第三幕ー41

「あっ、おはよう、清花。よっぽど疲れてたんだね。よく眠ってたわ」

 美咲の声が聴こえてきた。頭の中に靄が掛かっていて、記憶も感覚も曖昧模糊としていた。「よく眠っていた」? 美咲の言葉をヒントに清花は記憶の糸をたぐってみた。「北原 紫ネイルスクール創立十周年祝賀パーティー」に列席した後、美咲とよく一緒に行くダイニングバーで飲み直し、悠介との離婚問題を巡って美咲と気まずくなったところへ綾芽からグループラインがきて、美咲と二人で綾芽の家でアイスティーを飲みながらお喋りをしていた。その途中で目を開けていられないほどの眠気に抗えなくなり……そもそも、あの異常とも言える眠気は何だったのか? 意識を失うような眠気に襲われるほど疲れてはいなかった筈だ。


 待って。私はあの感覚を過去に一度だけ経験したことがある。清花は頭の中で幻灯機をゆっくりと回した。


 くるり、くるり。


 投影された写真に映っているのは、中学生の清花だった。薄墨色の団地みたいなマンションの自室。その日、母は、入院していた妹の晴花の病状を主治医から訊くために病院に出掛けていて不在だった。清花は知っていた。妹の先天性の病気が一向に良くならず、度々発作を起こす娘のことで思い悩み、疲れ果て、母がこっそり心療内科に通院していたことを。清花は、父が帰宅する前に、両親の寝室に忍び込み、母が処方されている筈の薬を探した。それは、化粧台の抽斗の中に入っていた。清花は、「山中順子やまなか じゅんこ様」と書かれた複数の薬袋の中から薬を取り出し、スマートフォンでひとつひとつ、どんな作用がある薬なのかを調べた。パロキセチン、アルプラゾラム、フルニトラゼパム……清花は「フルニトラゼパム」の薬袋を持ち出し、自室の本棚の奥に突っ込んだ。お役所勤めをしていた父が帰宅する前に、手早く父の食事を用意し、父が帰宅したときに「少し熱があって食欲がないから、早めに寝る」と言って自室に籠った。

「あの女、私の気持ちを知りながら裏切りやがって!」

保健室で何度もキスを交わす悠介と綾芽の姿を思い出し、清花は何度も発狂しそうになった。


 赦さない、赦さない、赦さない!


 清花は学習机の上のペン立てからカッターナイフを抜き出し、勢いのままに左手首に刃を滑らせた。鮮血が勢いよく飛び散り薄汚れた白い壁を彩った。描かれた赤い点やら線は、まるで抽象画のようだった。その後、母からくすねた「フルニトラゼパム」をすべて水で胃に流し込んだ。ああ、あの時と同じ感覚だ。もつれた糸が少しずつ解きほぐされていく。

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