貴族と、平民
*
勢い良く流れ始めた水は見る見る内に床に溜まって行く。出来るだけドレスの裾を濡らさないよう、コーラルがスカートを摘まんで持ち上げながら叫んだ。
「で、どうするのよ! 何もアイデアが無いなら、誰かが入るしか無いじゃないの!」
今部屋にあるものと言えば、動かせない石棺と携帯用トイレ、そしてジェッティア達四人自身──それだけだった。カップ類や毛布などは説明の直前にディアマンテスが回収していった。これだけで何をどうしろと言うのか。焦る心には良い案など何も浮かびそうにない。
「トイレが何かに使えるかもとも思ったのですが、……無理でしたね。やはり重さか嵩が必要のようです。これ以上何かを試すには、余りに時間が足りません……」
ジェッティアが石棺からトイレを取り出しながら溜息をつく。箱の形状に組み立てたトイレならばもしかしてとも思ったのだが、組み立ててもトイレの大きさは石棺内側よりも小さく、役に立たないようだ。
「ならやっぱり、誰かが入るしか無いわよね。そうなると──」
濡れたヒールを気にしつつ、コーラルが目を細めた。視線の先に居るのは──。
「──ジェッティア、すまないけど入ってくれない?」
その言葉に、ジェッティアを始めシエルとパールの二人も揃って固まった。コーラルの口調はさも当然といった様子で、悪びれる事も申し訳無さも含んではいないようだった。
表情を引き攣らせながら身を起こし、ジェッティアがコーラルに向き直る。
「え、と……どういう、意味でしょうか、コーラル様……?」
「どうもこうも無いわよ。だってジェッティアは平民でしょ? だったら貴女が棺桶に入って犠牲になるのは当然じゃないの」
「……っ、え、……あ、えっと……」
砂糖は甘いであるとか火は熱いであるとか、そんな当然の事を述べるのと同じ淡々とした態度で、コーラルは言い放った。──自分は貴族であるから、ジェッティアは平民であるから、どちらが犠牲になるかは最初から決まっているのだ、と。
先程まで普通に会話をし、クッキーを分け合って共に紅茶を飲んでいた。家柄の差はあれど、仲間であるという意識が少しは芽生え始めていた。──そう、ジェッティアは思っていたのだ。しかしそれは自分の思い込みだったのだろうか。余りの非業な態度にジェッティアの心は混乱し、感情は千々に乱れた。
突然の事に言葉を詰まらせ、何も言えずにジェッティアが立ち尽くしていると、シエルが横からコーラルを非難するような声を上げる。
「それは余りにも酷いではないですか。平民と言えどジェッティアは同じ学院に通う学友ですわ。それにさっきのゲームでは、ジェッティアのおかげでさほど苦労せずにクリア出来たではありませんか。彼女がいなければ私達はどうなっていた事か……」
「で、でもそれとこれとは話が別よ。幾ら助けて貰ったからって、平民の為に貴族が犠牲になるなんて有り得ない。それこそ階級制度が根底から揺らぐ事態になっちゃうわ」
反論されるとは思ってもいなかったのだろう。コーラルは些か狼狽えながらも、それでも、と引き下がろうとはしない。
──この王国では、コーラルのような考え方は普通だった。貴族と平民の間には越える事の出来ない身分の壁が立ち塞がっている。確かに学院では優秀な平民を特待生として受け入れ、表向きは差別無く共に学んではいるものの、それでも平民の生徒に対する風当たりは決して弱くはなかった。
それが当たり前だと思って育って来たのだ。コーラルが平民を見下したとて、それはこの世界では常識である。咎められる類いのものでは決して無いのだ。それはシエルも、そしてジェッティア自身でさえも理解している。
だがしかし身分が違えど同じ人間だ。平民だからと言って、諾々と従えと言われ喜んで命を差し出せる程には、物分かりが良い訳では無かった。平民であれ貴族であれ、命が惜しいのは同じなのだ。
膠着状態が続く中、水位はどんどんと上がってゆく。ザアザアと激しい水の音が皆の心を追い詰める。
しばらく動けずにいたジェッティアが、それでも意を決し何かを言おうとした、その時。
──ス、とジェッティアを庇うように誰かが前に立った。背筋をピンと伸ばした立ち姿も凜々しく、鍛え抜かれたその身体は見事なプロポーションを保っている。
「……もうやめないか、コーラル」
張りのある声は堂々と、水の音に負けじと部屋に響いた。
そう、それはパールだった。女騎士を目指す誇り高き令嬢が、平民を背に庇い、真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに信念の炎を瞳に宿し、コーラルを見据えていたのだった。
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