとしてきたのだが、その成果は出ていない。

「多分、部長は追い込むことで真白ちゃんを覚醒させたいんだと思う」

「覚醒、するほどのものが私にあるでしょうか」

「無かったら採用しないよ」

 食後のコーヒーを美味しそうに飲む。三輪は去年二級に昇格したばかりで余裕がある。

「これでも長いことこの仕事をやってきたからね。伸び悩む子の傾向は何となくわかるんだ」

「何ですか」

 思わず勢い込んで聞いてしまった。今は藁にもすがりたい。

 そんな私を余裕の微笑みで制し、三輪は人差し指を立てた。

「お金にコンプレックスがある子」

 ぎくりとしてしまう。その様子を見て、三輪は唇を釣り上げた。

「当たりでしょ」

「……はい」

 それ以上三輪は聞いて来ない。喋りたいなら聞くよ、というスタンスだ。

 家族のことを積極的に話したいわけではないが、何かのヒントは欲しい。できれば私が伸び悩んでいる現状を打破するような。

 少し悩んだが背に腹は代えられない。私は家族のことと、献金していた宗教のこと、そして、赤本すら買えないほど貧乏だったことを話した。

 その間、三輪はふんふんと聞き、話し終わると同時にコーヒーを飲み干した。

「やっぱり、そういう体験があるわけだね」

「そのせいでしょうか」

「多分、そう。でも、珍しい話じゃないよ。お金に対する感覚が鋭敏になるには、それなりのきっかけが必要だからね。なんとなくだけど、通貨信用部って、お金に思い入れや偏った思い出がある人が多い気がする」

「そうなんですね」

「みんなケチだよ」

 言いように苦笑してしまった。私も貧乏性を引きずって生きている。こうしてお昼に外食することすら、最初のうちは勿体なさが先に立っていた。今でも自宅ではほぼ自炊している。

「それで、技量を上げるにはどうしたらいいですか」

 三輪は、んー、と考え、指を組んで顎を乗せた。

「考えること」

「何をですか」

「真白ちゃんは、お金に関して偏った考えを持っている。だから、お金に対して素直に向き合えない。感じていることを、そのまま受け取れない。考えて、先入観を無くしてごらん。いつか言ったことあるよね、先入観は大敵だって。まだあるんだよ、お金に対する先入観が」

「先入観……」

 泣きそうな私の肩を叩き、三輪は、

「一度、よく考えてみな。話し相手にはなってあげるから」

 と言ってくれた。


 私に限らず、通貨信用部の職員には持ち出し厳禁の硬貨が配られている。私も、デスクの一番上の引き出しを開ければ各種硬貨がケースに収められている。

 この部では、コーヒーメーカーの使用に百円玉、印刷するのに十円玉、備品の持ち出しに、それぞれに応じた硬貨で交換する決まりになっている。もちろん備品は経費で購入したもので、どれだけ使おうと私たちの懐は痛まない。使う硬貨は全て局から配られた硬貨だ。

 硬貨は全てカテゴリー0の状態で部に持ち込まれ、おままごと的に使われることで徐々に通貨信用処理が進み、カテゴリーを上げていく。クルーザーとの交換のように、一度に大量の硬貨を処理した方が効率はいいのだが、個人の技術向上のためには、やはり一枚一枚、手で行う訓練が必要とされる。上級者も、常日頃から訓練を絶やさないための工夫だ。

 通貨信用師三級昇級試験のための申請書類を印刷する。机からカテゴリー1の十円玉を出し、プリンターの傍に設置された貯金箱に入れた。そのときの感触、音、目で見た印象、それぞれがカテゴリー1から動かないことを示していた。良くてカテゴリー1+といったところか。

 軽く溜息をつく。篠崎部長はこうした、ちょっとした処理だけでカテゴリー0から3まで持っていく。熟練、プロフェッショナル、言い方は色々あるだろうが、私からは最早意味不明に見えるほどレベルが違う。

 あなたはお金なんだ、と強く念じてみても、信用されろ、信用されろと祈ってみても、信用処理は進まない。一応三輪が言った通り、この部にいる以上素質はあるはずなので、私が何も考えなくても、触れて、使えば通貨信用処理はできる。

