架空物信用師

佐伯僚佑

第1話 通貨信用師―赤本と空色—(前編)

「真白ちゃん、今日は五百円玉の日だっけ」

 登庁したら、先輩の三輪が声を掛けてきた。

「はい、あと一時間くらいしたら出掛けます」

「そっか。じゃあ、お昼は一緒に行けないね」

 三輪は手を振って自席についた。緩く結ばれた後ろ髪が揺れる。私も急ぎ、書類仕事を始める。五百円玉の日はあまり庁舎にいられない。今のうちに進められるだけのデスクワークを進めておきたい。

 気怠い朝の空気の中、いつものように出勤時刻ギリギリになって、上司の篠崎部長があくびをしながらタイムカードを通した。

「おはよう、皆。今日の五百円玉担当は誰だっけ」

 手を挙げると、軽く頷かれた。

「真白さんか。昨日は僕だったから、よろしく」

 篠崎部長がそう言ってコーヒーメーカーに向かったので、今日の朝礼はそれだけのようだった。特別な連絡は無し。いつものことながら、雑な上司だ。今のところ私の仕事に支障はないから、文句はないけれど。

 篠崎部長はマイカップをコーヒーメーカーにセットし、電源を入れる。その間に、自分のデスクに積んだ百円玉を一枚取り、コーヒーメーカーの横に設置された豚の貯金箱に入れた。ちゃりん、と聴き慣れた音がする。

 執務室の十数人、部の全員の耳がその音に集中する様子が見えるようだった。まだ音が軽い。おそらく、造形されてから初めて使われる硬貨だ。篠崎部長の実力ならば、この一回で充分な通貨信用処理を行えるだろう。コーヒーを飲んでいるうちにでも、発行可能に熟して、カテゴリー3に移せる百円玉になる。

 ここは架空物信用局。通称、架空局の通貨信用部。

 文字通り、通貨に信用を与える場所だ。


   ◇


「君には希望通り、通貨発行に関わる仕事をしてもらう」

「はい」

「まずは、船舶免許を取得してくれ」

「は?」

 配属された初日の私は頓狂な声を上げてしまった。

 大学卒業後、私は架空物信用局という聞いたことのない部署に配属された。同期二人と新人研修を終え、どうも思っていたような業務じゃないぞと疑っていたら、通貨信用部というさらに得体の知れない部署に割り振られた。

 造幣局か財務局を希望したつもりだったのだけど、新人研修では、信用がどうの、架空物がどうの、神性とは、などと胡散臭いワードのオンパレードだった。

 極めつけがこの、船舶免許取得命令である。さすがに困惑が極まり、無礼な返事をしてしまった。慌てて頭を下げる。

「すいません」

 上司になったばかりだった篠崎部長は、ずり落ちそうな眼鏡を直し、にこやかに笑った。

「懐かしいね、その反応。僕が新人のときとそっくりだ」

 篠崎部長は、じゃーん、と言ってふざけながら、一つのパンフレットを取り出し、私に渡した。「一級小型船舶免許取得のすすめ」と書かれ、シャチを模したようなキャラクターがこちらに笑いかけている。

「申し込みは済んでいる。早速だけど今日の午後から座学開始だから、行ってきて」

「はあ……。どうして船舶免許を?」

「そりゃあ、必要になるからだよ。大丈夫、大丈夫。後で納得するから」

 篠崎部長はにこにこと笑っているが、どうも、困惑する私を見て楽しんでいるように感じる。

「それは、まあ、行けと言われれば行きますけど」

 まずは黙って言われた通りに仕事をしろ、とはよく言ったものだが、これほど訳がわからず、しかも後になって本当に役立つ指示はなかった。

 肩透かしではあったが、大学では割と真面目に勉強してきたので勉強の勘は残っていて、船舶免許は難なく取れた。だが、難しいのはそれからだった。


   ◇


 お金とは何だろう、そう疑問を持ったことがない大人は意外と多い。生まれてこの方、お金が無い生活を経験したことがないからだ。だが、よく考えてみると不思議なものだとわかると思う。お金、つまり一万円札や十円玉のような紙幣や硬貨のことだが、あれはただの紙や金属の塊である。それで生命維持に必要な野菜や米を購入できる。私もそれを疑問に思うまで、生まれてから十八年かかった。

