小夜時雨、降れよ降れよと恋ひ願ふ

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小夜時雨、降れよ降れよと恋ひ願ふ

「ヒトには常に希望という光が与えられている」

 いつか読んだ小説の一節は、本当なのだろうか。ならばなぜ、俺の瞳には光が差し込まないのだろうか。この世界は不安定で、不完全で、理不尽だ。

 遠い昔海だったこの場所には、ビルが覇を競うように生えている。そんな都会の喧騒からぽつりと離れたこの公園は、俺にとっては唯一の安息の場所だった。

 翡翠色の池の畔にポツンと佇む、俺だけの世界を描くことのできる箱庭。そんな俺だけの箱庭に、今日は先客がいた。

 その女はストローの刺さった紙パック酒を持ってベンチに横たわっていた。

「ちっ……酒くせぇ」

 まったく困ったものだ。この飲んだくれが身に纏ったスーツはアイロンの跡が分からなくなるほどに乱れていた。独奏の邪魔ではあったのだが、其処ら中にある石ころとでも思って放置することにした。

 肩にかけたバイオリンケースをベンチに下ろし、ロックを外す。年季ものであるこのケースを開くと、蝶番が軋み、音を立てる。弓とバイオリンを手に取る。弓を弦に擦り当て簡単な音色を奏でてみる。

「いい音だ……」

 音楽が俺と外界を断ち切ってくれる。アップもほどほどに、俺は意識を一人だけの音の世界に深く、深く落とし込む。緑で生い茂った草原に舞い降り、自分の横を二頭の馬が駆け抜けてゆく。どこからか吹いてきた追い風は、俺の奏でた音色をどこかへ運んで行く。

「……い……年」

「おーい……少年」

「うわっ!」

 草原から現実へと意識を戻された俺は、素っ頓狂な声を上げる。こんな酔っ払いに関わっていいことなんてないと、内なる自分が訴えかける。

「少年、そう無視を決め込むな。年上の言うことは聞いておくものだよ。……うっぷ……リバースしそう……」

「どなたかは存じませんが、公共の場を汚すのはやめてくださいね。それと年上を敬う姿勢はその人が敬うだけの器を擁しているときだけです」

「かたいねー少年。……うっぷ……水……水をください」

「わかりました。吐かれても困るので」

「じゃあそれとウコンと蜆の味噌汁」

「とりあえず水だけ買ってきますね」

 俺は言われた通りに水を買いに行く。園内の自動販売機に硬貨を投げ入れ、ボタンを押して購入する。本当に吐かれても困るので、足早に飲んだくれのもとへ向かう。

「はい。水です」

「少年、ウコンと味噌汁は?」

「そんな色々と要望できる気力があるんでしたら、早く家にでも帰ってください。」

「そんなぁ……」

「ワイシャツもスーツもぐちゃぐちゃで見るに堪えないので」

「目のやり場に困る。の間違いじゃなくて?」

 そう言いながら飲んだくれは手に抱えていたパック酒をストローですする。

「なんでさっきまで吐きそうだったのに飲むんですか?死にたいんですか?」

「これは向かい酒だよ、少年。結局のところ、向かい酒が一番二日酔いに効くんだよ」

「はぁ……。まあ、取り敢えず、居座るも居座らないもあなたの勝手ですが、俺の邪魔だけは勘弁してくださいね」

「ふぃー……効くー」

 この飲んだくれは、俺を自分の世界から現に呼び戻しておいて、もう自分の世界で酒を片手にくつろいでいた。すこしムカッとしたが、また呼び戻されるくらいならと放置した。

「おーい……」

「おーい、少年」

 数分とたたぬうちに、この飲んだくれは再び俺を現へと呼び戻した。

「今度は何ですか、吐くなら他所でしてください」

「まぁまぁ。そんなカリカリしなさんな。そんなカリカリばっかしてると、いい音も出ないよ」

「飲んだくれにバイオリンの何が分かるんですか」

「じゃあ、その飲んだくれに君の命の次に大切なそのバイオリンを貸して見なさい」

 少々あきれ気味に彼女に尋ねると、胸を張って言い張った。

「お断りします」

「これでもお姉さん楽器詳しいんだよ?いいから、貸した!貸した!」

「ちょっと、ほんとにやめてください。まだ水の代金払われてないし、警察呼びますよ」

「ふぅん……いいバイオリンだね。大事にされてるのがよくわかるよ。けど雨の日に楽器をここに持ってくるのはどうなんだい?」

 半ば強引にバイオリンを奪い去った飲んだくれは、慣れた手つきで弓を弾く。その姿はさっきまでのだらしない姿などではなく、月光に照らされた水面で舞う一羽の白鳥の様に、凛々しく、美しかった。

