第一幕ー22
エントランスのエレベーター横にはビル案内板が据え付けられていた。インド料理店、整体院、スナック、ネイルサロン……何の共通項もない個性の強いものたちが、ひとつの箱の中でひしめき合っている感じが、この街の縮図のように思えた。先ほどのインド料理店の男性が言ったとおり、二階の突き当りに「喫茶プラハ」があった。アンティーク調の木製のドアを開けると、ドアベルがからんからんと鳴り、小太りのウェイトレスが「いらっしゃいませえ」と陽気な声を店内に響かせた。廃校になった学校のような薄気味悪さが漂うビルの外観からは想像ができないほど明るい雰囲気が店内を包み込んでいた。カウンター席と五つのテーブル席。店内には、ミュシャの絵画が此処彼処に飾られており、「喫茶プラハ」という名に込められた店主の思い入れが伝わってきた。カウンター席では白髪交じりの初老の男性が煙草をくゆらせながら、店主らしき中年男性との話に花を咲かせていた。ドアから一番近い円卓の五人掛けの席には、私の母たちと同年代くらいの主婦たちが鎮座し、姦しく騒ぎ立てていた。私の存在に気付いた綾芽が一番奥の四人掛けのテーブル席から微笑を浮かべながら手を振っていた。
「ごめん。ちょっと道に迷っちゃって」
「私の方こそ、場所がわかりにくいお店指定しちゃってごめんね。このお店は、うちのママのお気に入りのお店なの。この店なら、うちの学校の子たちと鉢合わせすることもないと思って」
先ほどのウェイトレスがアイスティーを運んできた。ステンレス製のシロップポットに入ったガムシロップを勢い良くグラスに注ぐ私を見て、綾芽が目を丸くしながら、
「そんなにガムシロ入れたら、紅茶の風味無くなっちゃわない?」
と訊いてきたので、
「私、『解離性味覚障害』なんだ。味覚障害にもいろいろあるの。私の場合は『甘味』だけを感じることができないの。だから、これだけガムシロ入れてもまだ甘さを感じないの」
と、ぶっきらぼうに答えた。両親が矢鱈と手の焼ける妹に掛かりっきりだったため、私は、一人でコンビニ弁当を食べることが多かった。こうした不健康な食習慣とストレスが私から正常な味覚を奪い去ってしまったのだ。そんな私を見て、綾芽が慈悲深い表情をした。
やめろ! やめろ! やめろ! やめろ! やめろ!
綾芽の、偽善者ぶった慈愛に満ちた整った顔をめためたにしてやりたかった。二目と見られないほどにぶち壊して、二度と悠介に会えないようにしてやりたかった。
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