第二幕ー3

 最初の三日間、北原綾芽は一言も声を発しなかった。顔色一つ変えず虚空をじっと見つめていた。四日目以降、雑談には応じるようになった。しかし、雑談から巧みに自供させる作戦は悉く失敗している。この女は相当に頭の回転が速く、そして、真山課長同様、観察力・洞察力に長けている上に、かなり慎重な女だ。この女の辞書に『うっかり』という言葉は存在しないのかも知れない。一体、何を企んでいやがる?

 

「ああ、豆太郎まめたろう絹江きぬえさんに預けっぱなしだけど、元気にしてるかなあ。会いてえなあ」

 中島がぼそりと呟くと、北原綾芽は表情を緩ませて身を乗り出してきた。

「ねえ、『豆太郎』って誰のことなの? 中島さんのお孫さん?」

「柴犬だよ。こんな俺に呆れずに一緒に居てくれる大切な家族だよ」

「中島さんって独身なの?」

「今はな。妻と、息子がひとりいたが、随分前に逃げられたよ。俺は、仕事バカだからな。家族のことなんざ二の次、三の次にしてたら、愛想尽かされて逃げられちまったよ。元嫁さんが再婚した男は、家庭を大切にする優しい男らしいからな。まあ、早めに俺のこと見限って正解だったと思うぜ」

「えっ? じゃあ、さっき言ってた『キヌエさん』って誰なの? 中島さんの彼女?」

 思わず、中島は吹き出してしまった。

「絹江さんは、近所のおばちゃんだよ。もうすぐ九十歳になる。俺が結婚して今の家に住むようになった頃からの付き合いでよ。何かと世話を焼いてくれるのさ。俺の仕事のこともよく理解してくれていて、家に不在がちな俺の代わりに豆太郎の世話をしてくれてるんだ。どれだけ感謝してもしきれないほど感謝してる」

「へえ……いいなあ。あの時のわんちゃん、飼ってあげたかったなあ」

「『あの時のわんちゃん』?」

「ええ。子どもの頃住んでいた家の近くの公園に住み着いていた野良ちゃんなの。ひどい怪我してた。首輪つけてたから、元飼い犬だったんだと思うの。うちは、パパもママも仕事忙しくてペット飼えなかったし、悠介と清花が住んでたマンションはペット禁止だったから、三人で、あの子の怪我の手当てをしたり、ゴハンあげたりしていたのよ」

 北原綾芽の口から、初めて、マルガイである松永清花と彼女の夫であり、北原綾芽の幼馴染でもある松永悠介まつなが ゆうすけの名前が発せられたことに、中島は、北原綾芽の中で生じた何らかの感情の揺らぎを感じた。

「それで、その犬は、その後どうなったんだ?」

「飼い主って名乗るおばさんに返したわ。その後、あの子がどうなったかは知らないけど、私、本当は返したくなかったのよ。そのおばさんね、見た目は綺麗だし、すごく優しそうなの。でもね、目が笑っていないの。どんなに常人を上辺だけで取り繕ってみせたところで、内面に充満している『狂気』は隠し切れないのよ。あのおばさんとそっくりな人、私、よく知っていたから」

 北原綾芽の言葉には強い後悔の念が滲み出ていた。

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