第三幕ー32
「今日の役員面接はどうだった?」
綾芽と暮らすようになってから、悠介は変わった。同じマンションに暮らすハイレベルな男たちの姿を目の当たりにして「このまま、いつまでも甘えていちゃいけない」という気持ちが芽生え、綾芽の男として、彼女を守ることができるくらい頼りがいのある強い男になりたいと思うようになった。環境というものは人間の根底に眠る価値観や意志や意識を覆してしまうほどの強い影響力を持っている。雨風を凌ぐことさえ不十分なボロアパートでいつも辛気臭い顔をした女と暮らしていた頃の悠介には気力も希望もなく、もう自分の中のエネルギーや前向きな感情は枯渇してしまったのだろうと諦めていた。悠介は躰の芯から泉のように湧き上がるプラスの感情に驚いていた。
「ああ、手ごたえは感じたよ。社長が俺のことを気に入ってくれてるみたいだった。ただ、人事部長が、二年間のブランクのことを最後まで気にしていたのが気掛かりだけどな」
「そう。悠介は精一杯やり遂げたのね。あとは、吉報が届くのを待つだけね」
「ああ。でも、あまり期待するなよ」
「うん。わかった」
そう言って、綾芽は、悠介の頬にキスをした。
「ところで、『舞台』の方は何か進展があったのか?」
「進展というか、彼女の気持ちに変化が出始めたみたいね」
「どういうことだ?」
「この前、成城の自宅で、清花がうちのスクールの正式な社員になったことを祝うパーティーを開いたって言ったでしょ?」
「ああ」
「彼女、突然泣き出したのよ」
「はっ? わけわかんねえ!」
「なんか、『皆さんの優しさが嬉しくて』なんて言ってたけど、胡散臭いなあって思って、大智くんに探らせたのよ」
「おお! アイツ、使えるな」
「ええ。私があの子の本当の母親だったら、絶対に子役タレントとして売り込んでステージママになるわ」
「それ、イメージにぴったり合いすぎてウケるんだけど」
そう言って、悠介は笑った。
「もうっ! 揶揄わないでよっ!」
「おう、悪りぃ、つい、な。それで清花のヤツ、大智くんに何か喋ったのか?」
「ええ。『おねえちゃんね、大智くんと、大智くんのパパとママが楽しそうにしているのを見てたら羨ましくなっちゃって、おねえちゃんの大切な人のことを思い出しちゃったの』って言ったんですって。これ、どう考えても悠介のことよ」
「まじかよ……」
「それに、大切な人に会いたくても会えない、みたいなこと言ってたらしくて、大智くんが『そしたら、あいにいけばいいじゃん?』って言ったら、何かが閃いたみたいな顔してたって言ってたわ。もしかしたら、彼女動き出すかもね。今までは生きることで精一杯であなたのことなんて忘れてたのよ。たまに思い出したとしても、それは、あなたから執拗に受けたDV。嫌なことばかりだった筈。それが、ここにきて、人並みくらいの生活ができるようになり心に余裕が出始めた。あの子ならこう思う筈よ。『愛されたい』って。そして、今あの子の脳裏に浮かぶのは、あなたとの良い思い出ばかり。バカが考えそうなことだわっ」
「いよいよ、俺も『舞台』デビューかねえ」
「そうね。清花の動き方次第では、悠介にも『舞台』に立ってもらわなきゃだわ。出番は少ないけどとても重要な役よ。大根役者は勘弁してね。助演男優賞とるくらいの心意気でお願いするわ」
「了解! できれば、俺の出番で『終幕』になって欲しいもんだな」
「それは、私だって同じ気持ちよ。このまま、ふたりの幸せな暮らしが続いてほしいもの。私、ハッピーエンドのお話が好きよ」
「俺もだよ」
そう言って、ふたりは、お互いの躰の傷跡を舐め合った。痛みを分かち合うように。これは、お互いに不遇な幼少時代を過ごしたふたりがずっと行っている愛の儀式のようなものであった。
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