第三幕ー54


 殺される? 私が、綾芽に? そんなの厭だ! どうせ殺されるなら、愛する悠介の手で殺されたい。そうだ、ここから逃げ出し、悠介に会いに行こう。そうしたら、きっと、何もかもが嘘だったってわかる筈。きっと、悠介は言ってくれる筈。「愛しているよ」と。一刻も早くここから逃げ出そう。清花は、ベッドから立ち上がり、テーブルの上に置かれていた『反省文』の通し番号七から十のノートだけをスウェットスーツのズボンのウエストのゴムの部分に挟み、ドアに向かって歩みを進めた。綾芽から手渡されたノートは全部で十冊。『反省文』の通し番号一から六のノートには、綾芽の指示通り、清花の幼少期から綾芽と九年ぶりに再会する約束をするところまでを私小説風の遺書を書くように書いた。ところどころに嘘を織り交ぜて書いた。悠介に愛されたのは自分だけだったという願望を書くことで清花の心は少しだけ救われた。通し番号七から十は、清花と綾芽の再会後のことを書いた。勿論、どのようにして監禁され、監禁中、どんな生活を強いられていたのかも詳細に書いた。再会後のことは一切書かないようにと綾芽には釘を刺されていたから、綾芽、美咲、ミヤマにバレぬよう、トイレで隠れて書いたり、通し番号に細工をしたり、苦労した。警察に保護されたらこのノートを読んでもらえば、重要な証拠書類となるに違いない。そう思った。


 長い間、監禁生活を強いられていた所為で、清花の脚の筋力は予想以上に衰えていた。脚にうまく力が入らない。ふらつく脚でなんとかドアの前まで辿り着き、ミヤマに教えてもらった「九一四二」(悔い死に)という暗証番号を入力し開錠した。ドアは清花の予想以上に重く、両脚で踏ん張り体全体を使って押してやっと開けることができた。ドアの外側には一メートルほどの狭い通路があり、右手側は行き止まり。左手側に地上階へと繋がる階段があった。勾配の強い木製の階段で、地下室の湿気で所々が朽ちており、清花が一段ずつ登るたびに、みしみしと木が軋む音がした。錆びついた手摺に掴まりながら、やっとの思いで階段を登り切ると、其処は行き止まりだった。しかし目を凝らしてよく見ると、頭上の正方形の部分の隙間から微かに光が漏れており、銀色の取っ手が見えた。取っ手を掴んで左側にスライドさせ、勢いのまま這い上がると、見覚えのある部屋に出た。「プライベート ネイルサロン ルーム」だった。

 隠し出入口を覆っていた三台のキャスター付き収納ワゴンの真ん中の一台が、不自然な位置にずれていて、カラージェルが床に散乱していた。おそらく、慌てていたミヤマが勢いよくワゴンを移動させたのだろう。本来なら、このワゴンは、地下室への隠し出入口の真上に置かれるべきものだ。地下室から逃げることを勧めたミヤマによる最期の情けだと清花は確信した。思わず、清花の口から「ありがとう」という言葉が紡がれた。「プライベート ネイル サロンルーム」を出て、清花はリビングルームに向かった。誰も居ない部屋には寒々とした冷気が充満していた。偽装とはいえ、幸せ家族が住むあたたかだった家は、ただの廃屋と化していた。清花は、サイドボードの上に飾ってあった、高校の入学式の写真が飾られているガラス製のフォトフレームを叩き割り、写真だけを抜いてポケットに押し込んだ。ガラスの破片で切った右手の人差し指から血がつーっと流れ、笑顔の三人の顔が血で染め上げられた。時計の針は、午前三時半を示していた。急がなければならない! ここを出て、最寄りの交番に保護してもらおう。そう思いながら、清花は、玄関のドアを開けた。闇の中に薄っすらと人影が映し出された。


「ねえ、これ、どういうこと? 私、アンタに忠告したわよね? 『変な気だけは起こさないでね』って。また、”弱さ”を武器にしたのね? ミヤマは情に脆いところがあったから、ちょっと危ないかなあって思ってたのよ。早めにこっち見に来て正解だったわ」


 綾芽の人形のように白く、冷淡な表情に、狂気が入り混じっていた。殺される! 身の危険を感じた清花は、綾芽の足元を掬い、意表を突かれた綾芽が尻もちをついた隙に、綾芽の脇をすり抜けた。筋力が衰えた脚は清花が思うように動いてくれない。それでも、清花は必死で走った。あの夏の日、悠介から逃れるために死に物狂いで走ったように。ゆっくり立ち上がって洋服に付着した泥を払っている綾芽が清花を追って来る気配は感じられない。そのことが、清花の不安を増大させた。清花は、成城学園前駅南口にある交番を目指して走った。助けて。助けて。助けて。助けて。五分ほど走ったところで、突然、清花の目の前に人が立ちはだかり清花は逃げ道を失った。美咲だった。精魂尽き果てた清花は美咲に抗う気力さえ残っていなかった。そのまま、美咲に抱えられるようにして北原邸に連れ戻され、再び、忌々しい地下室へと放り込まれた。

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