「ほい!返すよ。すこしG線を調弦させてもらったけど、これで君の奏でたい音色に少し近づいたんじゃない?」

「ありがとうございます」

「じゃあ私は家に帰らせてもらうよ。水ありがとね」

「代金まだもらってないのですが……」

「細かいことは気にするな!今私は一銭も持ち合わせてないんだよ。まぁ…調弦代ってことで、疑うなら隅々まで触って確かめてくれてもいいんだよ?」

 彼女は数回ジャンプをして、小銭がないことを証明して見せる。

「それは……遠慮させていただきます」

「そかそか。ま、もし来たらぶち飛ばしてたけどねっ!」

「理不尽……」

「まぁ…もし今度会うことがあったら、その時は礼をするよ。じゃあね、少年」

 俺は空気を読むのが苦手だった。他人の気持ちを推し量ることが俺には難しかった。自分自身、気持ちの起伏が薄いからなのか、察するということや、言葉の裏を読み取ることも苦手だった。だから俺は、自分から人と喋ること、関わることを避けてきた。しかし、今日の酔っ払いとの会話は別に嫌というわけではなかった。そればかりか、心地よささえ感じた。それはたぶん、彼女の演奏を見たからだろう。もし俺が素人だったとしても、思わず見とれてしまうような演奏だった。調弦されて返されたバイオリンのG線は、俺の奏でたい音を忠実に奏でてくれた。


………………


「瑞香。バイオリンレッスン行ってみない?」

 きっかけは、そんな母の些細な一言だった。その頃からバイオリンを習い始めた。 

 最初はただただ苦痛だった。遊びたい盛りだった私の一日は、学校とバイオリンに縛られていたからだ。しかし、バイオリンを弾いてゆくうちに一つずつ出来ることが増えていくことに喜びを感じるようになった。気づけば、苦痛だったはずのレッスンが楽しみに変わっていった。そこからバイオリンに夢中になるまでに、時間は要さなかった。学校が終わるとバイオリンレッスンの日々。そして、社会人となり、交響楽団の末席に置いてもらえることになった。

 しかし末席に加わって二年、最近になって、うまく自分の奏でたい音を出せなくなってしまった。いわゆるスランプというやつだ。

 最近の交響楽団は終身ではなく、実力主義の年俸制。スランプが続けば、職を失ってしまうのだ。当然私は今年の再契約を勝ち取ることが出来なかった。

 何かに縋りたかった私は酒に溺れた。大学時代はあんなにもまずかった酒が、不安をかき消すための安定剤になっていった。昨日もオーディションを受けたが、結果は御察しの通りだ。そんな私は、家に帰ることさえ億劫になっていた。

………………

 冬晴れの気持ちがいい昼下がり。今日もまた、箱庭へ向かう。そして、慣れた手つきでバイオリンケースを開けて音の調子を確かめる。

「うん、いい音だ」

 俺はある楽譜を取り出す。この曲は四本ある弦のうちGと呼ばれる弦しか使用しないのが特徴の曲だ。一見簡単そうに聞こえるが、本来四本の弦で音色を奏でる曲を一本のみで奏でようとしているのだ。これがいったいどれほどの技巧が必要であるかは想像に難くない。敢えて俺の言葉で表現するならば、聴衆からは、森林浴をしているかのように心地の良い響きだが、演者からすれば、富士の樹海に何の準備も無しに飛び込んでゆくような難易度なのだ。

