第987話

 灯台は都風の石煉瓦で造られた、村の水道と同じくらい古い物だった。これが建てられた頃には、この岬の先を多くの船が行き交っていたのだろうか。

 周りにはいくらかの家庭菜園があり、手入れもされている。


「こんにちはー。クローゼと申します、都から来ましたー」


 僕は灯台に向かってそう呼び掛ける。こんな事したら逃げられちゃうかな?


「まあ、お客様とは珍しいですわ。ようこそお越し下さいました」


 しかし灯台の入り口の、壊れた扉の代わりの木の板の向こうから現れたのは、若い女性の獣人だった。その姿はほぼ人間に近いのだけど、耳と鼻が……猪か豚っぽい……居たんだ、そういう獣人も。


「貴方、都からクローゼさんという方がいらっしゃいましたわ」


   †


 僕はその人とは面識はなかったが、向こうは公爵家にクローゼという名前の六男が居る事を知っていた。


「公爵様のご子息が……それはそれは、大変なご苦労をなさいましたなあ」


 ルーダン城の元の城代の、マーフィという名前の小柄なおじさんは僕たちを建物の中に招いてくれた。ポポロンは荷車で待っているので来たのは僕とシルレイン、レーニャだけだ。


「お食事がまだでしたら是非どうぞ、妻の得意料理です」


 こちらの短いくるんとした尻尾を持つ、グラマラスで手足の長いスタイル抜群の獣人の女性は、マーフィさんの奥さんだという……そして彼女がおっとりとした様子でニコニコしながらテーブルに置いてくれた料理はどう見ても豚の角煮だった。こういう時ってどんな顔をすればいいんだろう。


「お口に合うと宜しいのですが」

「は、はい……ありがとうございます」


 僕は恐縮しつつ箸を取る。

 マーフィさんは、肩を落としてつぶやく。


「それで、あの……クローゼさまは、私を逮捕しに来られたのですよね? 私は公爵様の辞令を頂き城代としてこの地に来たのに、仕事を放棄してこんな所に隠れ住んでいるのですから」

「ああいえ、そんなつもりはないんです、ただ出来れば、どうして貴方が城代をやめたのか、それが知りたくて」

「クローゼさま、それは私のせいなのです」


 奥さんがおずおずと口を開く。マーフィは手もみをして、灯台の高い天井を見上げた。


「どこから、お話ししましょうか……」


   †


 三年前。都で女性スキャンダルを起こし家にも職場にも居辛くなったマーフィは僕の父、エーリヒ公爵に泣きつき、ほとぼりがさめるまでどこかの辺境の閑職に回して欲しいと乞い願った。そこで父が用意したのがルーダン城の城代職だった。

 当初の予定ではマーフィは三年で都に帰る事になっていた。彼は都に帰れる日を指折り数えながら、文化も風習も違うこの地で何とか城代の仕事を全うしようとしていたのだが。


「そこに現れたのが今の妻……イベリコでした」


 マーフィとイベリコの出会いは運命的で、二人は互いに急速に惹かれ合った。しかしマーフィには都に残して来た妻が居たし、そもそも彼がここに来たのは都での浮気がバレて家に居る間じゅう妻の折檻を受け、このままでは身が持たないと思ったからだ。これ以上の間違いを起こしてはならない。マーフィはそう自分に言い聞かせ、耐え忍んだ。

 しかしある時、出稼ぎに出ていたイベリコの父が遠い国で亡くなったとの知らせが届いた。彼女の家には他所の町の商人に負わされた借金があり、それは父の稼ぎなくして払えるものではなかった。

 商人はある日やって来て言った。金を返せないなら娘のイベリコを差し出せと。

 イベリコはそれを聞いて喜んだ。それなら家族の借金はなくなるし、自分のせいでマーフィが苦しむ事もなくなると。

 私はとても幸せでした、遠くの町で、きっと立派なラフテーになりますわ。彼女はそう言い残し、商人の牛車に乗せられ村を離れた。

 その事を知ったマーフィは、自分は既に45を越えているが、今日まで男として生きて来たのはきっとこの日の為だったのだと覚悟を決め、薪割り用の斧を手に髪も服も振り乱し、裸足で牛車を追い掛けた。


