誕生日の翌日 3

 翌日、ウォレスがどこか疲労をにじませた顔でパン屋ポルポルにやって来たのは、十時十八分のことだった。

 リジーが来て、十一分後のことである。

 ウォレスが来るまで粘ると言って、飲食スペースに陣取っていたリジーは嬉しそうな顔をして立ち上がった。


「……お茶、入れましょうか?」

「頼む。あと……甘いものがほしい」

「それでしたら今日はラスクがありますよ」


 バゲットが前日売れ残った日だけ作って売るラスクが、まだ何枚か残っている。

 滅多に陳列に並ばない珍しい商品なので、いつもなら朝のうちに売り切れるラスクだが、昨日はバゲットが多めに余ったためいつもよりたくさん作っていた。


「じゃあそれを……全部」

「わかりました」


 ラスクは六枚残っていた。

 それをすべて皿に移して、飲食スペースに置いてやる。

 そして紅茶を淹れるために奥に引っ込むと、表からリジーの「お誕生日おめでとうございます」の一言が聞こえてきた。


「ありがとう。知っていたんだな」

「はい! 昨日、サーラから聞いて。昨日が二十歳のお誕生日だったんですよね?」

「ああ」


 ウォレスの口調には、ほんの少しだけ苦いものが混じっていた。

 おそらくだが、城で誕生日パーティーが開かれて、嫌と言うほど祝いの言葉をもらって、それに応えて回っていたのだろう。

 王子ともなれば、祝われる側が疲弊するほど盛大な祝いであるのは想像に難くない。

 届いたプレゼントも、危険物が紛れ込んでいないかの確認が終わった後で、一つずつウォレスも確認して、礼状の手配もしなければならないはずだ。さすがに自分では書かないだろうが、確認だけでも大変な作業であるのは間違いない。

 祝いの言葉にもプレゼントにも辟易しているはずだ。


(これなら、プレゼントはいらなかったかしらね)


 サーラは、昨日のうちに用意したハンカチの包みを見てそっと息を吐く。

 刺繍は無難に植物を模したものにした。さすがに王家の紋章を入れるわけにはいかなかったからだ。


(でもまあ、せっかく準備したし、渡さなかったらリジーもうるさそうだし……)


 なんだか自分自身に言い訳している気分になりながら、サーラは紅茶を三つと、それからハンカチの包みを持って飲食スペースへ向かう。

 早くプレゼントを渡したくてうずうずしていたらしいリジーが、サーラが席に着いたのを見て、テーブルの上にカフスボタンの入った小さな包みを出した。


「これ、お誕生日のプレゼントです!」


 ウォレスは目を丸くして、それからとろけるような笑みを浮かべる。

 美丈夫の極上の笑みに、リジーがぽっと赤くなった。


「ありがとう」


 そう言いながら、ウォレスはちらりとこちらに視線を向けてくる。


「……おめでとうございます」


 サーラもそっとハンカチの包みを差し出した。

 ハンカチ自体は絹であるし、刺繍に使った絹糸もいいものを使ったので、王子の普段使い程度ならば大丈夫だろうかと言う品だ。

 ウォレスが笑みを深めた。


(この笑顔に二段階目があったとは……)


 今まで見たことがないくらいに、とろけきった笑みである。あまりの破壊力に、リジーの顔がさらに真っ赤になった。


「開けてみても?」

「いいですけど……たいしたものではないですよ」


 期待しているところ申し訳ないが、どこにでもある刺繍入りのハンカチである。

 ウォレスは微笑みを崩さず、リジーとサーラそれぞれの包みを丁寧にあけた。

 リジーのは、馬蹄の形の、金色のカフスボタンだ。ああでもないこうでもないと、うんうん唸って悩みながら決めたものである。

 サーラは刺繍前提だったので特に迷うこともなく、無難に白い絹のハンカチを買った。

 刺繍のモチーフにしたのは、もう少し寒くなってくると実が赤く色づいてくるピラカンサスである。実の赤と葉の緑のコントラストが鮮やかな植物だ。


「……見事な刺繡だな」


 ウォレスが目を見張ると、リジーも彼の手元を覗き込んで目をぱちくりとさせた。


「本当。サーラ、刺繍上手だったのね!」

「……たまにお兄ちゃんのハンカチにも刺繍しているからね」


 ここまで緻密な刺繍を刺したのは久しぶりだが、意外と覚えているものだ。

 ウォレスはそれぞれのプレゼントを丁寧に包みなおすと、ジャケットのポケットに入れた。


「ありがとう。大切にするよ」


 王子のウォレスからすれば全然たいしたことないプレゼントなのに、彼は心からそう言っているようにも見えて、サーラはちょっとだけくすぐったくなる。

 紅茶を飲みながらラスクを食べはじめたウォレスの顔色は、心なしか少しマシになったようだ。

 もしかしたら、第二王子オクタヴィアンとして、大勢の視線にさらされ続けている彼は、ここのように気を張る必要のない場所が必要なのかもしれないと、なんとなく思う。

 肩の力を抜いて、お茶と素朴なお菓子やパンを食べながら、のんびりする時間が。

 満足そうな顔でさくさくとラスクを食べているウォレスをぼんやり見やっていたサーラは、そこでハッとした。


「忘れるところでした。リジー、あの話!」


 ウォレスは、王位継承のための実績を積んでいると言っていた。

 ならばリジーが仕入れてきた奇妙な話を耳に入れておいた方がいいだろうと、サーラはリジーに水を向けたのだが、どうやらよくわかっていないらしい。きょとんとした顔で首をひねっている。