 画用紙を、一万円札と同じ大きさに切って、「一万円」と書き込んだら米十キログラムと交換できるか。否である。

 銅の塊を店に持って行って飴やチョコレートと交換できるか。否である。

 日本銀行が発行したものですよ、と証明する模様を、指定された物体に描き込んで、仕事の報酬として手に入れたり、誰かから貰ったりする。そうして初めて食料や衣類、あるいは娯楽やサービスなどと正当に交換できるようになる。

 その実態は、紙とインクの集合に過ぎないのに。型に流し込まれた合金にすぎないのに。

 つまるところ、お金に価値があると全員が共通認識を持っているから、通貨社会は成り立っている。ゴリラに一万円札を渡してもありがたがらないに違いないし、鳥に五百円玉を渡してもリンゴと交換しに来ない。人間が、社会としてお金を物品と交換できるものと定めた、それが重要なのである。

 架空局に配属が決まった後、とある社会学者の言説が新人研修で取り上げられた。

「架空の物事の存在を信じられることが人間の持つ特殊性である。通貨、国家、神、会社、これらはいずれもただの約束事だったり、情報だったりする。そうした実在しないものを、さもそこにあるかのごとく信じられることが、人間を人間足らしめている」

 研修教員はそれを語って、私たちをゆっくりと見渡した。

「通貨は日本銀行が保証している、という約束の上で成り立っている。国家は、政府を国民が支持したり、政府が人民を支配したりすることで成り立っている。国民誰もがここを中国だと思っていれば、誰も日本の法律には従わないだろう。つまり非実在、架空のものなんだ」

 大学を卒業したての私や、一緒に研修を受けていた同期たちは、しばらくポカンと口を開けて研修教員の男性を見ていた。彼も苦笑し、「難しいよな」と眉尻を下げた。

 その後、彼はいくつかの例えを出してくれた。

 リンゴを持った猿がいる。私はバナナを持っている。もしも猿と言葉が通じたなら、リンゴとバナナを交換してもらうことはきっとできる。

 次に、私がバナナの代わりに千円札を持っていた場合を考える。八百屋に行けば、バナナを何房か買える金額だ。同じように猿が持つリンゴと交換してもらえるだろうか。八百屋の場所を説明し、この紙きれはバナナと交換できるからリンゴと取り換えてくれとお願いし、同意してもらえるだろうか。

 まあ、無理だ。

 なぜなら、猿はお金の価値を信じられない。日本銀行を信用するという価値観を持っていない。

 これが実在と非実在の差である。動物たちに言って聞かせて分かってもらえるものが実在で、分かってもらえないものが非実在のものだと、大まかに考えればいい。

 猿は群れの存在を信じるが、国家の存在は信じない。親や兄弟は理解するが、神は理解できない。

 人間は非実在のものを信じられる。存在すると確信して社会生活を過ごしている。

当時の私は研修でここまで聞いて、なるほど、人間と他の動物の差はそこにあるのか、と大変に納得したものだった。言うまでもなく、人間は地球上で特別な動物である。複雑で高度な文明を築き、機械化された産業、効率的な農業、自然治癒以外の医療、環境を変える能力など、野生動物とは一線を画す。その根源的な差はそこにあったのか、と。

 しかし、そこで研修教員は笑った。してやったり、といった調子で。

「でもね、そこまで人間は賢く、あるいは馬鹿ではなかったんだ」

 彼は続けた。

「通貨が出回れば、贋金が出回った。元々は朝廷があったのに、幕府と朝廷で分裂し、果ては戦国時代に突入した。宗教が多数生まれ、消え、神はいるのかいないのか、いつの世もその存在が疑われた。株式会社という今やメジャーな約束事だって、生まれたのは東インド会社まで歴史を待たねばならなかった。

 非実在の物を信用すること。それは人間にとっても難しいことだったんだ。歴史に学び、それに気づいた我々の先祖は、架空物信用局をつくった。

 ただお金を刷るだけでは信用を得られず、ただ国家を名乗るだけでは国家たりえない。放っておいても、それらは信じられない」

 彼の表情が引き締まり、私たちを見渡した。

「私たちの仕事は、信仰をつくることだ」


   ◇


 私はふ頭に向かって車を走らせる。助手席には篠崎部長がいて、ノートパソコンで書類仕事をしている。私は乗り物酔いする性質なので、移動中に仕事ができる体質は羨ましい。

 ドラッグストアを見つけて、部長に声を掛けた。

「寄っていいですか。酔い止め薬を忘れてしまいました」

 会社に常備しているのだが、今日は持ってくるのを忘れた。

 篠崎部長は眼鏡を直し、「いいよ」と言って、狭い車内で伸びをする。

「僕も、飲み物でも買おう」

 私は酔い止めを、篠崎部長はペットボトルのお茶を買った。私は駐車場で、お釣りで貰った十円玉を弄ぶ。

 指の間でくるくると回しながら、硬貨と一体化するように意識を一緒に回転させる。この硬貨が巡ってきた足取り、どんな人に使われ、どんな風に扱われてきたかを読み取っていく。

