第一幕ー37

 SNSには、「北原綾芽」の情報が溢れ返っていた。彼女が手掛けた美しいネイルアートや、芸能人に疎い私でさえも知っているような人気アーティストたちと一緒に撮影した写真や動画が彼女の華やかな人生を物語っていた。夫に投げつけられた時に画面に亀裂が入ってしまった可哀想なスマートフォンの画面の向こう側には、誰もが羨む煌びやかな人生を謳歌している成功者と成った生身の「北原綾芽」が、不幸のどん底で藻掻き苦しんでいる私を、高みから見下ろして嗤っているような気がした。それでも良かった。あの時の私は、ちっぽけなプライドさえ持ち合わせていなかったのだから。万が一、綾芽が可哀想な私に手を差し伸べてくれたなら、私は、彼女の靴や脚を舐めることさえ厭わなかっただろう。隣の部屋から激しい物音が聴こえてきた。夫が目を覚まして暴れていたのだ。それは当時の私にとっては日常的なことであって、もう、驚いたり怯えたりする気力さえ残っていなかった。夫の部屋と私の部屋の境界線となっている染みだらけの襖に向かって物が投げつけられた。ビール瓶か何かだったのだろう。パリンっと瓶が割れる音がし、シャリシャリと破片が飛び散る音が続いた。

「おいっ! 清花! 居るんだろう! 酒が切れた! 酒買って来い!」

 長時間労働でくたくたになって帰宅したばかりの私に、容赦のない夫の罵声が飛んできた。

「もう……厭だ……」

 夫がこちらの部屋に乗り込んで来る前に、私は、財布とスマートフォンだけをバッグに放り込んで、掃き出し窓を開け家を飛び出した。夫は、すぐに異変に気付き私を追って来るだろう。私は死に物狂いで走った。恐怖心から足が竦み思うように走ることができない。途中で小石に躓き、右足のサンダルが脱げ、無様にアスファルトの上に崩れ落ちた。まだ私の視界に夫の姿はなかった。膝が擦り剝け、じわじわと赤黒い血が滲み出ていた。「まったく、何やっても鈍臭え」夫から投げつけられた言葉が頭を過った。サンダルを道端に投げ捨て、駅の階段を昇り、プラットホームまで辿り着いた私を、皆、苦虫を噛み潰したような表情で見ていた。薄汚れた長袖のシャツに膝丈のよれよれのスウェットパンツ、裸足で膝から血を流している女。頭がおかしいと思われて当然だ。

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