第三場ー17
清花が、再び成城の北原邸を訪ねたのは九月中旬だった。日中はまだまだ暑く、三十度を超える日もあったが、朝晩は肌寒く感じる日が多く、日差しの色も、極彩色豊かな油絵から、透明感溢れる水彩画へと変貌していた。相変わらず、自分のようなみすぼらしい貧乏人にはおよそ似つかわしくない街ではあったが、二度目ともなると、多少冷静に周囲を見渡すことができるようになっていた。最初にこの高級住宅街に足を踏み入れた時は、道行く人たちから嘲笑われているような気持ちになったが、それは自意識過剰の被害妄想であったと清花は確信した。生活に余裕がある人々は貧乏人を見下したりしない。彼女たちの視界に入るのは、自分よりもより豊かで優雅な人であって、清花のことなど端から眼中にないのだから。そう思ったら少し気が楽になった。
「いらっしゃい。今日は、主人も息子も家に居て騒がしいと思うけど許してね」
綾芽からは、事前に家族が在宅であることを聞いていたので、清花にはそれなりの心の準備はできていた。
「いいえ。とんでもない。貴重な家族団欒の日を邪魔しちゃって、こちらこそ本当にごめんなさい。長居はしないわ」
そう言って、清花は、なけなしのお金で買った高級洋菓子店の焼き菓子の詰め合わせを綾芽に手渡した。子どもの頃、悠介と清花が「白亜の城」に招かれた時に、綾芽の母に振る舞われた高級菓子。清花は母親に持たされた下町商店街の饅頭をそっとバッグの奥底に隠した。子どもながらに恥ずかしかった。悔しかった。あんな惨めな思いを二度としたくなかったのだ。
「そんな……気を遣わないでいいのに」
「いいえ。綾芽には大恩があるの。これは私のほんの気持ちなの」
「わかったわ。それじゃ遠慮なくいただくわね。後でみんなでお茶しましょうね!」
リビングに足を踏み入れると、アンティーク風のダークブラウンのレザーソファに、先日写真で見た綾芽の旦那さんと息子の「だいちくん」が座って、大画面のテレビに釘付けになっていた。子供向けのアニメが画面に色鮮やかに映し出されていた。
「あなた、大智、お客様がいらっしゃったわよ」
綾芽の声にびっくりした様子の二人は、慌てて立ち上がって、清花に挨拶をした。
「これは、失礼いたしました。本日はお暑い中お越しいただきありがとうございます。私は、綾芽の夫の、『
色白でとても美しい顔立ちの男性だった。声もとても綺麗だった。
「横山さん?」
「ああ。清花にはまだ話していなかったかしら? うちは夫婦別姓なのよ。門のところの表札も『横山・北原』になっているわよ。私の母はネイリスト業界ではちょっとした有名人だから、私は母の威光をかさにきて『北原』姓のままでお仕事しているの。戸籍上は『
「そうだったのね。そうよね。現状では夫婦別姓は法律で認められていないものね」
「めんどうよね」
と言って、綾芽は苦笑した。
「そして、この子は、『
「よこやまだいち、六さいです! きょうは、ゆっくりしていってください!」
「ありがとう。大智くん。また少しだけ、ママとお話しさせてね」
「はい! きょうはパパもいるので、さびしくないです」
そう言うと、竜司は、清花に会釈をして、大智を連れてリビングを出て行った。
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