婚約 4

 一度風呂から出て着替えをすると、ウォレスにも濡れた服からガウンに着替えておくように告げる。


(濡れた服、どうしようかしら……)


 とりあえず、部屋の中には置いておけないので、侍女の控室のバスルームに放り込んでおくことにした。明日、ジャンヌが登城してくる前にランドリーメイドに回収してもらおう。

 メイドを呼んで、もう一度お湯を頼むとすごく不思議な顔をされたが、すぐに用意してくれた。

 お湯の準備が整うまで、サーラもウォレスも暖炉の側で待つことにする。

 ウォレスのバスルームの準備が整うと、サーラも入浴することにした。

 ウォレスのお湯を頼むついでにサーラの分も頼んでおいたので、侍女の部屋のバスルームの準備は整っている。


 バスタブにつかって、はあ、と息を吐き出す。

 ぼーっとしていると「一緒に寝たい」と言ったウォレスの言葉を思い出して急に恥ずかしくなってきた。


「ああ、もうっ」


 ざぶん、と冷静になるためにお湯に顔をつけたけれど、ただ顔が熱くなるだけでちっとも冷静にはなれない。


 抱きしめるだけだとウォレスは言った。

 一線は越えないと言われて安心したのに――残念にも思ってしまったのは何故だろう。

 ウォレスはサーラを大切にしてくれているけれど、無理やり奪ってくれたならサーラも自分に言い訳ができるのに。


 別れを前提とした付き合いだ。

 ウォレスはサーラの今後のことを考えて一線は越えないでいてくれるが、サーラはこの先、誰とも結婚するつもりはない。

 ウォレスが最初で最後の恋人だろう。

 ならばこの先も彼を忘れる必要はないわけで――、いっそ、鮮烈に彼を心と体に刻み付けておくには、一線を越えるのもありではないかと思ってしまう自分がいる。


 同時に、なんて未練がましいことを考えるのだと、情けなく思う自分もいた。

 潔く、笑って、何事もなかったように終わりを迎えたい。

 それはサーラの矜持でもあり、ウォレスのためでもあった。

 サーラが縋り付いたら、優しいウォレスは気に病むだろう。何とかして関係を続けようと、いけないことを考えるかもしれない。


(それは、絶対にダメよ)


 ウォレスにはウォレスの道がある。

 サーラが、足かせになってはいけない。


「お湯が冷める前に早く出ましょう」


 バスルームに一人でいると、余計な事ばかり考えるようだ。

 手早く、けれどもいつもより丁寧に体と髪を洗ってバスルームを出て、髪をさっとタオルで拭いてからウォレスの部屋へ向かえば、彼はすでに入浴を終えて暖炉の前でぼーっとしていた。

 ぽたぽたと髪から雫がしたたっていて、サーラはやれやれと肩をすくめる。


「せめて軽くでいいからタオルで拭いてほしいです。風邪ひきますよ」


 声をかけながらウォレスの背後に回り、タオルで髪の雫を拭ってやる。

 ウォレスはちらりとこちらに視線を向けて、とろけるように笑った。


「君に髪を乾かしてもらうの、好きだ。君の手は優しいからな」

「王子の髪を乱暴に扱う人なんていないでしょうに」

「ベレニスはあれで結構容赦ないんだ。ジャンヌは自分でしろって言って相手にしてくれないし。一度マルセルにさせたが力が強くて痛かった。自分ですると腕が疲れる」


 サーラはつい、ぷっと噴き出してしまった。

 ウォレスが拗ねたように口を尖らせたからである。

 そういえば、ウォレスがこんな風にサーラに向かって甘えたことを言うようになったのは、恋人になってからのことだ。

 別れたら、ウォレスが甘えてくることもなくなるのだろうか。

 丁寧に髪を拭った後で、早く乾くように空気を送るようにしながら手櫛で梳かしていく。

 暖炉の熱もあって、比較的早く乾くだろう。


「もう放っておけば乾くから、サーラはこっちだ」


 ぽんぽんと自分の膝を叩いてウォレスが言う。


(……そこに座れって?)


 躊躇っていると、ウォレスが一度立ち上がり、サーラを腕の中に閉じ込めた。

 そしてそのままサーラをひょいっと膝に乗せて座りなおす。

 バスタブの中と同じように、ウォレスの腕がサーラの腰に回った。

 こてん、と首筋に顎が乗せられる。ウォレスはこの体勢が好きらしい。

 パチパチと目の前の暖炉の薪が爆ぜている。

 暖炉の上に置いている鍋のお湯が沸騰していて、時折鍋の縁からこぼれると、じゅっと音を立てた。


「あとでハーブティーでも入れましょうか? それともお酒の方がいいですか?」

「酒を飲んだらたぶん抑えがきかなくなるから、ハーブティーでいい」


 なんの、とは言わなかったが、サーラは察して顔を赤く染める。


(お、お酒とそういう欲って因果関係があるのかしら……)


 サーラにはよくわからないが、これは突っ込んではダメな問題だろう。


「君は温かいな」

「お風呂上がりですから。殿下も温かいですよ」

「うん……」


 頬を寄せてくるウォレスは、いつもよりもずっと甘えたがりに見える。


「……母上が」


 かすれた声で、ウォレスがささやいた。


「母上が言うんだ。ジュディット……ラコルデール公爵は、次期王の正妃として申し分ない家柄と教養を持っていると。私が王になるためには必要な人材だと。でも、母上が見ているのは私の気持ちでも、ジュディットの内面でもなく、政治的に、権力的に、都合がいいか悪いかで……。母上は自分もそれで、父上とは義務的な関係で、昔は泣いていたこともあったというのに、何故」


 それは、答えを必要としていない問いだった。

 答えを返そうと思えば、客観的な意見を、サーラは返すことができる。

 しかしその意見は、ウォレスの望まない意見だろう。

 そして彼もそれをわかっているはずだ。

 わかっていて、あえて口に出せずにはいられなかった。そんな雰囲気だった。

 だから何も言わない。返さない。必要ないから。


 ウォレスの口から、母親の話が出るのはこれがはじめてのことだった。

 淡白な母子関係だろうとは想像していたが、口調からして少し違ったのかもしれない。

 少なくともウォレスにとって母は母で、たとえ淡白な母子関係であっても、彼は母に味方でいてほしかっただろう。

 表面上ではなく、内面的な味方で。

 ラコルデール公爵令嬢との婚約は、ウォレスにとっては母に突き放されたように感じられたのかもしれない。


 そっと手を伸ばして、ウォレスの頭を撫でる。

 ウォレスがその手を取って、手のひらに口づけ、上目遣いでじっとこちらを見つめてきた。


「――寝よう」


 サーラの心が、小さく震えた。





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