 まずは、発行されてからどれくらい経過しているか。

 どんな硬貨にも紙幣にも、発行されてからの時間が蓄積される。たとえ押し入れに仕舞い込まれてほとんど日の光を浴びなかったとしても、仕舞われていたという記憶は残る。

 指を止め、人差し指と中指で挟んだ状態で目を閉じる。積み重なった深みを感じ、関わってきた人たちの意識の量に触れる。

「七年くらい」

 次は、どんな使われ方をされたか。

 一番強く感じるのは、直近の持ち主。ドラッグストアのレジに入っていたということは、客が持っていた可能性が高い。

 いかんいかん。先入観は排除して、まっさらな心で硬貨と向き合わないと。

 改めて硬貨に意識を向ける。沈むように、潜るように、深く深く。

「ジムのトレーナー。プロテインの代金」

 私は目を開け、篠崎部長に渡した。部長は「ん」と言って摘まみ、そのまま固まる。やり方は人それぞれだ。私のようにこね回すタイプもいるし、篠崎部長のように摘まんだり握ったりしたまま動かない人もいる。

「十三年。うん、トレーナーだね。その前は、ちょっと巡って歯科衛生士が使っている」

「そこまではわかりませんでした」

「トレーナーと歯科衛生士の間に、銀行含めて五箇所挟んでいるからね。わからなくても仕方ない」

 これは通貨信用部の新人教育として恒例のやり取りだ。通貨に蓄積された「信用」を正確に測る技能が私たちには必須であり、その最も有効な訓練が、こうして偶然手元に渡ってきたお金の来歴を感じることだとされている。当然、硬貨に刻まれた発行年を見るのはカンニングだ。

「真白さんも入局時に比べればかなりわかるようになってきたね。歯科衛生士まで読めたら一級だよ」

 通貨信用部には四級から一級まで、技術階級制度がある。私は四級、つまり最低限の技能を持っただけの状態だ。篠崎部長は一級。発行からの経過年数を誤差五年で当てられるようになったら三級の目安とされている。つまり私は、大外れ。はっきり言って論外な結果だった。

 硬貨から読み取るだけ、しかも手で触れているのだから、わかって当たり前の世界なのである。私たちの仕事は読み取るよりも難しい、通貨に信用を与えること。それも、いちいち触れて調べていられないくらい大量に。ぱっと見ただけで蓄積された信用を感じ取らなければならない。

「難しいですね」

 だから私は、まだまだ新人の域を出られない。

 私の溜息を、篠崎部長は慰めるように軽く笑った。

「そう焦ることでもないさ」

 車を発進させた。

 篠崎部長は財布から千円札を取り出して言う。

「それより、僕が貰ったお札が興味深い」

 篠崎部長は日の光に透かすように、両手で紙幣を持って目を細めた。

「信用が大きく失われている時期がある。おそらく、六年前の暴動を経験した紙幣なんだね」

「六年前の……」

 かつて、架空局の人員は半分未満だった。通貨信用部も、今ほど整った部ではなかったと聞いている。そもそも、架空局の存在は公にされていない。信用が「生み出される」ことが常識化してしまうと、疑いを育ててしまう可能性があるからだ。

 そんな組織が倍以上に大きくなった理由は六年前にある。通称は暴動。

 原因ははっきりしていないが、お金、会社、国家や神、そうした非実在の物事への信用が大きく減った事件があった。その結果、とある地域で疑心暗鬼が蔓延し、自暴自棄になった暴徒が街に溢れ、そこかしこで殺し合い、自殺者が出た。企業は倒産、というか従業員が壊滅。暴動は範囲を拡大しながら二週間ほど続き、直接の死者は三千人を超える惨事になった。それ以後の間接的な死者も含めると、一万人以上が亡くなったと言われている。

