第三幕ー55
「ねえ、どうして、あなたは、ママの言うことがきけないの?」
綾芽がゆらゆらと揺れながら清花の方へ近づいて来た。その姿は綾芽に違いなかったが、まるで別人のようだった。目は常軌を逸しており、彼女が正気でないことは一目瞭然だった。綾芽は清花を突き飛ばし、床に倒れた清花の上に馬乗りになり、執拗に拳を振るった。「なんで、生まれてきたのよっ! オマエが居なければ、私は、スポットライトを浴びることができたんだっ! オマエさえ産まなければっ!」
いつも、綾芽が清花を殴る時は加減をしていた。彼女はどれくらいまでなら殴っても人間は死なないかというボーダーラインを身をもって知っているかのように思えた。しかし、この日の綾芽は、完全にリミッターが外れていた。鳩尾、顎、腹に間断なく隕石が落ちてくるような強い衝撃が清花を執拗に襲った。その衝撃で、清花は、コンクリートの床に何度も頭部を打ち付けた。意識が朦朧としてきた。ああ、何本か骨いってるな、これ。
「オマエなんか、死んじゃえっ!」
顔に飛んできた拳が鼻を直撃し、鼻血が飛び散り、綾芽の綺麗な顔に悍ましい血の抽象画が描かれた。美しい女を自分の血で汚したという快感で、清花の口元が歪んだ。
「何、笑ってるんだよ? 頭おかしいんじゃねえの?」
綾芽が再び腕を振り上げた隙に、清花は、綾芽の顔に唾を飛ばした。ああ、愉快。その整った顔をめちゃめちゃにしてやりたい。清花は、綾芽が顔についた唾を手の甲で拭っている隙をついて、伸びきった爪先で綾芽の顔を思い切り引っ掻いた。その行為が、綾芽の怒りを更に増幅させた。綾芽は、清花の両肩を持ち、コンクリートの床に頭を打ち付けた。
「しってたよ……わたし……ゆうすけは、さいしょから、わたしのことなんてすきじゃなかったって……ふたりのじゃまして……ごめ……ん……」
そう言って、清花の意識は途切れた。
「綾芽さんっ! もう、これ以上はまずいです! 救急車呼びましょう! 今なら『人殺し』にならずに済むかもしれませんっ!」
美咲が、ぐったりと横たわった清花から綾芽を力づくで引き離した。ふっと、綾芽の目から業火が消えた。
「いいえ、呼ばなくていいわ。美咲。あなたは、今すぐ、このノートを持って、この場を離れなさい!」
そう言って、綾芽は美咲に、清花が持ち逃げしようとした『反省文』の七から十までの四冊のノートを手渡した。
「私は、明日、警察に連絡をします。幼馴染をこの手で殺めてしまった、と。それまでは、清花と二人で最期の時間を過ごさせて。あなたは、今回の事件には一切関与していない。ネイルスクールでの、あなたと清花の関係は、誰の目から見ても良好だった。誰も、あなたを疑うことはないでしょう。さあ、お逃げなさいっ!」
美咲は、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、
「で、でも……私、綾芽さんひとりに罪を擦り付けるなんてできませんっ! 私も一緒に罪を償います!」
と言った。
「美咲……あなたは、本当に優しくて素直な子ね。私ね、今まで、あなたのその純粋な心を利用していたの。今回の件だって、本当はあなた、やりたくなかったんでしょう? 無理言って私たちの愚行に巻き込んでしまってごめんなさいね。今まで、本当にありがとう! どうか、どうか……幸せな人生を歩んでね!」
泣きじゃくり、いつまでも地下室を離れようとしない美咲に向けて、綾芽は、
「何グズグズしてんのよっ! 早く行けっ! 早く出て行けっ!」
という、けたたましい罵声を浴びせた。美咲は、綾芽の心中を察し、綾芽に対し、深く、深く、敬礼をして、北原邸を後にした。
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