第一幕ー39
鍵すらないウサギ小屋のような個室が、簡易的な壁一枚で碁盤の目のように整然と立ち並んでいる。空室はほぼないようだった。鼾声、咀嚼音、ひそひそ声、得体の知れない人間たちが蠢いている音が聴こえてきた。「ネットカフェ難民」と呼ばれる住所不特定の人々もいるだろうし、もしかしたら、壁一枚隔てた向こう側には殺人犯が潜伏しているかもしれない。それでも、あの染みだらけでボロボロの襖の向こう側にいる夫に比べたら不思議と怖くはなかった。それどころか、居心地が良いとさえ感じた。日常的に繰り返される夫の暴力から解放された私は、安堵し、ソファの上で泥のように眠った。目覚めた時は正午を過ぎていた。勤務先であるコールセンターに電話をかけ、急病で長期入院することになったため退職する旨を上司に伝えた。前日、私のことを激しく叱責したことを多少は気に掛けていたのか、未だ嘗て聞いたこともないような慈悲深い声で、
「そうですか。とても残念ですが健康が第一ですからね。ゆっくり治療に専念して元気になられたら、いつでも戻って来てくださいね」
などと、理想の上司みたいな台詞を吐いた。コンビニの方にも同様にして連絡をし、私は、晴れて自由の身となった。しかし、自由を謳歌する余裕などなかった。一泊二千円とちょっとという格安な値段で仮の寝床を確保することはできたものの、日々の食費や通信費なども必要となってくる。呑気に過ごしていたら十万円などあっという間になくなってしまうだろう。そのためにも、私は、一日も早く綾芽とコンタクトをとらなければならなかった。
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