 逆に言えば、考えても考えなくても、同じ程度しか処理を施せない。それはまだ自分の能力をコントロールできていないということであり、プロフェッショナルの仕事ではない。

「あと十三日か」

 ぼそりと呟くと、それを聞いていたのか、通りかかった三輪が背中をさすってくれた。

「あんまり思いつめすぎないようにね。試験官も篠崎部長なんだから、敵じゃないよ」

 三輪はにこりと笑って執務室を出て行った。二級以上になると、流通前の紙幣、硬貨の通貨信用処理最終チェックに駆り出されるようになる。世に出す前に、充分な処理が施されているか確認し、不十分な箇所があれば発見、信用処理を施すのだ。通貨信用部の中で最も責任が重い業務である。

 一方四級の私は、執務室にある貯金箱から硬貨を集めて回って、カテゴリー別に整理し、再配布する。これは多分カテゴリー1だから再配布、こっちは3だから卒業、そんな具合に。結局、目を含む感覚を養うことが基礎であり奥義なのだと篠崎部長に言われたため、下積みのつもりでやってきた。今ではほとんどカテゴリー間違いをすることはなくなったと、そこは自信を持って言える。

 感覚を養うことが成長することならば、私だって能力が上がっていることになる。だが、一向に通貨信用処理の技術が向上しないのはなぜだろう。

 何か、足りないんだ。三輪が言っていた、お金への偏見が邪魔をしている。

 昇級試験申請書を書く気にならなくて、貯金箱の整理に精を出していると、篠崎部長が執務室に戻ってきた。部長クラスともなると、各部署との折衝が発生する。今日も多分、造幣局との定期的な打ち合わせだろう。

 篠崎部長は一度デスクに戻り、配布された百円玉を持ってコーヒーメーカーに向かう。再配布しているのは私で、部長にはカテゴリー0か1を配ることにしている。わずかでも効率は大事だ。

 目で追った。篠崎部長の手によって摘まみ上げられた時点から、その硬貨は金属塊ではなくなる。自分の役目に気付いた、という表現がしっくり来るような目覚めをする。時折、紙幣や硬貨と「目が合う」感覚がある。やあ、と挨拶されたような気がすることも。

 部長の手の中の百円玉はまだ浮ついていた。どうすればいいのかわかっていない。だが、執務室を横切る中でだんだんと落ち着いてくる。与えられた使命に納得し、コーヒーメーカー横の貯金箱に入れられることで、「了解」と返事をした気がした。そしてその百円玉は考え、部長がコーヒーを飲む間にお金として習熟し、カテゴリー3に成長する。

 ここまでわかるようになるのに、二年かかった。通貨信用師はお金と、音の無い会話をするのだ。

 私にはまだ、その声が滅多に聞こえないけれど。

 私の視線に気づいたのか、部長が手を挙げた。私ははっとして頭を下げる。そして部長は私に用があったらしく、手招きした。何だろう。

「真白さんに渡したいものがあったことを思い出した」

 そう言って財布を抜くと、出て来たのは千円札だった。

 素直に受け取るが、戸惑う。どうしていきなり? 何かのお小遣いというわけでもないだろうし。

「一昨日、ドラッグストアで貰った千円札。覚えている?」

「ああ、はい。六年前の事件を経験した紙幣でしたっけ」

「そう、それ」

 私の目から見ると、何の変哲もない紙幣だった。カテゴリーは文句なく最大値の3。一時下がったという話だが、今見て、触れる感覚では見事に信用を積み重ねた、ありふれた立派な紙幣である。

「それ、試験まで貸してあげるよ。きっと君の役に立つ」

「はあ」

 生返事になってしまったことは否めない。私のそんな様子を見て、篠崎部長は苦笑した。

「ま、よく見てみてよ」

 それだけで話は終わったので、大人しく自席に戻る。本来、とてもお忙しい方なのだ。あまり問い詰めて邪魔をしてはいけない。

 改めて紙幣を眺める。真ん中に折り目がついている他には、大きく破損も汚損もない。目を閉じ、通貨信用師としての感覚に集中する。発行されたのは約十年前。IDと発行年を照合すれば答え合わせはできるけれど、今はいい。