 研修で教わった、人間が架空の存在を簡単には信じられないことを示す史上最大の事件であった。

「あの時は、あのまま日本が無くなっちゃうんじゃないかと思いました」

 この首都の端っこで発生したあの事件は、今もなお明らかになっていないことばかりだ。肉親を亡くした人、大切な人を亡くした人も多い中、決着や、責任の所在が明らかになることなく今に至っている。

 私もまた、あの事件で家族を失った。暴動が起こった爆心地のような地点は、ちょうど実家のすぐそばだったのだ。

 篠崎部長は「忘れられないなあ」とぼやく。

「後にも先にも、あの時ほど忙しくなることはないと思うよ。原因不明だったから、信用を失ったお金はとりあえず処分して、どんどん新しいお金を出していったんだけど、人手が圧倒的に足らなかった。国がそんな状態だから家でゆっくり休んでいるわけにもいかなくて、一か月くらい不眠不休で働いたっけな。信用処理以外にも、やることが山ほどあって」

 篠崎部長の口調には、武勇伝を語るような自慢げな雰囲気はない。あえて淡々と、懐かしがるわけでもなく、苦労にうんざりするでもなく話す。ある意味渦中にいた篠崎部長には、感情を顕わにして話せることではないのだろう。

 その神経が通った口調はいつも私を落ち着かせてくれる。この人は、自分の言葉がどれだけ部下に影響をもたらすかわかっている。

「そのときの紙幣は、研究用サンプルを除いて大部分が処分されたはずだけど、こんなところに生き残りがいたんだね」

 皺が刻まれ、端がよれたその千円札は、永いときを生きた老婆に見えた。

 部長の手によって、そのとき失ったものを取り戻すように、信用がじわじわと付与されていく。

「あなたのような古いお金は信用が高い。もうひと働きしてくださいね」

 横目で見ても、部長の手の中でお札がずっしりと信用を帯びていくのがわかった。くすんだ古い雰囲気から、くっきりと印刷の模様が浮かび上がるかのようにその存在感を増していく。やがてそっと財布にしまわれたそれは、もう誰がどう見ても疑う余地なく千円分の価値を持っていた。

 私も早くその魔法のような手に近づきたいと思うが、いつまでも追いつける気がしない。

 車はふ頭に着き、私と部長は造幣局の人間を待った。やがていつもの時間になると二トントラックが現れる。

 車を降りて迎えると、無言で書類にサインを求められた。こちらもいつも通りのことなので気にせず書類にサインし、トラックの荷台を確認する。中にはケースにぎっしりと収められた五百円玉がダース単位で載せられている。数を数えながら、背後から聞こえる部長の声に耳を澄ます。

「今年は多いですね」

「デフレを解消するために流通量を増やしているんだとよ」

「お金が増えるとインフレするんですか」

「さあ、知らねえ。ウチは経済学者じゃなく、印刷と金属加工屋だからな」

 造幣局の末端職員はいつもこんな感じだ。やる気がないというよりも、架空局、とりわけ通貨信用部に対して風当たりが強い。敵視されていると言っても過言ではない。

 彼らにとって、私たちは余計な手間をかけさせる税金泥棒に見えているのだという。架空局の存在や意義を半分秘匿している弊害がこのあたりに現れているというわけだ。

 部長は、「はあ、僕も経済には詳しくないですね」と心にもないことを言いながら機嫌を取る。

 部長は私と違って造幣局との関係を改善したいらしく、機を見つけては造幣局の人間と話したがる。私はまだそこまで大人になれない。喧嘩腰な相手からは逃げる。

「枚数確認、できました」

 私は荷台から部長に声を掛ける。部長は荷台に上がって積まれた五百円玉を見渡した。

「カテゴリー0か」

 カテゴリー0。つまり、成型されたばかりで、まだ信用を付与されていない生まれたての硬貨。カテゴリーは3まであり、そこまでいくと流通基準の通貨信用処理を施されたと判断され、日本銀行を通じて世に出て行く。

 お金に信用を付与しないまま世の中へ流通させると、そのお金は使われず仕舞い込まれたり、大切にされず、すぐに汚損して回収されたりすることがわかっている。持ち主がそのお金に価値を感じないから雑に扱われるのだ。

 また、あまりに信用が低い貨幣が蔓延すると、贋金が多く出回るようになると歴史が示している。

「数千枚、一円玉も混ざっています」

「そうみたいだね」

 荷台の隅には、アルミ製の一円玉のケースも積まれていた。枚数で見ても、金額あたりの重量で見ても、ダントツで大きい硬貨だ。枚数調整のため、五百円玉以外の硬貨が混ざることは珍しくない。

