第三幕ー28『第六場』
「北原 紫ネイルスクール」に入社してから三カ月が過ぎ、無事試用期間をクリアし、晴れて正式な社員と成った清花の胸中は、小さな自信とささやかな充足感で満たされていた。講師の緑川や「紫先生派」のベテランスタッフから時々嫌がらせを受けていたが、その内容はとても幼稚で軽忽で、清花が幼少期から受けてきた家族からのあしらいや、悠介から受けてきた酷いDVに比べたら、お間抜けで憐みを感じるくらいだった。
「ねえ、松永さん、『アイリ』からのお誘いのLINE見た?」
職場用の言葉で、美咲が清花に話し掛けてきた。
「はい。見ました」
「行きますか?」
「はい。行きます。城戸さんは行かれますか?」
「ええ。私も行くわ。楽しみね」
美咲と清花は、職場内では綾芽の名前を迂闊に出さないように注意していた。二人がスクールの社長である綾芽とプライベートで親交があることが他のスタッフにバレたら、最悪職を失うことになるからだ。それに、綾芽の存在を良く思っていない緑川講師たちが、ここぞとばかりに綾芽のことを批判するだろう。美咲から緑川講師の件を聞き知った綾芽は、自分の配慮の足りなさを反省し、スタッフ内の人間関係に波風を立てるような発言や行動をしないよう気を付けることにした。そして、三人のプライベートなやり取りは、グループLINEですることにした。因みに、「アイリ」と二人が呼んでいるのは綾芽のことだ。「あやめ」は英語で「アイリス(Iris)」だから、略して「アイリ」と呼ぶことにした。二人は、綾芽から、週末、清花が無事試用期間をクリアし正式な社員となったことを祝うホームパーティーに招かれたのだ。清花は、昔は疎ましく感じていた綾芽のこういった心配りを素直に嬉しく思うことができるようになっていた。
仕事は順調。良き職場友達もできた。定期的に収入が入るようになり、少しずつではあるが綾芽に借金を返済できるようになり、贅沢は禁物だが人間らしい生活を営むことができるようになった。周りの人たちが自分の存在を赦し、認めてくれる。これまでの人生で味わうことのできなかった快感が清花の躰の中を電流のように駆け巡った。もう充分だ。これ以上望むことは「分不相応」だと思った。頭ではそう理解していた。それでも、本能は叫んでいた。「愛されたい」と。この頃から、清花は、頻繁に悠介のことを考え、悠介の夢ばかり見るようになっていた。二人で暮らしていたボロアパートを飛び出してから約五カ月。清花は、スマートフォンの電話番号もメールアドレスも変えていない。着信拒否すら設定していない。それなのに、あれから、悠介との連絡は完全に途絶えている。スマートフォンの料金を払うことができずに強制解約されたのかもしれない。それどころか、家賃滞納で住処を失ったのかもしれない。もしかしたら……死……。そこまで考えて、清花はハッと我に返った。あれほど自分のことを痛めつけ苦しめた非道な男のことを心配してやる義理がいったいどこにあるというのだ? 自業自得だ。どこかで野垂れ死んで土に還ればいいのだ。そう自分に強く言い聞かせれば聞かせるほど、夢に出てくる悠介は清花に対し優しく、そして、誰よりも清花のことを愛してくれた。
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