 驚いたことに、篠崎部長の思念がほとんど残っていなかった。通貨信用処理を行わなくても、お金には持ち主の痕跡が残る。それが、通貨信用処理を行っていたにも関わらず本当に微かにしかない。

 通貨信用処理は、思念を残すことでもある。だから、私が使ったお金には強く私の思念が残る。ほぼ強制的に残ってしまう。そんな部分も調節できるとは、さすが部長、恐れ入る。

 来歴を探ると、ドラッグストアの店員らしき人物のイメージが一瞬浮かんだ。その後、主婦のイメージが現れる。おぼろげながら見える家庭の雰囲気、子供の声。その先は……わからない。

 来歴はほとんどわからないが、部長の思惑は分かった。

 この紙幣は六年前の事件を経験しており、そこで信用を一度大きく失っている。来歴を遡って行くための、わかりやすいチェックポイントになると考えたのだ。

 六年。三級通貨信用師ならば、決して辿れない期間ではない。長い来歴を読み取る訓練用に、この紙幣を貸してくれたということだろう。

 気にかけてもらえている。それに応えなければならない。

 昇級試験申請書に、震えながらサインした。


   ◇


 夜、自室に持ち帰った千円札と私は、目を閉じて向き合っていた。ゆっくりと、時間をかけて来歴を読み取る。

 直近の主婦までは昼間読み取れた。次はもっと遠く、もっと昔へ遡っていく。

 私はいつも、タンポポの根を連想する。まっすぐ深く伸び、所々横にも伸びる。浅い所ほど、横に伸びた根は太く、深い部分ほど細い。

私は根に沿ってお金の過去を探る。近い過去の来歴は太く見え、遠い昔のことは細く見える。熟練の通貨信用師ほど、根の深部が見通せる。

 お金に刻まれた思念は一定ではない。持っていた期間の長さ、思い入れのある買い物をしたかどうか、初任給やお年玉など、思い入れがある収入だったかなど、様々な要因でまだら模様を描く。

 普段は目指さない六年前に向かって突き進んでいくと、徐々に視界がぼやけるように見通しが悪くなってきた。この霧を晴らせる者が三級通貨信用師なのだ。

 六年前の事件、お金の信用が軒並み失われたあの事件、そのとき持っていた人の思念は必ず強く残っている、もしくは極端に弱くなっているはずだ。だから、並みの思念は無視していい。


   ◇


 その報せは、首都を離れていた私にもすぐに届いた。大学生活にも慣れた頃、SNSが騒がしくなったからだ。

「真白、これ見て」

 講義の合間の休み時間、当時同じグループにいた女の子がスマートフォンを指し示し、私も自分の端末でSNSを開いた。

「何これ」

 それは首都の一角で起こった暴動の映像だった。

 通りの店のガラスは割れ、人々が何かを叫びながら狂乱して走り回る。中には棒のようなものを振り回している人もいた。その背後で、人がビルの屋上から物体のように無造作に落下していく。

 動画を投稿した人間の声は何も入っておらず、荒い息遣いだけが混ざっていた。

「どういうこと。何が起こっているの」

「わかんない。こういう動画ばっかりアップされていて」

 私は努めて冷静に、次の講義に行こうと友人を動かした。まるで、日常を壊してしまってはならないと脅迫されたように。

 一日の講義が終わり、夜のニュースでことの次第が見えてきた。といっても、非常に表面的なものではあったが、個人でSNSを漁るよりはまとまった情報が手に入った。

 首都の西端の街にて、突如、火事と共に暴動が起こった、街の内部では警察機能すら麻痺し、連絡が取れない。外部から警察官を応援派遣し、鎮圧に当たるという内容がテレビから流れてくる。

 記者会見の映像に切り替わる。肝心の、なぜ暴動が発生したのか、という質問が官房長官に投げかけられるが、「調査中であります」と弾かれた。

 被害規模、「調査中であります」

 今後の対応、「現地の情報を鑑みて対応します」

 現地の状況、「情報収集に励んでいるところであります」

 要するに、何もわからない。

 SNSを開く。リアルタイムで事態は進行している。未加工の動画、画像には人の死体も当たり前のように映り込み、テレビではモザイクをかけてそれを流す。

 デマに気をつけよう、という内容の投稿も目立つ。何が起こっているのかわからない状況で迂闊に行動すべきではない、という意見だ。それには賛成する者多数、荒らしが少数噛みついている。