「リジー、あの、奇跡の話よ」

「ああ! あれ! そうだったわ!」


 噂が大好きなリジーが黙っているのが不思議だったが、どうやら単に忘れていただけのようだった。それだけウォレスの誕生日に夢中になっていたのだろう。


「奇跡? 何の話だ?」


 四枚目のラスクを食べ終えたウォレスが、手を止めて怪訝そうな顔をした。


「神の子ですよ、ウォレス様!」

「……神の子?」


 プレゼントをもらって上機嫌だったウォレスの表情がこわばる。


「詳しく教えてくれ」

「はい!」


 噂を仕入れることも広めることも大好きなリジーが、胸を張って語り出した。


「ルイスによると、ルイスの友達が『神の子』を見たのは、第一王子殿下夫妻の成婚パレードの三日前のことらしいんです。彼――一応『彼』としますが、実は彼は男か女かもわからない外見をしていて、白くて長い髪に、赤に近い茶色の瞳をした背の高い人物だそうです。全身を黒いローブで覆っていて、声も高すぎず、でも低すぎない、男性とも女性ともつかない声色だったとか」


 聞くだけで怪しさ満点の人物である。


「『神の子』はセレニテと名乗ったそうですが、これは人の世界で使う仮初の名前だと言っていました」

「セレニテ……、なるほど、自分は清らかであるって言いたいわけね」


 セレニテには空や空気が清澄であるという意味がある。

 そんなものを神の子を名乗る自分の偽名にするなんて、どれだけ自信家だろうか。


「セレニテは、人々の前でたくさんの奇跡の技を見せたそうです。それが何なのかまではわかりません。ルイスの友達も、最初から居合わせたわけではなくて、人だかりができていたのが気になって見に行ったらしいですから。セレニテの奇跡の技を見ていた人たちは口々にすごいと騒ぎ立てていたそうです」


 コツコツ、と小さな音がしたのでウォレスの方を向くと、彼は指先で小さく机の上を叩いていた。明らかに機嫌が降下している。


(そりゃそうか。王家の威信に関わるもんねえ)


 神の子を名乗る人物に人々が傾倒しはじめると、時には国家権力をも脅かす事態に発展することがある。

 国は神を認め、信仰を許しているが、それらは国家の威信を脅かさないように緻密に計算、管理された上でのことだ。

 王の上に神がいるとしながらも、その神は王制を脅かしてはならない。

 王は神を王制に正当性をもたらす存在として利用しているだけなのだ。王制を揺るがす存在になったとき、神は神ではなくなる。少なくとも、国にとって。


 歴史を紐解けば、為政者にとって都合が悪くなった神を信仰する人々が迫害され改宗させられたケースなど数えきれないほどあるものだ。

 政治と宗教は別々のようで密接に絡み合い均衡を保っている。

 今回の「神の子」は、その繊細な均衡を崩しかねない危険な存在だった。


「そして、ルイスの友達がセレニテの周りに集まっている人たちの輪に加わってすぐ、見物していた人達の中で、一人の男が突然お腹を押さえて呻き出し、その場に倒れこみました。男はぴくぴくと痙攣を起こしたように小刻みに全身を震わせて、それからくたりと死んだように動かなくなったそうです。集まっていた人たちが悲鳴を上げる中、セレニテはゆっくりと男に近づいて、首元に手を当て、口元に耳を当てて、『お可哀想に……』と呟いたとか。ルイスの友達は、その一言で男が死んだのだと確信しましたと言ったそうです」

「ねえ、その男は本当に死んだの?」

「え? 知らないよ。だってあたしが見たわけじゃないもん。でも、他の人も死んだと思ってたみたいよ。市民警察を呼べとか、医者を呼べとか大騒ぎだったんだって」


 まあそれはそうだろう。

 というか男の生死にかかわらず、そのような倒れ方をすれば医者を呼ぶのは当然である。


「それでどうなった?」


 気が急いているのか、ウォレスの声が少しだけ低い。


「セレニテが生き返らせました」

「は?」

「ええっと、男を抱き起したセレニテは、『神の慈悲を与えましょう』と言って、小瓶に入った水を男の体に振りかけたそうです。『聖水』とセレニテは言っていたらしいですけど、ルイスの友達にはただの水に見えたと言っていたらしいです。それで、その聖水をかけて、彼が羽織っていた黒いローブを男の体にかけたそうです。そして、セレニテは五分くらいでしょうか、神に祈りをささげていたんだそうです。その間に近くの診療所から医者が連れてこられたそうですが、セレニテは医者に男に触れることを禁止して、待つようにと言ったとか。すると、男はひゅうっと大きく息を吸い込んで、目を覚ましたらしいです」


