第一幕ー36

 コンビニでの仕事を終え、私がボロアパートに帰った頃には、すっかり夜が明けていた。真っ赤に燃え滾った太陽は、梅雨によって封印されていた力を全力で開放できることを至上の喜びとしているようだった。夜闇に隠されていたみすぼらしいアパートは、朝日に照らされることにより、その全貌を白日のもとへと晒されていた。まるで、公開処刑みたいだった。今時珍しいトタン張りの外壁は、元は鼠色だったのだろうが、経年劣化により茶褐色へと変貌していた。私が高校卒業までを暮らしたマンションでさえ、今の住処に比べたら高級マンションに見えるほどだった。いちおう「玄関」と名がつけられた上がり口を避け、六畳二間の東側に位置する故意に施錠していない部屋の掃き出し窓をそおっと開け部屋に忍び込んだ。時計の針は五時二十二分を指し示していた。夫は、行きつけのパチンコ店で開店から閉店まで時間を潰した後、家に帰り、正体を無くすまで酒に呑まれるのが日課だった。この時間帯は、丁度酔い潰れた夫が眠っている時間だった。


 私は、バッグから、画面に亀裂が入っているスマートフォンを取り出し、ツイッター、インスタグラム、フェイスブックのアカウントを取得した。アカウント名は、悩んだ末、「松永(山中)清花」とした。SNSで、本名を使っている人は、有名人以外はほぼ居ない。本名、しかも旧姓まで晒すことに対して不安がなかったかと言えば嘘になる。しかし、私には友達と呼べるような友達もいなかった。万が一、高校の同級生の瑞樹や紗理奈に気付かれたところで、ブロックしてしまえばいいのだ。私の存在を、綾芽に気付いて貰えなかったら元も子もない。芸能人並みに人気のある綾芽と接触することは至難の業だ。各ツールを合計すると、綾芽のフォロワー数は軽く十万人を超える。まずは、その中から、私の存在に気付いて貰わなくてはならないのだ。万が一気付いて貰えたとして、彼女は私と関わりたいと思うだろうか? 九年という月日は、彼女が裏切り者の私を赦すのに充分な時間だったのだろうか。そもそも、経過した時間が問題ではなく、彼女が私のことを一生赦さないほど恨んでいたとしたら……彼女は私の名前を見た途端、忌々しい記憶とともに、私の存在を削除してしまうだろう。しかし、私には時間が無かった。このまま、夫の近くに居たら、私はいつか殺されてしまうだろう。九年もの長い間、私は、一度たりとも、彼女に会って、あのことを謝りたいとさえ思わなかった。もし、彼女が、こんな薄情な人間の過去の過ちを赦し手を差し伸べてくれたとしたら、私は、残りの人生全てを彼女のために捧げようと思った。

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