変わってしまった

私も新社会人としての新しい生活が始まり、彼も会社の状況が一気に変化した。

恋人という立場になったものの、肉体関係を結んだのはたった1度だけ。

ラインでのやりとりが中心になり、近況報告を兼ねた食事をすることだけのデートばかりを重ねていた。


新人研修が落ち着いた6月。鎌倉に行った。彼のリクエストだった。

1つ1000円以上もするジェラートをビクビクしながら二人で分け合って食べたあと、紫陽花が有名なお寺を二人で手を繋いで登った。


その時に言われたのが「しばらく会えなくなる」ということ。

会社を立て直すことに集中しないといけない、本当に申し訳ないと頭を下げられてしまい、私は何も言えなかった。


この時、私も社長に聞いて欲しいことがたくさんあった。

せめて姿だけでも見られれば、声だけでも聞ければ、それだけで次の日も頑張ろうって思えたはず。

せめて15分でも話したい。

会いたい。

私の話を聞いて。

言いたいことが喉に突っかかって、唾と共にお腹に押し込まれる。

彼の悲しい顔だけは、どんな困り顔よりもずっと見たくないものだったので、私は「大丈夫です」の一言だけ返し、無言でそれぞれ家路についた。


それからの1年、ほとんど連絡取らないまま、今日まで来てしまった。


私は今日、休職届けを出した。

新卒の時期に頑張りすぎたことでうつ病を発症することはよくあることなのだ、と励ましてくれた人もいた。

けれど、私が励まして欲しかった人はその人ではなかった。


ここに来てしまったのは無意識だった。

気がついたらいた。

扉を開けていた。

そして見ていた。

見てしまった。

彼の1年ぶりの笑顔を。

綺麗な女性との二人きりの姿を。


ああ、お似合いだ、と思った。


「立て直さなきゃいけない」と、紫陽花の色のような蒼白な顔色をしていた社長は、もういなかった。

もう、立っているのも辛い。

倒れそう。


「雨音!」


後ろからぐいっと引き寄せられる。

あの日以来、こっそり使っている柔軟剤の香りがした。


「雨音!どうしたんだ!?」

「社長……?なんで……」

「とにかく、僕の家に。話はそれからだ」


嫌いになってもいいですか?

社長の洗い立てのシャツを身につけた私は、地べたの座り、出された紅茶の湯気も揺らめきを眺めるだけっだった。

「久しぶり……」

その言葉がふさわしいほどに、私達は会っていなかった。

「まだ、会社の時間だろう?オフィスに来てくれるなんて驚いたよ」

念願だった彼との二人きり。手を伸ばそうとすればすぐに触れられる。

だけど、これは雨の日の紫陽花が見せた一時の夢かもしれない。

オフィスに帰ればあの女性がいる。

「嫌いになりたい」

思ったよりずっと、声になってしまった私の吐息。

「え?」

「もう、社長のこと、嫌いになってもいいですか?」

嫌いになってしまえば、寂しいことも、その後起きた会社での辛いことと、それを一人で耐え続けなくてはいけなかった虚しさ、苦しさが全て消えるような気がした。

「……何があった」

「……綺麗な人ですね」

「え?」

「オフィスにいた人」

思い当たったのか、苦い顔をした。

「もう、あの人が良いんですよね」

「ちょっと待ってくれ」

「あの人がいるから、私と連絡取れないのがむしろ都合がいいと思ってたんですよね!」

抱えていた不安、恐怖、衝撃がすべて混ざり合って、爆発したかのように、私の口から罵倒が飛び出した。

「社長は、私のこと一切気にならないから、連絡取らずにいてもなんとも思わなかったんでしょ!?」

「それは、仕事が……」

「なんで私ばっかり我慢しないといけないの!私だって、苦しかった。慣れない社会人生活で、アドバイス欲しいこともあったし……だめならせめて声だけでも聞きたかった。でも今が大事な時だって知ってたから我慢した。我慢して我慢して……なんで……私が……」

社長がどんな表情をしているか分からない。でも、もういい。

「社長、もう嫌いになってもいいですか……?」


顎を引き寄せられたと思うと、社長がキスをしてきた。

私の言葉を遮るような、宥めるような激しくも優しいキス。

そして、そっと唇を離すと大きなため息を溢す。


「あの人は、僕の経営を手伝ってくれてる人で……小学生のお子さんがいるんだ」

「……え?」

「だから、あの人と僕がどうこうなるとかは……ないんだけど……」

「え、でも楽しそうに笑って……」

「実は、仕事がひと段落ついたんだ。大きな契約が今日終わって」

「え?」

「それで……言われたんだ……『やっと彼女さんに会いに行けますね、あーうらやましい』って……」

「嘘……」

「そんな時だよ、君が去っていくのが見えたのは……どうしたんだろうとは思ったけど……」

「誤解……だったの?」

「ごめん。君なら何も言わなくてもわかってくれるって、甘えてた」

返事をしないと。でも、声にならない。涙がこぼれて止まらないから。

ようやく欲しかった言葉をくれたから。

「今日は……ゆっくり話そう。雨が止むまで」

「……今日だけ?」

私は、ふてくされた声で言う。

「……今日も、かな」

「じゃあいつまで……?」

彼がもう1度キスをしながら

「これから相談しよう。だから……君に嫌われない方法を教えてくれないか?」

雨はまだ、止みそうにない。


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社長、嫌いになってもいいですか? 和泉杏咲(いずみあずさ) @izumiazusa2020

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