第一幕ー6
約二年前の夏。あの日も猛暑日だった。夜になっても気温が下がることなく、報道番組では、熱帯夜ならぬ「スーパー熱帯夜」に対する注意喚起を徹底していた。深夜零時を過ぎても、夫からの連絡はなく、私が二十時に送信したLINEメッセージにも既読マークがついていない。
「うちの会社、ちょっとヤバいかもしれない」
二ヶ月ほど前に、夫が言っていた言葉が、まるで、人間の言葉を覚えた九官鳥が何度も何度もその言葉を繰り返すかのように、私の脳内でリピートされていた。しんと静まり返った空間にインターホンの音が不気味に鳴り響いた。モニターに映し出されたのは、ネクタイを外し、皺くちゃになったワイシャツの裾をスラックスの上にだらしなく垂らした夫の姿だった。酩酊しているのか、何度もドアを叩きつける夫に対し恐怖心が芽生えた。ご近所の迷惑になるといけないと思い、私は、急いでドアを開け、ドアの前に蹲る夫を、やっとの思いで寝室まで運んだ。
「清花……水……」
嘔吐するまでお酒を呑んだのであろう。夫の口から吐き出された、アルコールと吐瀉物とが混ざったようなすえた臭いに、思わず、私は息を止めた。幼馴染の夫とは長い付き合いだが、正体をなくすまでお酒に呑まれた夫は、未だかつて見たことがなかった。
「悠介……いったい何があったの?」
私は、恐る恐る訊いてみた。
「うるさい……もう、寝る」
そう言って、夫は泥のように眠ってしまった。その夜、私は一睡もすることができなかった。早朝、鼾をかいて眠っている夫を起こさないよう、そおっと寝室を出てリビングに移動しテレビをつけた。私は目を疑った。どのテレビ局も、夫の勤務先である大手電機機器メーカーが、海外の大手電機機器メーカーに吸収合併されたという話題で持ちきりだったからだ。
「仕方ないよねえ……リストラされちゃったんだからさあ……そういうわけで、俺、当分立ち直れそうにないから、よろしくねえ」
背後から嗄れ声が聴こえてきた。ニュースに夢中になっていた私は、夫が目覚め起きて来たことに気付かなかったのだ。そこに居た男は、私の愛する夫の姿かたちをコピーした赤の他人のようだった。
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