 俺は無心になってこの曲を弾き続けた。日が暮れるのも、雨が降り出したことも気づかない程に。

「少年。君は雨が好きだねぇ」

 声の主は先日の飲んだくれだった。俺は戸惑いつつも、平然を装って言葉を並べる。

「雨は好きですが、気づいたら雨に降られていただけです」

「そかそか。けどもう七時過ぎだよ?これからもっと冷え込むし早く帰りなさい」

「もう頃合いだし、帰る予定でしたから」

 素っ気なく、彼女に答える。

「傘はないみたいだけど」

「止むのを待って帰ります。どうせ俄雨ですし」

「今日は一晩中降るみたいだよ」

「そうですか…くしゅんっ」

「見かけによらず可愛いくしゃみするねー」

 不覚だった。彼女は笑いを堪えながら言った。

「黙っててください」

「最寄り駅までなら送ってやらんこともないが、どうだい?わたしとキャッキャウフフな相合傘をさすのは」

「くしゅんっ…キャッキャウフフは余計ですが、最寄り駅までお願いできますか?」

 彼女に揶揄われるのは癪だが、雨でバイオリンを痛めてしまうよりはましだと自分に言い聞かせる。

「よーし少年!もっとちこう寄れ」

「よろしくお願いします」

「もっと寄らぬか」

「結構です」

「つれないなー。じゃ、いこっか」

 やんごとなき理由があるにはあるが、いつもなら誰かが手を差し伸べても、頑なに拒否していた筈なのに、この人の提案に乗ってしまった自分に、自分自身かなり動揺していた。別に嗅ごうとも思っていないのに、彼女からは花園のような香りが漂ってくる。

「あ!ここは沈丁花が植わってるんだー」

 箱庭の周りに植わった植物の蕾を見て彼女は言った。

「好きなんですか?その花」

「うーんあんまり好きじゃないかなー。私と違って冬を耐え抜く強い心を持ってるのに、花言葉は実らぬ恋だよ?」

「そんな花だったんですね。知りませんでした」

「お姉さん博識でしょ。もっと褒めてくれてもいいんだよ?」

「そのコンビニ袋から見える酒が無ければそうしていたかもしれません」

「少年のケチ」

「ケチで結構です」

「ところで少年。さっきからすごい小刻みに震えているけど大丈夫かい?」

「大丈夫です。少し肌寒いだけなんで」

「んー…風邪ひいてもらっても困るし、私の家行こっか」

「は?なんでですか?まだあなたの事を何も知らないのにあなたの家に?」

 見ず知らずの学生を家に連れ込むというのだから、やはり彼女は異常だ。

「相変わらず堅いねー君は。言っとくけど、君に拒否権ないから」

 傘から出て逃げようとしたのだが、彼女側の肩に掛けていたバイオリンを人質に取られ、渋々彼女の家に行くことになってしまった。

「上がって!上がって!言っとくけど、少年がお風呂から出るまでこの子は人質だからねー」

  バイオリンを取られてしまったならば、従うほかあるまい。

「分かりました。お言葉に甘えさせていただきます」

「いってらっしゃーい!タオルはカゴにあるやつ使っていいからね」

「はい」

 彼女は早くもパック酒のストローに手をかけ、俺を風呂場へ促した。

 普通は、名前も知らない他人を家に入れるのか?ましてや異性を。俺も人のことは言えないが、彼女はどうも常識が抜け落ちた宇宙人のようだった。

 シャワーを出し、冷えた体に適温になったお湯をかける。芯まで冷え切っていた身体は、みるみるうちに温かくなってゆく。

「シャワーありがとうございました」

「気にしないでー。それよりご飯食べていきな」

「いや、もう時間も時間ですし、これ以上ご迷惑をかけるわけには……」

「子供なんだから遠慮をするなよ少年。それにまだ水の代金払ってないんだけど」

「はぁ…わかりました。御馳走になります」

「まぁ適当に座ってくれたまえよ」

 彼女に促されるまま俺は椅子に腰を掛ける。料理を待つまでの間、手持無沙汰だったので部屋を見渡す。すると、身に覚えのあるものを見つけた。

「あ、あの……」

「ん?なんだい?」

 料理をしながら安酒をキメる彼女に、俺は初めて自分から質問をした。

「あれってバイオリンですか?」

 俺は部屋の隅に置かれた淡いピンク色のケースを指さす。

「うん…そーだよ」

「趣味で弾かれているんですか?」

「まぁ…今はそんな感じかな……」

「初めて会ったとき、調弦して頂いたG線が、自分の奏でたい音を出してくれるんです。調弦していただいた時に貴女の立ち姿と音を聞いて、まるで一羽の白鳥が月光に照らされた水面で舞っているように見えて、感動したんです」