 デマらしき情報はたしかに氾濫していた。敵国の空挺団がこの街に降下し、市民を攻撃し始めただの、精神を破壊する爆弾のような装置を使ったテロだの、荒唐無稽のものたちだった。名指しでその国を挙げたり、テロ組織として宗教団体を挙げたりされていたが、今のところ真剣に取り扱われてはいない。

 翌朝、事態はさらに悪化し、現地に入った警察官のうち、半数しか戻って来なかった。戻ってきた人員はそのまま病院送りになった。暴動の範囲は拡大し、深夜には内閣に危機管理センターが設置された。

 まだその頃は、内部から投稿される動画も多く、私たちは間接的に状況を見ることができた。その中で衝撃的だったのは、撮影者がカメラの前で、無言で一万円札を破り捨てた動画だった。

 大学生の身からすれば、一万円は高額だ。お金はいくらあってもいい。たとえ暴動の最中でも、紙一枚をわざわざ破る必要なんてないように思えた。その動画は淡々と紙幣を破り、九枚、総額二万七千円分の紙幣を破り、踏みつけ、未練なくその場を後にした。そして、狂乱が続く通りへ繰り出し、動画は終わる。

 なぜか撮影者は皆一様に押し黙ったままだった。コメント欄には山のように質問が寄せられているのに、どれ一つとして返答しない。

 私は淡々と講義に出席し、怖がる友人たちに同調して怖がり、黙々と情報を集めた。私が首都出身であることを知っている友人たちからは家族の心配をされたが、何も答えることができなかった。

 高校卒業まで私は携帯電話すら持たせてもらえていなかった。その後自分で契約したが、両親の電話番号は知らない。自宅の電話番号に一度だけかけてみたが、そもそも繋がらなかった。ツーツーという無機質な音が聞こえただけだった。

 インフラが壊れているらしい、という投稿をSNS上で見つけたとき、これは本当だろうな、と思った。有線通信はもう機能していない。

 実家は、暴動の中心地にほど近い住宅街にあった。だから、心の中で既に諦めていた。正直になれば、あの親や祖父母が死んでくれたなら、怪しい宗教との縁も切れると思って期待していた節もある。

 暴動は日ごとに範囲を広げ、周囲の街を飲み込みそうな勢いで混乱が広がっていった。国全体が怯え、慄き、事の展開を注視していた。私は講義に出席し、レポートをこなし、死んだであろう家族の冥福を祈るしかできなかった。友人たちが変に気を遣って話題を避けないでいてくれることがありがたかったことを覚えている。

 やがて一週間が経つ頃、暴動は急に収束した。後に残されたのは死屍累々の街と、正気を失い、ボロボロになった人間たち。彼らはPTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断され、記憶も曖昧なまま、僅かばかりの情報を残してバタバタと死んでいった。誰も、何を目的とした、なぜ発生した暴動なのか、語ることはなかったという。

 それから六年、架空局に勤めるようになって、わかるようになったことと、それでもわからないことがある。


  ◇


 朝だった。いつ入ったのか覚えていないが、ベッドには入っていた。傍には篠崎部長から借りた千円札が落ちている。夢で六年前のことを思い出していた気がするが、この紙幣のせいだろう。寝る直前まで来歴を探っていたから。

 朝食を摂り、身支度を整え、余った時間で再び紙幣の来歴を探る。昨日よりも昔まで辿れた。今まで一枚の紙幣に何時間も向き合ったことはなかったが、時間が経つほどに遡れるようになっている。私に足りなかったのはこの訓練なのかもしれない。

 一歩前進。試験に向けて、足取りが少し軽くなる。

 通勤中、電車に揺られながら六年前の事件を思い返す。

 紙幣を破り捨てたあの動画は今も鮮明に覚えている。あの暴動に関する動画はほとんどが削除されてしまったので、通貨信用師としての目で再考することはできないが、おそらく通貨への信用が失われていたことを示している。信用が失われれば、紙幣はただの紙切れに見える。硬貨は金属の塊になり、銀行口座の残高はただの数値になる。

