動き出す何か 1

 今までありがとうと言われて、ありがとうございましたと返した。


 それで、終わり。

 短かったのか長かったのかもわからない、二人の付き合いに、幕が下りる。


 最後は笑って別れたかったから、そうした。

 でも、微笑んだサーラに対して向けられたウォレスの顔は、ひどく泣きそうで、頼りなげな子供のようだった。


 そっと、つないでいた手が離れる。

 この手が再び、彼の手とつながることはないだろう。


 離れて行ったぬくもりに、やはりサーラは笑う。


 無理をして――



     ☆



「おはようございます、殿下」


 四月六日。

 サーラの、十八回目の誕生日。

 変わらぬ朝が巡って来たけれど、サーラにとっては、今日の朝日はいつもと違うものだった。


 昨日の朝まで、当たり前のようにサーラのベッドにもぐりこんでいた困った王子様は、昨日の夜はきちんと自分のベッドで眠った。

 身支度をすませて起こしに行くと、ベッドの上に上体を起こしてぼんやりしていたウォレスがいた。

 昨日、きちんと別れをすませた元恋人は、今日、他の女性のものとなる。


「部屋が温まるまでそこにいてくださいね」


 四月とはいえ朝はまだ冷える。

 サーラは暖炉に火を入れて、暖炉の上に水を入れた鍋をかけた。

 メイドを呼んで、朝食のメニューを確認し、持ってきてもらう時間を指示する。それから今日は婚約式の日なので、朝食が終わる時間にあわせてバスルーム用のお湯を用意してくれるように頼んだ。

 婚約式は昼からだが、入浴して髪を乾かしたりしていたら時間なんてすぐに過ぎる。


 今日は、ジャンヌのほかにベレニスも来ることになっていた。

 婚約式に参加するという理由もあるが、ウォレスの支度がいつもより大変なので、手伝いに来てくれるのだ。

 メイドに指示を出した後で、お湯が湧いたらすぐにお茶を入れられるように茶葉とティーポットの準備をはじめる。


「マリア」


 気づけば、ウォレスが背後に立っていた。


「まだ部屋の中は寒いですよ」


 振り返って微笑めば、ウォレスが遠慮がちにこちらに手を伸ばし、けれどもサーラに触れずに宙でとめる。

 力なく下ろされた手を見つめて、サーラがわずかに目を伏せると、ウォレスがはあ、と息を吐いた声がした。


「……君を、困らせてもいいか」

「困らせないでほしいですね」


 笑って返したが、ウォレスの青銀色の瞳がびっくりするほど真剣で、サーラは思わず息を呑む。

 ウォレスはサーラに触れない。

 でも、じっとこちらを見つめてくる視線が、熱い。

 サーラは、じりっと後ろに下がった。

 聞いてはダメな気がする。

 それなのに――


「心は君に、置いていく」


 この男はどうして、サーラの心を開放してはくれないのだろう。





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