第三幕ー52

「昔々、あるところに、『けい』という男がおりました。慶は、有名な劇団に所属する劇団員でした。慶は努力家の男で、演目の台詞はすべて暗記し、いつ、自分が代役に抜擢されてもいいように備えておりましたが、彼が舞台で脚光を浴びるチャンスは巡ってこないまま、残酷に、月日だけが過ぎていきました。三十歳を目前に控えた彼は、次の劇団の公演の演目である『マクベス』のキャストに選ばれなかったら、舞台俳優を引退しようと決意しておりましたが、無情にも、彼は役を貰えませんでした。一方、慶の同期であり、豊かな才能を持ちながらもなかなか運に恵まれなかった親友であり幼馴染の『宮間みやま』は、見事、主役のマクベスの座を勝ち取りました。公演は、初日から大好評で話題を呼び、宮間は、一躍時の人となりました。

 ある日、慶は、宮間に、この公演を最後に自分は舞台俳優になる夢を諦める意志を伝え、

宮間の情け深い性格を利用し、『一度だけでいいから、俺を、舞台の上へ立たせてくれ!』と懇願しました。慶には、宮間の心の中の葛藤が、手に取るようにわかりました。故意に舞台を降りることに対する嫌悪感と役者としての矜持。これまでずっと互いを高め合ってきたライバルであり幼馴染であり親友である慶からの涙ながらの懇願。”役者としての矜持”をとるか”親友への情け”をとるか。宮間は、死者の魂の善悪を判定する裁きの天秤の左右にそれぞれを乗せ、どちらを選ぶべきかを考えているような表情をしていました。慶は、追い打ちをかけるようにして、宮間に土下座をし訴えました。『頼む、頼む、これが最期だから』。二人の間に長い長い沈黙が続きました。『一回きりだぞ』。と、宮間は声を震わせながら慶に言いました」


 ぱちぱちと両手のひらを合わせる音が室内に響いた。清花だった。先刻まで泣き喚いていた赤子が数分後にけろっとして笑っているみたいに、清花は嬉々として、ミヤマの話に聞き入っていた。

「どうも、参りましたね。本当にどっちなんでしょう」

 そう呟いて、ミヤマは続きを話し始めた。

「ありがとうございます。観客席のお客様にお喜び頂けたようですので、引き続きご清聴頂けたら幸いでございます。さて、慶と宮間の裏取引が成立した翌日、劇団に宮間の妻の芹那せりなから電話がありました。慶と宮間と芹那は幼馴染の関係にありました。宮間も慶も芹那に惚れておりましたが、芹那が選んだのは宮間でした。『夫が急病で倒れたため、明後日の舞台に立つことができません』という連絡でした。劇団側は急遽代役を立てなければならなくなりました。芹那から劇団に連絡が入ったのは次の公演の前々日の深夜。つまり、たった一日の稽古で、宮間レベルの『マクベス』を仕上げるのは至難の業だったのです。代役で舞台に立つ者は、成功すれば大躍進のチャンスですが、失敗すれば、二度と舞台に立つことはできないであろうことを皆肌で感じていました。皆が物怖じする中、慶が声を上げました。『俺に演らせてください! 絶対に成功させてみせます!』と。皆、慶の実力のほどを知っていたので失笑しました。勝手に潰れるがいい、と、皆、内心思っていたのです。しかし、他の劇団員の負の期待を裏切り、代役として舞台に上がった慶は、迫真の演技で観衆の心を鷲掴みにし、大成功を収めました。その後、宮間が舞台に立つことは一生ありませんでした。劇団を去った宮間は、自らの命を絶ってしまったのです。


 奇跡の大成功を収めた慶は天狗になり、宮間の死を知らぬままスポットライトの光の下、喜びに酔いしれていました。しかし、慶が持て囃されたのは、ほんの少しの間だけでした。親友の宮間に泣き落としをして立った舞台。あの日の慶の演技は神懸かっていました。「これが最初で最期の舞台」という強い想いが、慶の本来の実力以上のものを引き出した、奇跡の舞台だったのです。幸い、慶は、女性ファンに好まれるルックスをしていたので、ミーハーなファンたちは彼に夢中になりましたが、彼女たちが愛したのは、慶の演技ではなく慶のルックスだったのです。慶の演技力は専門家や本物の芝居ファンには簡単に見破られてしまい、メディアで酷評され、慶は舞台を降ろされ、その後二度とスポットライトを浴びることはありませんでした。はい、おしまい。ご清聴ありがとうございました」


 ミヤマは、清花に深々とお辞儀をした。

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