第三幕ー50
推定日時。二月二十一日。零時。
無言で本を読んでいたミヤマが本を閉じ、立ち上がった。
「それでは、今日はこのへんで。おやすみなさい」
いつものように美しい声で清花に挨拶をし、ミヤマはドアの方へと歩を進めた。そして、いつものようにドアの前で祈りのポーズをとり、いつもの台詞を呟いた。
『明日も、明日も、また明日も、とぼとぼと小刻みにその日その日の歩みを進め、歴史の記述の最後の一言にたどり着く。すべての昨日は、愚かな人間が土に還る死の道を照らしてきた。消えろ、消えろ、束の間の灯火! 人生はたかが 歩く影、哀れな役者だ、出場のあいだは 舞台で 大見得を切っても 袖へ 入れば それきりだ。白痴のしゃべる物語、たけり狂うわめき声ばかり、筋の通った 意味などない』
ミヤマがドアノブに手を掛けた瞬間、清花は、ミヤマが呟いた台詞を大声で発した。ミヤマの背中がピクリと動いた。ミヤマは、ドアノブから手を放し、ゆっくりと清花の方を振り返った。
「それ、シェイクスピアの『マクベス』ですよね?」
清花がミヤマに訊いた。
「ほう。清花さんは、シェイクスピアがお好きなのですか? もしかして、演劇の経験がお有りで?」
「いいえ。まさか。私みたいな暗くて地味な女が、人前でお芝居を披露するなんて、分不相応過ぎます」
「そうですか? 清花さんは、随分とご自分に自信がないようですね。先ほどの台詞、なかなかのものでしたよ」
「ありがとうございます。ミヤマさんはお優しいんですね。私は高校時代、文芸部に所属していました。と言っても、真面目な部員ではありませんでした。先ほどの台詞で『マクベス』だと分かったのは、当時少しだけお付き合いしていた文芸部の先輩がシェイクスピアに傾倒していて、頻りに私にシェイクスピアの作品を読むことを勧めてきたからなんです」
「そうだったんですね。その文芸部の彼と共に歩む未来を、清花さんは少しも考えることはなかったのですか?」
「ええ。私の心の中は悠介でいっぱいで、彼以外入る余地がないんです。昔も、今も」
「彼の友人の私がこう言うのも気が引けますが、悠介さんは、そこまでいい男ですか? ふたりの女性が命懸けで取り合うほどの価値が彼にあるとは、私には思えませんが。清花さん、今、ご自分が置かれている状況、理解していらっしゃいますか? 非常に危険な状況ですよ。今ならギリギリ間に合うかもしれません。悠介さんと綾芽さんのお望みどおり、離婚届を提出して、誰もあなたのことを知らない土地で新たな人生を歩んだらいかがですか? 今なら、皆、手遅れにならずに済みます。適当なことを申し上げているわけじゃないんですよ。皆さんに私のような過ちを犯して欲しくないから、大きなお世話とは思いつつも少々説教めいたことを申し上げているのです」
そう言いながら、ミヤマは、ドア付近から清花の方へ向かって少しずつ距離を縮めた。壁際の蛍光灯が点光源となり、清花の背後の壁にミヤマの影が大きく映し出され、清花は神々に対して抱くような畏怖の念に打たれた。
「ご忠告、ありがとうございます。他者から見た自分がとても愚かしい女であることはわかっているつもりです。でも、私の気持ちは私にしかわからないんですっ!」
「わかりますよ」
「何がですか?」
清花は、少しムッとした。それを見たミヤマが、ふふっと含み笑いをした。
「だって、清花さん、私と同じだから」
「あなたと私が同じ? どこがです? 何か特別な事情がお有りみたいですけど、あなたには、愛する妻も子もいるのでしょう? それに、他人が羨むような美しい容姿をしている。どこが、私と同じなんですか?」
「……そういうところなんでしょうね」
ミヤマが吐き捨てるように呟いた。
「『そういうところ』って、どういう意味ですか?」
「おわかりになりませんか? 本当はご自分でも気付いているのでしょう? 可哀想な自分を切り売りして、相手に同情の念を抱かせ、それを巧く利用するところですよ。あなたのそういうところが、私と同じで、そういうところが、悠介さんや綾芽さんを苛立たせるのでしょうね。本当に身に覚えがありませんか? 自覚がないだけですか? 今だって、私の同情心に訴えようとなさったでしょう? 私は、そういう人間が大嫌いなんです」
「そうですか……ミヤマさんは、何でもお見通しなんですね。これは、私が持っている唯一の武器だったんですけどね。残念です」
「もう、このへんにしておきましょう。これ以上私たちが言葉を交わすことは、お互いの精神衛生上、とてもよろしくない。おやすみなさい」
そう言って、ミヤマは地下室の壁をすり抜けるように消えて行ってしまった。
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