   †


 その話を聞いてますます箸を出し辛くなった僕は、ただただ硬直していた。横目でちらりと見れば、シルレインも豚の角煮を見て複雑な表情をしている。レーニャだけは何のお構いもなく幸せそうに角煮を頬張っていた。マーフィさんは、薄くなった頭を掻いて笑う。


「わはは、そんな顔しないで下さい、それは近くの村で買って来た普通の豚肉ですから」

「あた、あた、当たり前じゃないですか何を言うんです!」


 そこへ灯台の中の螺旋階段の上から、とことこと小さな男の子が降りて来る。三歳くらいだろうか。ああ。耳と鼻はお母さんに、残りはお父さんに似てる。


「おとうしゃん! いじょう、なしえす!」


 男の子の声が建物の中に響くと、部屋の仕切りの向こうから赤ちゃんの鳴き声がし出す。


「ぷきー、ぷききー、ぷききー」

「あらあら、アグーが起きましたわ」


 イベリコさんはさっそく仕切りの向こうへ行って、おくるみに包まれた赤ちゃんを抱っこして戻って来た。マーフィさんは上の男の子の頭を撫でていた。


「ジンファは元気ないい子だな、よしよし」

「おとうしゃんのかわいに、うみをみてきたの!」


 レーニャが僕の横顔を見ながら二人を指差し、にっこりと笑う。


「マーフィとイベリコ、交尾したんだね」

「ぷっ……わはは、そうですね、しました交尾」

「貴方ったら、もう。ふふ、うふふふふ」


   †


「ああ、あの……ありがとうございました、すみませんお約束もせず訪問して」

「とんでもない、クローゼ様、貴方にお会い出来て本当に良かった……どうか、私がここに居るという事、都の人々には内緒にしていただけませんか」

「ええ、もちろん」


 マーフィさんは僕を外まで見送りに来てくれた。彼が思った以上の好人物で良かった……女性問題に関してはどうかとは思うけど。


「マーフィさん、貴方の前の代の城代の人について何か知りませんか?」

「うーん、あいにく面識はありません、ですが噂では……あくまで噂ですが、彼も都でスキャンダルを起こしてこの地に来た挙句、若い獣人の女性と駆け落ちして居なくなったのだとか」


 城代を辞めたマーフィさんは、廃止された灯台に住み込み愛する人と自給自足の生活を送りながら、二人の子供を育てていた。僕はもう一度マーフィさんたちのおもてなしにお礼を言い、そこを離れた。


 獣人って純朴で健気な人が多いよね。そしてみんなスタイルがいい。イベリコさんは豚のような形の耳と鼻を除けば王様の側室になってもおかしくないくらいの美人だった。


 僕らはポポロンが引いてくれる荷車に乗ってルーダン城の方に向かっていた。太陽はもう西に寄っている……だけど時間はまだ午後二時くらいかな? 僕が空を見上げてそんな事を考えていると。


「イベリコさんの胸、とても大きかったですね。その事を思い出されているのでしょう、クローゼさま」


 シルレインがまたそんな事を言って僕をいじる。僕はその時本当にたまたまイベリコさんの大きな胸の事を思い出していたので、少し焦った。


「そうかもね。僕は赤ん坊の頃ほとんど母と一緒にいられなかったから、女性の胸には人一倍憧れがあるのかもしれない」


 僕のこの世界での母は平民の出の踊り子で、父の側室になったものの上手く行かず、僕を生んですぐ家出してしまったとか。だけど前世の記憶を持つ僕はそんな事もわりと他人事のように考えていた。

 そんな事を僕があっさり認めるとは思っていなかったのだろう、シルレインは口を半開きにしたまま黙り込んでしまった。ふふ。少しだけ気分がいい。


「領主さまはおっぱいが好きなの? どうしよう、あたしおっぱいちいさい」


 レーニャはそんな事を言って涙ぐむ。

 空が青いなあ。気温は高いけど、絶える事なくそよ風が吹き続けていて過ごしやすい。

 この土地に、都会人なら帰りたくなるような何かがあるというのは僕の考え違いだったのかもしれない。

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