 あの暴動がどういう性質のものだったのか、今でも原因は不明だし調査している部署があるのかどうかも、本当のところはわからない。だが少なくとも、賃金アップや待遇改善を求める労働組合のデモとは性質が違う。誰も何も求めていない。

「私たちの仕事は、信仰をつくることだ」

 研修で言われた言葉が妙に引っ掛かる。

 

 今日の仕事は、流通前の通貨信用処理チェックだった。本来は二級以上の業務だが、補助で入ることもある。篠崎部長について造幣局まで行くと、刷られた一万円札が山のように積まれた工場に連れていかれた。私は、硬貨の信用処理はこれまでやってきたが、紙幣の信用処理はまだ疎い。言わずもがな、五百円玉よりも価値が大きいからだ。紙幣の扱いは三級以上の業務とされている。

 昇級しろ、という無言のメッセージが篠崎部長の背中から出ているようだった。

「真白さん、どう、見てわかる?」

 紙幣の山を見る。紙幣の信用処理の経験は少ないが、日々の生活でも注意を払ってきた。カテゴリーの見分けはできる。

「ええと、大半はカテゴリー3だと思います。あの辺、カテゴリー2かも」

 私が指さすと、篠崎部長は微笑んでその方向に歩み寄った。

「この辺だね」

「そうです」

 部長が指さした山は、まさに私が思った箇所で、自信がつく。どことなく、信用処置が甘い気がした。近づいてみると、一か所だけ暗く見える。もちろん照明のせいではなく錯覚なのだが、この気のせいのような感覚こそが重要だ。

 部長は紙幣の山に、雑にも見える手つきで手を突っ込み、勢いよく紙幣の束を抜き出した。崩れるのではないかと冷や冷やしたが紙幣の山は静かなものだった。

「カテゴリーは2+ってところか。このまま流通させても問題は起きない可能性が高いけど、少し手間をかけよう。真白さん、あれ、持っているよね」

「はい」

 執務室を出る前に持たされた鍵を取り出す。手で催促されたので鍵を渡すと、入れ替わりに札束を渡された。まだ何も記憶を蓄積していない、入学したての小学生のような軽い札束だった。

「それでは、この車を真白さんに売却します」

「あ、はい。篠崎部長の車を購入します」

 再び、鍵と札束が交換される。部長の手に渡った瞬間に、札束の輝きが僅かに増した気がした。

 しかし、部長は首を傾げる。

「まだ、微妙だな。真白さん、三時間くらいその車でドライブしてきてくれる?」

「わかりました」

 クルーザーのときと同じだ。私が購入した体で車を動かせば、紙幣の信用処理が進んでカテゴリー3になる。

 そこに、若い男の声が割って入った。

「あんたら、遊びなら別のところでやってくれないか」

 背の高い、髪にお洒落なパーマがかかった若い男性だった。近くにいた上司らしき男性が諫めるが、それを振り払って詰め寄ってくる。

「こっちはさっさとこの三千万枚を流通させたいんだ。それを毎回毎回あんたらの部署を通さないといけないなんて、無駄だろうが」

 私は男の人の大声が苦手なので、すす、と篠崎部長の陰に入った。

 部長はいつも通りの声で返す。

「申し訳ありません。でも、これも必要なことなんですよ」

「必要? どこが?」

「そうですねえ……お時間はありますか」

「あんたらが説明するっていうならな」

「では、真白さんについて行ってみてください。真白さん、ドライブがてら、彼に我々の業務を説明してあげてください。もちろん、運転してもらうわけにはいきませんが」

 ぎろり、と男性の目線がこちらに向く。私は萎縮しながらも、上司からの指示を断ることができなかった。


「俺は佐々野と言います。二十五歳」

「真白です。同じく二十五歳」

「じゃあタメ口でいいな」

「あ、はい。そうだね」

 私はガチガチに緊張しながら庁舎を出て駐車場に向かっていた。駐車場には数台、通貨信用部所有の車があり、その一台に鍵を差し込んで開錠する。

「この車、スポーツカーじゃねえか。お前らの部の物なのか」

「えっと、はい」

「内装もフル装備かよ。金かかってんな。税金の無駄遣いだ。移動するだけなら安い軽自動車でいいだろ」

「軽自動車も持っていますけど、この場合はお金がかかっていることが重要なんです。さっき篠崎部長が掴んだ紙幣の額に見合うものでないと、通貨信用処理が充分に施せないんですよ。五百万円を処理するためには、同じく五百万円の物品が必要なんです」