「へぇー、そう思ってくれてたんだ」

 そう言って彼女はテーブルにナポリタンスパゲッティを置いた。

「ごめんねー、作れるものがこれくらいしかなくて」

「いえ、お構いなく。いただきます」

「どお?美味しい?」

 彼女は自信ありげに聞いて来る。

「はい。すごくおいしいです」

「話が戻るのですが、どうしたらあんなにもいい音が奏でられるのですか?」

「私なんてまだまだだよ。世の中にはもっとすごい人だっているんだから」

「それはそうですが、俺はあなたの奏でる音が好きなんです」

「照れるなー。そんなに知りたいのなら君は雨の日にわざわざバイオリンをあの公園に持っていかないことから始めようか」

「でも……」

「でも?」

「あそこ以外に気持ちよく弾けるところが無くて……」

「あるじゃん」

「ないですよ。あそこ以外の居場所なんて」

「ここに弾きに来ればいいじゃん」

「いや、でも…」

「君はさー、人と関わるの苦手でしょ」

 彼女は頬杖をつきながら話し始める。

「ええ、まぁ」

「そんな少年にいいことを教えてあげるよ。いい?まずバイオリンを弾いているときに自分が聞こえる音と、聴衆に聞こえる音って違うの。だから君はまず、自分が納得いく音を出そうとする前に、自分の奏でる音が聞き手にどう聞こえるのかを知った方がいいよ」

「それなら携帯の録音機能で……」

「ちがーう!ぜんっぜん分かってないなぁ。確かにそれも一つの練習方法ではあるけれど、所詮は機械の模倣。生の音は聞き手しか聞けないんだよ」

「じゃあどうすればいいんですか」

「雨が降っている日は私の家に来なよ。私、君の奏でるまっすぐな音……好きだし」

「でも…」

「そんなこと言うんじゃ、君のバイオリン一生返さないもん」

 酔った人間はこんなにも面倒くさいのか、いや、この人は常時こんな感じか。

「分かりました。じゃあ雨の日だけここに来ます」

 上達の為ならばと、彼女の提案に乗ることにした。

「ホントに?」

「まあ…教えてもらえるのは素直に嬉しいので」

「じゃあ雨の日は君だけの特別レッスンを開いてあげよう。受講料は君の奏でる音色で!」

「ナポリタン御馳走様でした。美味しかったです」

「ならよかった。食器は水につけといてくれれば大丈夫だから、今日はもう帰った、帰った」

 こうして俺は、雨の日だけのレッスンを受けるようになった。

………………

「再契約できなかったくせに、よく言えたもんだな……」

 私は、少年が帰って静まり返った部屋で天井を見上げながらそう呟く。私は彼が羨ましかった。純粋に音楽を楽しむ彼の瞳は、キラキラと宝石のように眩しくて、彼の奏でる音色は愚直ながらも純粋で、心地よかった。

「私も、もう少し頑張ってみようかな……」

………………

 重い瞼を上げると外はどんよりとしていた。いつもの公園に行くために、身支度を整える。整え終わるころには、ぽつりぽつりと雨が降り出していた。昨日の今日で訪れるのはどうなのかと思ったのだが、せっかくの上達のチャンスをふいにするのはどうかと思い、彼女の家に行くことにした。

 歩き慣れない道を、彼女の家を目指して進む。エレベーターに乗り、彼女の住む部屋の階のボタンを押す。ドアの前まで来ると、一気に緊張が押し寄せたが、上達のためだと自分に鞭を打ち、チャイムを鳴らす。

「やあ少年待ってたよ」

「昨日の今日ですいません、お邪魔します」

「こっちも暇してるし、入って」

「じゃあ何から始めよっか」

「ちょっとバイオリン構えてみて」

「分かりました」

「どう、ですか?」

「もう少し肩の力を抜いてみて、もう少し広めに足を開いて右のつま先をきもち外側に開いてみて」

「こうですか?」

 初めての彼女のレッスンは実に充実したものだった。言葉足らずな俺に、最初から最後まで寄り添って教えてくれた。技術的な面も勿論、言語化しにくい音の出し方の細部に至るまで彼女は教えてくれた。ただ水を買って渡しただけなのに、たったそれだけでこんな充実した練習が出来るとは、夢にも思わなかった。

 俺は自分の空間に人が入ってくるのが嫌だったはずだ。けれど、雨の降るたびに、彼女の家を訪ねるたびに、だんだんと一人ではないことの楽しさと喜びを感じていった。彼女の横で演奏することに、彼女とデュエットすることに、心地良さすら感じていたのだ。