「それじゃ、やろうか」

「はい」

 私と部長は向き合って、部長が差し出す書類の束とジャラついた鍵束を受け取る。

 クルーザーの所有証明書、十隻分。

「僕が所有する船を真白さんに売却します」

 部長の声は荷台の中で反響し、硬貨たちに吸い込まれていく。荷台の中の空気が僅かに重くなったように感じる。同時に、硬貨たちが目を覚まし、役割を認識してこっちをうかがう。

「篠崎部長が所有する船舶を、ここにあるお金で購入します」

 私の声は部長よりも浅く、小さく、硬貨を揺らすだけに留まった。ここまで実力の差があるとさすがに悔しい。

「それじゃあ、後はよろしくね」

 部長は硬貨を1ケースごと撫でていき、私はふ頭に停泊させている豪華クルーザーの群れに向かった。

 ふ頭の一角、架空局が借りているエリアには、豪華クルーザーが十隻停泊している。その一隻に乗り込み、エンジンを掛けた。丸三年やっていると、どの鍵がどの船のものか、見るまでもなくわかるようになる。もやいを解いて沖に出航した。

 初めの頃は船の操縦に心躍ったものだが、ここまで続ければさすがに日常と化した。大学生の頃の私が見たら顎を外すかもしれない。

 お金に信用を付与する方法はいくつかあるが、最も有効な手段の一つが、実際のやり取りで使用することだといわれている。

 だから通貨信用部の職員が疑似的にお金を使うことで信用を付与する。例えば今日のように、クルーザーの疑似売買を大量の小銭で行うことで、一気に沢山の硬貨を通貨信用処理する。

 通貨信用処理はお金のやり取りだけで終わるものではない。売買を行った人間が、どれだけ手に入れた物を使うかも重要だ。クルーザーを購入しただけでは効果が薄く、自分のものとして乗り回すことで通貨信用処理は一気に進む。だから、今日の私の仕事は十隻のクルーザーを順番に乗り回す予定となっている。

 すっかり慣れた舵取りで適当に海を走る。トラックの荷台にいた硬貨たちは、今日の夜にはカテゴリー1か2に成長するだろう。篠崎部長でも、あれだけの数の硬貨を一気にカテゴリー3に持っていくのは不可能だ。五百円玉だけだったらまだしも、一円玉の数が多い。

 一人一人の能力は必須でありながら、最終的には人手も必要になる、私たちの仕事はそういう仕事だ。

 ただ、私の実力の低さはもう少しどうにかしたい。部長は焦らなくていいと言ってくれるが、仕事には慣れても通貨信用師としての技量は一向に上がっていない気がする。今日だって、篠崎部長クラスの信用師が二人組んでいれば、一気に全硬貨をカテゴリー3に上げられたことだろう。

 かと言ってどうすることもできないまま、今日も夕暮れまでクルーザーを操舵して直帰した。


   ◇


 私の実家は貧乏だった。お父さんはサラリーマン、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは年金受給者。お母さんはパートタイマー。五人で暮らしていた。

 私は大学入学と同時に家を出て、それきり一度も帰っていない。奨学金でなんとか卒業し、今も返済の日々だ。大学に入学した時点から、安定しているという理由で国家公務員を目指すことだけは早々に決めていた。架空局に配属されたことは意外だったが、希望通りというわけだ。警察官や自衛官と比べれば、まだしも適性がある職業に就けたと思う。

 社会人になって三年経った今なら、実家の収入が決して少なかったわけではないとわかる。平均的な家庭より、むしろ多かったかもしれない。

 でも、貧乏だった。

 理由は簡単で、家族が、正確には私以外の家族が、入れ込んでいた宗教に多額の献金をしていたのだ。

 最低限の生活すらままならないほどのお金を注ぎ込み、集会に出かけ、ありがたいお言葉とやらを賜う。一度だけ集会に顔を出したが、あまりにも怪しくて二度と行かなかった。今思い出しても、架空物信用局の新人研修より百倍胡散臭い。そして、そんなものにお金を吸い上げられている自分の生活に悔し涙を流した。

 赤本だって満足に買えない受験生だったが、本当に、本当に努力して志望校に合格した。家を出るため、首都の外に何としても出たかったのだ。あの頃の必死さを再び出せと言われても無理だと思う。身と心を限界寸前まで削って手に入れた合格だった。クラスメイトの兄姉が使っていた赤本を、頭を下げて譲って貰った記憶は、何とも惨めで今でも泣ける。

