第一章 ◆バンドマンの日常 2
「演奏中、女の子と目が合ったりしたいっす」
突然の妄想に侑は、思わず吹き出してしまう。
「お前ら恋愛は若いうちにしとけよー特に、侑」
唐突に話を振られ、曖昧に頷く。たしかに曲では恋愛を歌うが、知識として知っているだけで実際どういったものかはよく分からない。
「いくらいいことを歌っても、共感を得られない限り人の心は動かせねーからな」
陽翔が大げさに拍手をしたのに合わせて侑もスタンディングオベーションをする。
「なんてな。おい、隣、お前の兄貴を止めてくれ」
いつの間にか隣は教科書から顔を上げ、侑を見ていた。やめてくれ弟よ、そんな目で見て……図星だと悟らないでくれ。
「侑、座って」
弟の静かなる命令を前に、兄の威厳をも見せつけられず大人しく着席する。
「そういえば天馬さん、僕たちに用事があるんじゃないですか?」
すると、そうだ、と言って一枚の紙を取り出す。一番上にエントリーシートと書いてある。
「これな、メンバー構成、当日のセッティング、ライティングとか書くやつ」
「こんなしっかりしたやつはじめてみた」
「だろ? だと思って、教えてやるよ。隣、書記な」
隣は天馬さんからエントリーシートを受け取るや否や、メンバー構成などの項目をさらさらと埋めていく。
綺麗だけど、男らしく角張った字だ。隣はこんな字で数学の問題も解くのか、解いてもらってる数学も幸せだろうな、なんて変な考えが思い浮かんできて、すぐに曲のワンフレーズができてしまった。
いやいや、最近ネタがないからってさすがに数学を題材にした曲で人の心に問いかけられる自信は……
「無理だ……」
どうやら心の声が漏れてしまっていたらしい。三人の視線が痛い。しかし、侑の上の空に慣れっこな隣は冷静だった。
「今回はMCなしと」
「まって、まってまってまって、ごめんって、りーんー」
「集中して」
「はい」
エントリーシートに目線を落とすと、さっきまで真っ白だった空欄がほとんど埋まっていた。
ペンを握り、空白になっている部分に使用機材の詳細を書きなぐる。たしかに、我ながらひどい字だ。
今しがたまで携帯を見ていた天馬さんが「うげー」と声をあげ、画面をこちら側に向けながらテーブルの上に置く。
そこにはNEXUもやっているSNSの、『mⅰnk.』というアカウントの投稿が表示されている。メンバー紹介からはじまるプロフィールに、バンド公式アカウントだということが読み取れた。
「こいつら、たしか君たちと同い年」
「あー俺知ってる」
陽翔が身を乗り出し、会話に入ってくる。パフェはとっくに食べ終えていて、底には残ったコーンフレークがくたくたと沈んでいた。
陽翔の知り合いだろうか。侑と隣よりバンド経験が長い彼なので、この前出演した際のライブ会場で仲良く話していたうちのひとりかもしれない。もしくは元バンドメンバーということもあり得そうだ。
「あいつ……そうか」
しかし、陽翔はそれっきり黙ってしまい、話題を振ってきた天馬さんも何か言いにくいことがあるのか、口を閉じてしまった。
「まっ、とにかく頑張ろうぜ」
何だろう。だけど、終わってしまった会話を掘り返すほどのことではない、と自分の心を納得させた。
◇ ◇ ◇
天馬さんはスタジオに戻り、家が別方向の陽翔と別れた後、侑は隣と肩を並べて歩いていた。ここのところ侑は、作詞のため帰りが遅かったので、久しぶりの兄弟水入らず、というやつだ。
ふと、隣の表情を盗み見る。
……読み取れない。ま、それはいつものことなんだけど。
「なに?」
まずい、眺めすぎた。
「なーんでーもなーい」
「意味が分からない」
隣の横顔は、好美さんにとてもよく似ている。
あれは侑が小学五年生のとき。ある日突然、侑の実の母、
嗅いだことのない甘ったるい香りと、下校してそのままやってきたのか、隣がかぶっていた帽子の発色のいい黄色が、侑の脳裏に今でも焼き付いている。
好美さんが「よろしくね」と言う口元に合わせ侑が少し目線を上げると、そこに居るのは、ただの可憐な女性とそのとなりに佇む男の子……だったはずが、突然、蜂の姿になった好美さんが、隣という花に止まっているように見えて、ゾッとしたのを覚えている。
侑は一度だけ、父、
なぜたった一回なのか、と問われれば、まず十歳ともなれば、大人の事情というものを薄々理解しているからだ。本人たちが必死に隠していても、子どもは察している。世の中には、そういう事情を知る手立てなんてゴロゴロ転がっている。
あとは、当時はなんとなくいつか母は戻って来るんじゃないかと、淡い期待を抱いていたのもある。出ていく直前に「お守りになるから」とアコースティックギターを渡されれば、そんな勘違いもしてしまうだろう。
それと、忘れてはいけない。隣の存在だ。悲しさよりも、弟ができたことが何よりも嬉しかった。
でも結局のところ、母を探ることを諦めた一番の理由は、侑がした質問に対しての、父のああ、とかそんな曖昧な返事に、侑との会話を終わらせたい空気を感じたからだった。
「さっき天馬さんが言ってた『mⅰnk.』ってバンド、隣知ってた?」
忘れていたはずのバンド名が、思いがけず自分の口から出てきたことに驚く。自分が思っている以上に、気にしていたということか。
「僕が知ってると思う?」
隣からは、想像通りの解答。
「ですよねー」
隣は、バンドをはじめてからも、いまだに音楽に興味がないらしい。携帯には辛うじて音楽サブスクが入っているものの、配信されている自分たちの曲しか聞かないほどだ。
「そんなに気になるなら調べればいいじゃん。時間の無駄」
侑がそれをせず、わざわざ弟に聞いた理由を分かった上でこんなことを言ってくる。
この、小悪魔め。
「お兄ちゃんは考えすぎ、妄想しすぎ」
「おいおい、隣は言いすぎ」
隣が黙ってしまうと、これまで聞こえていなかった初夏の虫の声が急に耳に入ってきた。
「本当に、好美さんとか父親にバンドのことなんも言われないの?」
侑はその耳障りのいいBGMに背中を押され、『mⅰnk.』の存在以上に、気になっていたことを聞いてみる。
「うん」
嘘だろうな、と思った。同時に、嘘でもいいとも思った。
「そっか」
隣が嘘をつく限り、息ができる。
Cを知らない君の隣で 一畳まどか @madoka_ichijyo
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