「じゃあ、また雨の降るときによろしくお願いします」

「待ってるね」

 そして気が付いた頃には、彼女の家を訪れる様になってから二桁を数えるまでになっていた。

 慣れ始めた濡れたアスファルトの道を踏みしめ、夕闇を背に、もと来た道を歩いてゆく。今日もまた、雨が降っていた。午下、俺は慣れた足取りで彼女の家に行く。彼女の家のチャイムを鳴らし、来訪を知らせる。

「今日は来ないのかと思ったよ。さあ入って」

「お邪魔します」

「今日は何がしたい?あっ、珈琲淹れたからよかったら飲んで」

「ありがとうございます。じゃあ音階練習でアップをしたら一緒にデュエットしてくれませんか?」

「ダンスかーちょっと自信あるんだな―これが」

「バイオリンで、です」

「分かってるって。つれないなー少年」

 今日も、いつも通りのレッスンが始まる。途中、休憩をはさみながら、曲を自分のものにしてゆく。瞬く間に時間は過ぎ去って、もう七時を過ぎていた。

「時間もいい感じだし、今日はこのくらいで終わろうと思います」

「もう七時過ぎかー。時間が経つのは早いなー」

「時に少年。お腹空いてないかい?」

「空いていないと言えば噓になりますが。いつもご馳走になってますし」

「いいの!いいの!食べ盛りなんだから」

「じゃあ…お言葉に甘えて」

「少し時間がかかるから君はお風呂入ってて」

「なんで入らないといけないんですか?もしかして臭かったですか?」

「いやいや、そうじゃないよ…ただ今日は少し君に相談があって、少し付き合ってもらいたいんだー」

 今日の彼女は、なんだか歯切れが悪い気がした。

「けど、それと風呂に入る関係性が見えてこないのですが……」

「私の家って…ほら、特に暇潰すものもないし、練習終わりに入るお風呂は格別だよ?」

 そう言われ、俺は彼女に流されるがまま、浴室へと向かった。湯も張ってあったのだが、家主よりも先に使わせてもらうのは流石に気が引けて、シャワーだけ浴びることにした。

「お風呂ありがとうございました」

 浴室から戻ると、彼女はキッチンにおらず、いつもの安酒を片手にテーブルに突っ伏していた。

「俺が言えたことじゃないですけど、一応異性が家に居るときくらいは酒なんて口にしないでください」

「あー、君かー」

 彼女はすでに出来上がっていた。

「相談事があるんじゃなかったんですか?もう帰りますよ?」

「私をベットまで連れてっておくれ」

「自分で歩けないんですか?まったく」

「はーやーくー」

「ベットまでですからね」

「うん…」

 俺は肩を貸しベットまで連れてゆく。

「着きましたよ」

「ありがとー」

「じゃあもう俺は帰りますからね」

「ちょっと待って」

 彼女をベットに寝かしつけ、立ち去ろうとすると、彼女は裾を掴んでそう言った。

「しょうがないですね。ちょっとだけですよ」

 相談事があるのだろうと思い、俺はベットの端に腰かけた。

「私、ちょっと前まである楽団に所属してたの」

「初耳ですね」

「けど契約更新できなくてお払い箱になっちゃった。それでお酒飲んで荒れてた時に、君のバイオリンの音色が耳に入ったんだ」

 彼女は悩みを吐露し始めた。

「今すごい不安なの。明日のオーディション、ダメだったらどうしようって」

「君にそれを相談しようと思ってたのに、結局またお酒の力に頼っちゃった」

「明日のオーディション絶対に受かるなんて勝手なこと、俺は言うことは出来ません」

「けれど、俺は貴女が奏でる音色が好きです」

「貴女が不安で眠れないのなら、今日くらいは寝るまで横にいますよ」

 これまで無償で自分に稽古をつけてくれた彼女の役に立てればと、柄にもない、気障なセリフを口からこぼす。

「優しいね、君は」

 その瞬間、俺の身体は無重力状態になった。俺と彼女の距離は、まつげが触れあいそうなほど近くで横になっていた。

「私、君の奏でる音色が好き」

 耳元で吐息交じりの声が聞こえる。彼女の体温、吐息が直に肌に伝わる。彼女は顔を胸にうずめて擦り付けた。まるで捨てられた猫が媚びる様に優しく、それでいて、マーキングするように何度も何度も擦り付けた。