 イグニッションを入れると、国産高級スポーツカーのエンジンが唸りを上げる。私はそのスペックを存分に余し、安全運転でのろのろと走り出す。

「通貨信用部だっけ。この際だから聞きたいことを聞かせてもらう」

「その前に、どこか行きたい所はないですか。できれば片道一時間ちょっとかかるくらいがいいんですけど」

 佐々野はじろりと私を見て、視線を前に戻した。話を遮ったことは申し訳ないけど、走らないと仕事にならない。

「海」

「了解です」

 当局の駐車場を出て、海を目指す。いいドライブコースがあるのかもしれないが、私はそういうことに興味がないので適当に海方面に向かって走らせる。

「それで、あんたらは何をやっているんだ。さっき言っていた、通貨信用処理ってのは何だ」

「一円を一円としてありがたがってもらうための処理です」

 とっておきの端的な説明だったのだが、佐々野は眉をひそめた。

「はあ? ふざけてんな」

「いえいえ、本当にそうなんですよ」

 慌てて左手を振る。軽く篠崎部長を恨んだ。造幣局との関係を改善したいと思っていることは知っているが、このままだと逆効果になってしまう。

 ひとまず、海までの片道をかけて架空局の研修で教わったことを概説した。佐々野は途中で質問をしながらも、信じないということはなかった。

 海が見える場所に来て、目に付いたコンビニに停める。

「運転、変わるか?」

「いや、私がやらないと意味がないから」

「そうか。この車、運転してみたかったんだけどな」

 残念そうに言う佐々野は、ただの同級生に見えた。最初は喧嘩腰だったが、落ち着いて話してみると、普通にクラスにいそうな男子の延長線上という感じだった。

「あんたの話をまとめると、貨幣は信用処理を施さないと、流通しても使われないってことか」

「そういうこと。死に銭になって、動かない。お金は社会の血液だから、動かないお金は意味がない」

「それ、研究データ出てんのか」

「出ているらしいよ。でも、あんまり一般には知られていない。知られない方がいい。信用させられているなんて知って、国民がいい気分になるとは思えないから」

「そりゃあ、そうだな」

 ようやく佐々野の顔をゆっくり見られるようになってほっと息をつく。声を荒らげる男性にはいい記憶がないし、運転中は横見するわけにもいかなかった。

 私の説明で納得したのか、穏やかな無表情になった佐々野はコンビニに入る。

「ここは出すよ。授業料だ」

「いや、……ご馳走様です」

 二人で飲み物を持って外に出ると、佐々野はそのまま車を通り過ぎた。

「どこ行くの」

「せっかくだから海まで行こうぜ。ここじゃ、海が見えるだけの場所だ」

 特に断る理由も無かったので、ついて行く。佐々野は背が高く歩幅も大きいが、ついていくのに苦はなかった。

「まだ、半信半疑だ」

「何が」

「通貨信用処理も、架空物信用局のことも」

「まあ、実感できないとそうだよね」

 私だって、入局し、研修を受け、従事するまでわからなかった。それをたった一時間の会話で信じる方が無理というものだ。

「半分信じてもらえたら充分かな」

「架空の物っていったら、国家だってそうだよな」

「そうだね」

「国家を信じさせる部署もあるのか」

「あるよ」

 国家信用部という部署がある。

「あっちはウチより人数が少ないけどね。国家の信用度はこの数十年間、安定しているから。六年前の暴動を除いては」

「そうなのか」

「国家が国家として信用されるには国旗を掲揚したり、国歌を歌ったり、私も詳しくないけど、そういうことが必要なんだって。でも、先の大戦で一度日本はなくなって、再構築されてから、経済成長と共に安定して国民が支持しているらしいよ」

「内閣の支持率ってそんなに高くないだろ」

「内閣じゃなくて、国家だから。この場合、与党も野党も、なんなら日本という国の有り方を批判することも、国家の存在を前提として語っているでしょ。だから、国家の存在を疑っている人はほとんどいない。わかりやすい物体があって、膨大な数のものそれぞれに処理を施さないといけない通貨信用部よりは簡単らしいよ」

