第一幕ー39


 浅草あさくさ駅に到着した私は、雷門かみなりもんを目指して歩き始めた。浅草に対して土地鑑がない私でも、流石に雷門や浅草寺せんそうじがある場所くらいは知っていたからだ。それに、往来が激しい場所であればあるほど身を隠すのには好都合だと思った。日中は平日でも観光客でごった返す雷門付近も早朝は人影がまばらだった。カメラを手にした外国人観光客が数人、写真撮影に勤しんでいる。南に向かって雷門通りを進むと、雑居ビルが軒を連ねており、飲食店、コンビニなどの色とりどりの袖看板が、自分の居場所を必死でアピールしていた。通りを百メートルほど進んだところで、黄色のネットカフェの袖看板が私の目に飛び込んで来た。着の身着のまま家から逃げ出してしまったが、不幸中の幸いで、バッグの奥底に忍ばせた茶封筒には一万円札が十枚ほど入っていた。夫の借金返済のために用意していたものだ。なぜ、私が身を粉にして稼いだお金をアイツの借金返済やら、酒代、ギャンブル代、家賃、光熱費などの生活費全般に使わなければならないのだ? 私は、アイツの奴隷じゃない! 躰全体に網の目のように張り巡らされた血管が怒りで破裂するのではないかと思われるほどの夫に対する憎悪の念が、黒い大蛇のようにぐるぐると私の中で渦巻いていた。鮮やかな黄色の袖看板に誘われるようにして、私は、矢鱈と動作の遅い自分みたいなエレベーターに乗り込み、五階建ての雑居ビルの三階まで上がった。金髪のボブヘアの若い女の店員が、私の姿を見るなり眉根に皺を寄せた。身分証明書の提示など、ひととおりの手続きを済ませると、彼女は店内の施設などの説明を事務的にし、二十二番という部屋番号が印字されたカードを私に手渡した。

 鍵すらないウサギ小屋のような個室が、簡易的な壁一枚で碁盤の目のように整然と立ち並んでいる。空室はほぼないようだった。鼾声、咀嚼音、ひそひそ声、得体の知れない人間たちが蠢いている音が聴こえてきた。「ネットカフェ難民」と呼ばれる住所不特定の人々もいるだろうし、もしかしたら、壁一枚隔てた向こう側には殺人犯が潜伏しているかもしれない。それでも、あの染みだらけでボロボロの襖の向こう側にいる夫に比べたら不思議と怖くはなかった。それどころか、居心地が良いとさえ感じた。日常的に繰り返される夫の暴力から解放された私は、安堵し、ソファの上で泥のように眠った。目覚めた時は正午を過ぎていた。勤務先であるコールセンターに電話をかけ、急病で長期入院することになったため退職する旨を上司に伝えた。前日、私のことを激しく叱責したことを多少は気に掛けていたのか、未だ嘗て聞いたこともないような慈悲深い声で、

「そうですか。とても残念ですが健康が第一ですからね。ゆっくり治療に専念して元気になられたら、いつでも戻って来てくださいね」

 などと、理想の上司みたいな台詞を吐いた。コンビニの方にも同様にして連絡をし、私は、晴れて自由の身となった。しかし、自由を謳歌する余裕などなかった。一泊二千円とちょっとという格安な値段で仮の寝床を確保することはできたものの、日々の食費や通信費なども必要となってくる。呑気に過ごしていたら十万円などあっという間になくなってしまうだろう。そのためにも、私は、一日も早く綾芽とコンタクトをとらなければならなかった。

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