「君の音楽に対するまっすぐな熱意が好き」

「けど今だけは、その熱意を私に向けてくれない?」

「…………」

 俺はどうすればいいのか分からなかった。操り人形の様に、されるがままの状態だった。そして彼女は、仰向けになった俺に跨り、唇を塞ぐ。

「酔っているんですよね!俺はもう帰りますから!」

 流石にまずいと思い、俺はベットから飛び上がろうとするも、彼女がベットへ引きずり込む。

「駄目、君は全然わかってない」

 そう言って、彼女は再び唇を塞ぎにかかる。そして塞ぎ込んだだけでは飽き足らず、酒臭い舌を絡ませた。

「これが大人のキス」

「分かりました!分かりましたから!」


 この夜、俺は初めて酒と女の味を知った。


 朝、俺はベットに差した陽の光で目を覚ました。横には彼女の姿はなく、部屋の中にはジャムの甘い香りが漂っていた。彼女の姿を探そうと辺りを見渡すと、ベランダに彼女の姿があった。

「おはようございます」

「おはよう少年」

「タバコ吸うんですね」

「嗜む程度にはね。幻滅した?」

「いえ、別に」

「君のトーストはトースターの中に入ってるから、温め直して食べてね」

「はい、御馳走様です」

 正直、俺はどうしていいか分からなかった。

 乱れたシーツに目をやると、昨晩の彼女の姿が脳内で反芻される。その一方で彼女は、昨日のことが嘘だったかのように、ベランダで湯気の立った珈琲を飲み、広げた新聞を読んでいた。彼女は、俺がトーストを食べ終わる頃にベランダから戻って来た。

「うぅー寒い」

「トースト御馳走様でした。美味しかったです」

「気にしないで!でも、もう少しその堅い言葉遣いを直してくれるといいなー」

「それは…善処します」

 身支度を整えて彼女から返還されたバイオリンを手に取る。

 そして俺は、とある重大なことに気が付いた。

「そういえば名前まだ聞いてませんでしたね。教えてもらってもいいですか?」

「うーん、名前かー。そういえばまだだったね」

「はい」

「じゃあ少年がコンクールで入賞したら教えてあげる」

「ずるいですね」

「そうだよー。おとなって、とってもずるいんだー」

「じゃあ俺もあなたが今日のオーディション受かったら教えることにします」

「そう来たか少年。言うようになったねー」

「誰かさんのせいで」

「そりゃどーも。じゃあまた雨が降るときに」

 人には常に希望という光が与えられている。だが、希望という病に縋りついて溺れるのも人の常だ。

 この日、この街には春一番が吹いた。帰り際、彼女の吸っていた煙草をコンビニで買ってみる。ビニールを外し、どこを開ければいいのかもわからない銀紙をちぎって一本取り出し、慣れない手つきで火を灯す。

「まずい…」

 結局のところ、煙草の美味さは俺には分からなかった。その後は、特に予定もなかったので、俺はいつものように公園へ向かう。そして、冬の風が差しながらも温かな陽の差す箱庭で、年季の入ったケースからバイオリンを取り出す。ぎこちなくも、形になって来た曲を今日もまた弾き始める。

 逢魔が時となり、練習を止めて家に帰る支度をする。そして、家路に向かって歩みだす。帰宅ラッシュと重なり、喧騒を極めた街中を一人寂しく歩いてゆく。

 寂しい?この俺が?知らぬ間に俺は彼女に毒されていたらしい。数か月前の自分が見たらさぞ滑稽だろう。そんなことを考えていると、ビルのスクリーンに映し出されたニュースに目が留まる。

「今日午後四時頃、○○通りで通り魔事件が発生しました。被害にあったのは二十代の女性で意識不明の重体であり、犯人はまだ捕まっておらず、警察は捜査を続けているということです。続いて……」

「いやねぇー。通り魔なんて」

「まだ捕まってないんでしょう?怖いわぁ」

 事件なんて毎日新聞社がネタに困らないくらいに発生してるのに、自分が事件に巻き込まれることなんて宝くじの当選確率ではないのだろうかと思えてくる。


 その後、この街には春まで雨が降ることはなかった。


 3月下旬、今日もまたいつもの箱庭で演奏を始める。淡いピンク色のケースからバイオリンを取り出し、雨上がりの陽が差し込み、瑞香花の咲き誇る箱庭から、今日もまた、藍色の音色を奏でる。瑞香花の優しい香りに包まれながら、G線上の彼女に向けて、小夜時雨、降れよ降れよと希う。


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