「お金より国家の信用を得る方が簡単とは、なんつうか、変な話だな」

「国の体制が安定しているからだね。経済破綻している国なんかでは、国家信用部にあたる部署が大変なんだと思う」

「そうなんだな」

 砂浜の傍まで来て、私たちは足を止めた。

「なんか、悪かったな。遊びとか言って」

「いえいえ」

「ちょっと羨ましい気持ちもある。実際に信用処理をやっているのは個人の技量なんだろ。国を職人が動かしているって感じで、なんかいい。お金をつくるのは機械化されているから、俺の腕で仕事をしているって気があまりしないんだ」

 昇級試験のことが鎌首をもたげる。

「どうした」

「何が?」

「浮かない顔だったから」

 そんなに落ち込んで見えただろうか。

「実は、昇級試験があってね。通貨信用師として、次のランクに上がる試験を受けるの」

「ふうん。それで?」

「落ちそうなの。私は今一番下の四級で、そろそろ三級に上がらないとまずいんだけど、それすら落ちそうなの」

「そんなに難しいのか」

「私には」

 ふう、とため息を吐いた。

「俺にはよくわからないが、お前はちゃんと仕事をできているように見えたぞ。そっちの部長とのやり取りを見る限り」

「まあ、あれくらいはね。私はどうも、お金に偏見があるみたいで、見たり感じたりは人並にできても、信用処理が苦手なの」

「偏見」

 佐々野はその言葉を繰り返し、ペットボトルの水を一口飲んだ。波の音が響く。

「お金とは何か。俺も仕事柄、よく考えるよ」

 佐々野は遠くに見える島に視線を合わせ、財布から五十円玉を出して弄ぶ。

「最初は、物々交換が面倒だから開発されたシステムなんだと思っていた。物事のやり取りを円滑にするための仕組みだって。でも最近は、ちょっと違うことを考えている」

「どんなこと?」

「人と人を繋げるものなんじゃないかって、思うんだ」

 佐々野は五十円玉を顔の前に掲げ、穴越しに私を見た。

「人の仕事、つまり、社会への貢献。それはお金を仲介して行われる。素粒子、ええと、世界を構成する最小粒子の中には、力を媒介するものがある。お金っていうのは、そういう、人の仕事の成果を乗せて運ぶ、乗り物みたいなものなんじゃないかなって、そう感じるようになった」

「人の仕事の、乗り物」

「お金を稼ぐのは楽しいけどよ、本当に楽しいのは、お金を渡されたときなんじゃないか。自分の仕事ぶりが感謝と一緒に評価され、渡される。その瞬間が嬉しいんじゃねえかな。ま、これも偏見なのかもしれないけどよ」

 佐々野は五十円玉を指で弾いてこちらに飛ばした。慌ててキャッチする。

 その硬貨は体温を吸っていて温かく、謝罪と応援が感じられた。


   ◇


 その夜、私は部長から借りた千円札ではなく、佐々野から渡された五十円玉を見ていた。

 乗り物。車のタイヤに見えないこともない。

 佐々野の考え方はとても平和的で、そして示唆に富んでいた。人の感謝を媒介する存在。そんな風に考えたことはなかった。

 実家に暮らしていた頃、お金は常に足りず、それでも両親と祖父母は喜んで献金していた。

 善道教、それが献金していた宗教の名前だった。善き道を辿れば幸せになれる。というシンプルな前提を立てていたが、その善き道の中に献金が含まれていたのだから私は信じていなかった。

 月に一度、善道教の男が献金を募りにやってくる。拒めば説教という名目で延々居座られる。そういうやり口だった。一度、中学生のとき、母が集金者に手渡す直前のお金を奪って逃げたことがある。家の外に飛び出して、住宅街を走り回った。

 その結果、私は父でも母でもなく、善道教の集金者に捕まった。そして、大声で恫喝された後、頬を叩かれた。一度や二度ではなく、数えきれないほど。途中から何を言っているかわからなかったが、大声で何かを叫ばれながら叩かれた体験、そして、それを父も母も止めてくれず、厳しい目で私を睨んでいたことが怖かった。