 どうして、どうして、と十八歳の私は憤っていた。お父さんもお母さんも、真面目に働いていることを知っている。私も祖父母も無駄遣いしているわけではない。なのに、どうして我が家は貧乏なのか。

 お金は幸福を連れて来るものだが、不幸を呼び込むものでもある。そして、持ち過ぎても無さすぎても人を狂わせる。

 私はよく、お金はナイフに似ていると感じる。

 正しく使えば便利で、誤った使い方をすれば人が死ぬ。私たちが信用処理を行う貨幣は、もちろん私たちの物ではなくただ預かっているだけだが、流通した後、きっとどこかで誰かを殺すこともある。信用処理が行われて価値を認められたお金は人を動かし、そしてお金は有限で、偏在する傾向がある。

 この仕事は、世界の誰かを不幸にもしている。

 一度、どうしても欲しかったものがあった。

 高校生の頃、当時は制服以外の余所行きの服なんて全部で二、三着しかないような有様だったが、街で見つけたワンピースを欲しくて堪らなくなった。空色で、全体的に装飾は控えめでシンプルなデザインながら袖の飾りが可愛くて、少し光沢を持った素材が私を惹きつけた。

 私は自室のベッドで持っているお金を数えた。しかし、当時の私が自由にできたお金は約三千円。ワンピースは五千円だった。千円札を握りしめ、たったの二千円に泣いた。

 家を出ると決めたのは、その瞬間だったと思う。

 その家族とは、今はもう会えない。六年前の暴動に巻き込まれて全員死んだ。ちなみに生命保険などというものは入っていなかった。そんな余裕があれば全て献金していたに決まっている。そんな家なので、私は、篠崎部長とは違う意味で、あの暴動を感情的に語れない。

 暴動によって、家族で貢いでいた宗教もまた、跡形もなく消え去った。

ざまあみろ、ナイス暴動、という気持ちがないとは、とても言えないのだ。


  ◇


「真白さん、そろそろ昇級試験を受けてみようか」

 朝一で篠崎部長が私の机にやって来て言った。突然のことで返事に困る。

「お、そういう時期ですか。真白ちゃん、何年目だっけ」

 向かいのデスクの三輪が聞いてくる。私は頭の中で春を数えた。

「三年と一か月です」

「最初の一か月は研修だったから、実質、ここに来て丁度三年だ。いい頃合いだと思ってね」

 にこやかに篠崎部長は言うが、私は通貨信用師としての技量が上がったようには感じていない。昇級していいのか? というのが正直な思いだった。

 ちらちらと、他の職員の目線を感じる。その心は何となくわかる。「三級に上がれるのか?」だ。悲しいことに、私の技量が低いことは部の中でも共通認識になっている。

 そこに負い目を感じていないわけではない。昇級したいのは山々である。山々ではあるのだが。

「三級って、目安がありましたよね。試験以外の」

 私が口に出すと、三輪が答えた。

「あるねえ。三級はたしか、経年誤差五年以内。使用者三人まで遡れることだったかな」

 つい昨日、私は六年間違え、使用者も二人までしか遡れなかった。篠崎部長は表情を変えない。にこやかだが、むしろプレッシャーを感じる。

 三輪が気まずそうに言う。

「まあ、ねえ。でも、四級って仮免みたいなものだし」

「そうなんですか⁉」

 三輪は頷き、立ち上がった。肩をゴキゴキ鳴らしながら言う。その仕草と、丁寧に塗られたネイルがアンバランスで目を惹いた。

「最初の二年で三級に昇級するのが一般的かな。まあ、忙しさや適性で一年くらい前後することはあるんだけどね。給料も、ウチの部だと四級のままじゃ上げられないしさ。部長としても真白ちゃんを労いたいんだよ」

 フォローが嵐のように降り注ぐ。風圧にのけ反りそうだ。

 一年くらい前後する、というのは、適性があれば一年早まる人もいる、という意味だろう。もしかしたら、篠崎部長は上の人間から、早く私を昇級させろと急かされているのかもしれない。

「二週間後、テストするから準備しておいてね」

 微動だにしない笑顔で部長は言い残して去った。

「頑張れ真白ちゃん」

 三輪は無責任なガッツポーズをして執務室を出て行った。

 私は、はい、と答えようとして声が掠れた。

 誰にも聞こえない返事が宙に浮く。

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