 ウォレスは目を見張って沈黙した。

 リジーは続ける。


「セレニテはその後、『神の慈悲が与えられました。よかったですね』と微笑んで、その場から去ったそうです。医者は狐につままれたような顔をしていたと言っていました」

「……そんなことがあるのか?」

「ね、奇跡ですよね!」


 リジーが無邪気に笑っているが、ウォレスとしてはその奇跡を認めるわけにはいかないだろう。何が何でも否定したいはずだ。

 サーラはウォレスを横目で見やりながらティーカップに口をつける。


(リジーが話したことがすべてなら、同じことをする方法はあるけど……)


 ただ、実際に見ていないのだからただの憶測だ。

 そして、それは現実的に考えたときの可能性の一つであって、本当に奇跡が起こったかどうかを否定できるものではない。

 しかし、茫然としているウォレスをこのままにしておくのは忍びなく、サーラは「たとえばですけど」と前置きして口を開いた。


「今のリジーの話が、その時の状況のすべてであるのなら、わたしでも同じことができます」

「え⁉」

「どういう意味だ⁉」


 リジーとウォレスがほぼ同時に叫んだ。


「簡単なことです。セレニテの周りに集まっていた人は、セレニテが男を生き返らせる前に様々な奇跡を起こして見せたことで、彼のことをすごい人間だと、本当に神の子かもしれないと信じる気持ちが生まれていました。これができていたからこそ、成功した方法だとも言えます。これは、簡単な心理トリックですよ」

「心理トリック?」

「セレニテは本当に奇跡を起こせる人間だと信じる気持ちが、集団心理として植え付けられていたら、彼の行動を邪魔する人はいないでしょう。そしてその状況で、男が倒れ、セレニテが近づき、男が死んだと暗示させる。男が生きているか死んでいるかを確かめたのはセレニテ一人で、他の誰も男には近づいていない。ここまで言えばわかりませんか?」

「……つまり、男は本当は死んでおらず、セレニテとグルだった、と?」

「そうです。男は死んだふりをする。そしてセレニテがパフォーマンスを行い、男を生き返らせる。医者に触らせなかったのは触られたらすぐに気づかれてしまうからですよ。呼吸をすると胸部や腹部が動きますが、呼吸を浅くし、セレニテが男の胸部や腹部が周りから見えにくくなるように隠しさえすればいい。ローブをかけたのも、男が生きていると気づかれないようにするための措置でしょう。そして少し経って、男はさも生き返ったかのように大仰に息を吸って目を開く」

「詐欺じゃないか‼」

「そうかもしれませんが、ここで忘れてはいけないのが、セレニテは一言も、男が死んだとも、生き返らせるとも言っていないことです」


 セレニテは倒れた男に向かって『お可哀想に……』、といい『神の慈悲を与えましょう』と言った。

 男が死んだと勘違いしたのは見ていた人間で、神の慈悲が男を生き返らせることだと勘違いしたのも、やはり見ていた人間だ。

 一言も言っていないのだから、これを詐欺とするのは難しい。

 しかも、セレニテはお金を取った見世物をしていたわけではない。

 ふらりとやってきて、ちょっとした芸を見せて去っただけ、そう言われれば終わりだ。


「でもさあ、もし誰かが倒れた男に近づいて、男が死んでいないことに気が付いたら?」

「そのときは、男が病気で腹痛を訴えているってことにすればいいんじゃない? そして同じようなパフォーマンスをして『治った』なんていえば、神の奇跡で治ったって見ている人は勘違いしてくれる」


 セレニテが男が死んだと明言しなかったのはこのためでもあるだろう。死んだと言っていないのだから、どうとでも調整可能なのである。


「もっとも、これはあくまでわたしの想像です。実際にこの目で見ていないのですから、その場で何が起こったのか、確実なことは言えません」

「いや、有意義な意見だった」


 奇跡を否定する材料ができたからか、ウォレスの顔色はいい。


(ただまあ、その前にもいくつかの奇跡を起こしているらしいからね、それが何なのかは、見て見ないと何とも言えないけど)


 この世に本当に奇跡があるのならば見てみたい気もする。

 けれど、リジーが語ったことを奇跡と信じるほど、サーラは純粋ではない。

 サーラがもし、この世の汚いことを何も知らなかったサラフィーネ・プランタットのままであれば、信じたかもしれないけれど。


「なあんだ、つまんな~い」


 奇跡が奇跡でないと言われて、リジーが口を尖らせた。


「でもまあ、同じようなことが続くなら、対策は必要でしょうか」

「そうだな。必要だ」

「え? どういうこと?」


 リジーがきょとんとする。

 サーラは小さく笑った。


「この国には、神の子は必要ないと言うことよ」


 ウォレスは同意を示すように、深く頷いた。






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