 あまつさえ、顔を腫らして目も開けられない有様になった私を放置して、集金者に謝罪とお礼を言っている声が聞こえた。

 私が両親を、自分の親だと思えなくなったのはそのときだ。家族と縁を切ろうと初めて考えた。

 そんな風に人を狂わせてしまうのが宗教とお金なら、私は無宗教でいいし、お金には飲み込まれない。この甘美で危険な存在に、決して我を失ったりはしない。

 でも、違うのかもしれない。

 お金はナイフではなく、車なのかもしれない。

「宗教はともかく、君に罪はないよね」

 今の私はもう少し、彼らに心を開ける気がした。

 部長の千円札に触れる。焦らず、ゆっくりと、彼が重ねた地層のような歴史に根を掘って潜っていく。薄っすらとした部長の層、次に現れる主婦の層、横を見れば家族がいる。次は犬を飼った老人だった。その次は教師、子供たちを見下ろす教卓がイメージに浮かぶ。そのままするすると、昨日までとは全く違い、抵抗なく遡って行けた。不思議なことに、高揚も興奮もなかった。あるがまま、飲んだ水が胃に到達するように来歴を辿れた。

 そして辿り着いた。かの事件。この紙幣に気持ちがあるのなら、大層落ち込んだであろう、自信をなくしたであろう、あの暴動。持ち主は変わらず、使われることもなく、ただ、外の狂乱を聞いていた。

 私はその先に、強く私を引くものを感じた。六年前よりさらに昔、まだこの紙幣が信用をなくす前。

 そこに降り立つと、いたのは私だった。ベッドの上で、紙幣を握りしめて泣いている。

 空色のワンピースを買えなかった私が、そこにいた。


   ◇


「三級昇級、おめでとう」

 篠崎部長が私に手渡した辞令には、私が三級通貨信用師になったことが書かれている。

 私は無事、試験をパスした。

「ありがとうございます。これ、お返しします」

 抽斗から、借りていた千円札を取り出す。今でも読み取ると、部長の層は薄い。それでも今の私には、篠崎部長が心から私を案じ、背中を押そうとしてくれていたことが感じられる。

 部長は採用面接の際、私の過去を知った。そして、紙幣の来歴を辿ったその先にいる子供の頃の私に気付いたのだ。それは私を導き、紙幣が蓄積した歴史を巡る助けになってくれた。

 その日から、ぐんと見通しが良くなった。コツを掴んだのか、硬貨一枚、紙幣一枚の来歴がクリアに見える。

 さすがに、六年以上前の来歴まで遡るのはまだ難しい。あれは、私がかつて持っていた、それも強い感情と共に持っていた紙幣だからできたまぐれだった。それでも、技量が増したことは肌でわかる。

 佐々野にも感謝しなくてはならない。あれから何度かメッセージのやり取りをしたが、海に行った日から、お金をむやみに警戒しなくなった。ある意味、私の喉につっかえていたものを外してくれた。

 お金は敵じゃない。ナイフのように尖ったものでもない。人を狂わせるのはお金ではなく、それを持つ人間の狂気だ。私はお金への警戒と宗教への警戒が混ざってしまっていたのだろう。今は純粋に、お金をお金として見ることができていると思う。

 千円札を受け取った篠崎部長は一瞬動きを止め、いつものように微笑んだ。

「試験の少し前から、憑き物が落ちたような顔になったね」

「そのお札のお陰ですかね」

「何、どういうこと」

 突然、三輪が絡んできて部長から千円札をひったくった。部長は「あ」とだけ言って顔を伏せる。

 三輪は親指と人差し指で擦るように吟味し、にんまりと笑った。

「真白ちゃん、ダメだよ。部長は既婚者だから。もう一人の背の高い彼にしておきな」

 何を言われているのかわからず、数秒間首を傾げて三輪を見つめた。そして唐突に悟る。かあっと顔が熱くなるのがわかり、紙幣を取り戻そうと手を伸ばすが避けられる。

「若いっていいねえ。そんで、部長も罪な男ですね」

 通貨信用師としての技量が上がることは、自分の思念をより強く残せるということでもあるのだった。

 例えば、私が考えていたこととか。

「そういうのじゃありませんから!」

 篠崎部長のように、思念を残さない技も早く身につけよう。

 通貨信用師の道はまだまだ長い。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る