婚約 3

「――婚約が、決まった」


 ウォレスの声は、消え入りそうなほどに小さく、震えていた。

 サーラが暴れたからだろうか、バスオイルのスズランの香りがバスルームに充満している。

 波打っていた湯のおもては、いつの間にか静かになっていた。

 首筋に、ウォレスの息がかかる。

 ぎゅうっと腰に回された腕の力が強い。


「……そう、ですか…………」


 サーラは、やっとのことで声を絞り出した。

 予感していた。

わかっていた。

最初から覚悟していた。

 でも、実際に言われると――――痛い。

 鋭い針で、心臓を突き刺されたみたいに。

 お湯の温度も、背後のウォレスの体温もとても温かいのに、指の先から急速に体が冷えていくような錯覚を覚える。


「ラコルデール公爵令嬢、ですよね」

「そうだ。ジュディット・ラコルデール……彼女との婚約が、正式に通達された」

(通達、ね)


 わかっていたが、王族の結婚とはそういうものだろう。

 王や王妃、大臣たち。そしてもちろん、第二王子を擁立しようとしている派閥の人間――様々な思惑から、候補者が絞られ、選ばれる。

 そしてそこにウォレスの意思がどれほど働くのかはわからない。

 だが、少なくとも自分を担ぎ上げようとしている派閥の、しかも公爵令嬢であれば、第二王子の相手としては最良であろう。ウォレスに断る理由はない。

 新年の祝賀パーティーでパートナーにした時点で、ウォレスもわかっていたはずだ。

 そこで理由をつけて断らなかった時点で、周囲には受け入れたとみなされる。

 だからわかっていた。

 お互い、口に出さなかっただけだ。


「すぐですか?」

「正式な書面を交わすのは、春。四月だ。……四月、六日。皮肉なことに、君の誕生日だ」

「そうですか……」


 もしかしなくとも、サーラの誕生日は誰かに呪われているのだろうか。

 十歳の誕生日には両親が処刑され、この次の十八歳の誕生日では恋人が他人に奪われる。


「それまでは婚約内定者、ということになる」

「……では」

「でもまだ内定者で、婚約者ではない」


 子供がぐずるようなことを言うものだと、サーラはちょっとだけ笑った。


「内定がひっくり返ることはないでしょう」

「だとしても……、四月六日まであと二か月以上ある。私は、ぎりぎりまで君の側にいたい」


 サーラはすぐに答えられなかった。

 ウォレスの言うように、ギリギリまで彼の恋人でいたいという気持ちと、それはつらすぎるのではないかという考えが胸の中でせめぎあっている。

 もともと期限付きの付き合いだった。

 漠然としていた期限が、明確な日付で提示された、ただそれだけのことかもしれない。

 けれども、一日一日、一秒一秒。

 時計の針が刻むたびに残された時間が少なくなっていくことを実感することになる。

 時計を見るたびに泣きたくなるだろう。

 そんな時間をあと二か月も送れと、ウォレスはそういうのだろうか。


 そう思う一方で、今日この日を最後にすると決断したら、残り二か月、やっぱりギリギリまで恋人でいればよかったと後悔するだろう。

 どちらを選んでも苦しい。

 どちらも苦しいから決められない。

 ならば、甘えん坊で今ひどく落ち込んでいる恋人の意思を尊重するのがいい気がした。


「四月六日はダメですよ。せめて別れの日は前日にしてください。誕生日に振られるのは、嫌ですから」


 お腹に回されたウォレスの腕に、湯の中で触れる。

 一度お風呂から出て、サーラは服を着替えて、それからウォレスのために新しくお湯を用意してもらわなければならないだろう。


(もともと夜寝る前に話そうって約束したんだから、この続きは後でもいいでしょう?)


 ぽんぽんと湯の中でウォレスの腕を叩くと、彼はゆっくり顔を上げる。

 離してくれる気になったかと思った直後、ちゅうっとうなじに吸い付かれてサーラは飛び上がりそうになった。


「ちょっ――」

「サーラ」


 文句を言おうとしたのと、ウォレスに名前を呼ばれたのはほぼ同時。


「今日は一緒に寝たい」

「――――っ」


 息が、止まるかと思った。


「今日は離れたくない。君を抱きしめて眠りたい」


 それはどのように解釈すればいいだろう。

 硬直するサーラに、ウォレスがちょっと残念そうな、落胆に近いため息を吐いた。


「……抱きしめるだけだ。一線は越えない」


 少しだけ、サーラの体から力が抜ける。

 ドクドクと血が逆流するほど脈が早く打っていた。

 浅い息を繰り返していると、こつん、とまた肩口に顎が乗せられた。


「手は出さない。君の名誉は傷つけない。ただ――、これだけはわかってくれ。私は君を、抱きたい」


 でもしない、とかすれた声が告げる。

 サーラは何も返せなかった。


 顔が、体が、頭が沸騰しそうなほど熱くて、うつむいているのが精一杯だったのだ。




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