第610話

 俺は例の恐竜の様子も見に行った。

一年前、ゴブじろうとゴブ美が暮らしていた森の住居はこいつに襲撃され、二人は命からがら洞窟まで逃げて来た。こいつは俺たちの最大の敵でもあったが、俺たちをファミリーにしてくれた存在でもあった。

 赤銅色の恐竜の肌には、その長い首から胴体にかけて、カテリーヌがが指差さなければわからなかったような、一筋の赤い傷が出来ていた。


「ご覧の通り、私の剣はいまだ未熟です」


 そんな事を言われても、俺には何の事かサッパリわからない。この細い傷はカテリーヌがやったの? それで何でこの恐竜が死ぬの?

 すると口を開く事も出来ない俺の代わりに、片目に眼帯をした夏侯惇みたいな見た目の豪傑が聞いた。


「だがカテリーヌ、俺にはお前の剣の何が未熟なのかも解らぬのだが」

「ラグナル。先生ならこんな傷も出来ないように斬るの」


 それを聞いた豪傑ラグナルは得心したかのようにうなずく。


「それ程の達人でありながら、この男の周りには気流の乱れ一つない……カテリーヌ、お主は常に遠くにいても解る程の剣気を発しておるが、この男には背後に立たれても気づかぬかもしれぬ」

「辛辣ねミームル。その通りよ」

「そんな剣聖の事をエルダリの女王であるこのわたくしが存じ上げなかっただなんて。大変な不覚ですわ」

「仕方ありませんミラナ様。私が先生の面識を得る事が出来たのは、途方もない僥倖によるものでした」


 魔術師っぽい髭の爺さんのミームル、いかにもハイエルフの若い女王という雰囲気のミラナ様……もちろん俺にはこいつらの言ってる事全てが1mmもわからない。確かに俺は影の薄い無名の人間だとは思うが。


   †


 洞窟の入り口近くの壁の前に敷かれた筵の上で、ゴブじろうは腕組みをして目をつぶっていた。カテリーヌはその前で片膝をつき、深々と頭を下げている。


「ビビバボ。ババベ」


 やがてゴブじろうはそう言ってうなずいて立ち上がり、洞窟の奥へと去って行く。カテリーヌは俺の方に振り返り、小声で尋ねて来る。


「先生! 族長は何と!?」

「あ、ああ……居てもいいと言ってる」


 ゴブじろうとこの美少女剣士にも因縁があるのだが、ゴブじろうはそれを許すようだ。


「良かったなカテリーヌ! 修行に励むのだぞ」

「後の事は心配いらぬ。我々で何とかしよう」

「貴女の成長を楽しみにしてるわ、カテリーヌ」


 カテリーヌのパーティと思われる三人は、そう言い残して沼地を去って行く。


「改めまして先生、弟子に取り立てて下さいまして誠にありがとうございます! これから修行の一環として、先生の身の回りのお世話から雑用、下働きまで何でもやらせていただきます。先生。本日より宜しく御願い致します!」


 最初からここに住み込むつもりだったカテリーヌは大きなリュックサックを森に置いて来ていた。彼女はまず荷物の上の方から菓子折りを取り出しゴブリン達に配りまくる。異世界にもあるのか、こういう習慣。


 洞窟には部屋が全部で5つあり、一番入り口に近い部屋はみんなの居間兼倉庫、そこから一つずつ別れた3部屋はそれぞれゴブじろう夫婦、ゴブのりゴブね兄妹、俺の私室、そして一番奥の部屋は採水とゴブじろうの酒造りの為の部屋となっている。


「俺は酒造部屋に移るから、お前はここを使え」

「先生! 私も先生の部屋で共に寝起きさせて下さい!」

「ええ……いや、それは」


 しかし俺が藁の寝床を動かそうとすると、カテリーヌもそれについて来てしまう。俺は結局元の部屋に戻り、カテリーヌの荷物もそこに置かれる事になった。

 ん? ゴブのすけの肩を抱いたゴブじろうが、俺の脇腹を肘でつつく。


「ボボボ、ババビビ」


 こども、かわいい? ばっ……ばっかやろう、そんなんじゃねえから!


   †


 困った。

 俺もストレートの男だし、こんな美少女につきまとわれたら嬉しいに決まっている。だけどこの子はとんでもない剣豪なのだ、力の差はアリとゾウ程もある、間違っても手なんか出せるわけがない。

 なのに何をどう勘違いしたのか、彼女は俺の事を剣の先生だと思っている。


 まあ一年前の彼女にだったら、教えられる事もあっただろう。実際俺は剣道四段。子供に教えられる程度には、剣道をやっている。

 だけどこの子がやってるのは異世界ヒーローのスーパー異能力バトルであり日本の剣道とは全く種類が違うものだ。今の彼女に俺が教えられる事? んなもんあるわけないだろ。

 人外のスーパーパワーを持っているなら剣術なんか要らん、ただ力で押しまくりゃいい、構えだの気勢だの残心だの必要ない。宮本武蔵だってそう言うだろう。


 はあ。


 この子の勘違いは、一年前の俺が調子に乗って説教めいた事を言ってしまった事に端を発しているのだろう。つまり悪いのは俺だ。俺が責任を取るべきなのだ。

 だからとっとと始めて、とっとと終わらせる。それが一番いいんじゃないかな……少しでも傷が浅いうちによ。


「じゃあその……修行とやらをやってみようか」

「は……はい先生! 宜しく御願い致します!」


 俺は洞窟から少し離れた所に作った道場へとカテリーヌを連れて行く。道場と言っても地面を少し慣らした場所に、打ち込み用の藁束などを立ててあるだけだ。


「これを使ってくれ」


 俺は雨除けの下に置いていた竹刀を一本渡し、もう一本を持って彼女から離れ、振り向いて構える。


「さあ……構えろ」


 俺は目を閉じる……もちろん相手に剣を向けながらそんな事をするのは普通なら有り得ないが、怖いものは怖い。俺もあの恐竜のように、彼女の剣気に斬られて死ぬのだろうか? しかし、なかなか終わりは来ない。


「……どうした?」


 俺は恐る恐る、薄目を開ける。


「先生……これは」


 カテリーヌは。目をまん丸に見開き、俺が渡した竹刀をつぶさに調べ、驚愕していた。


「竹刀がどうかしたのか」

「竹刀……竹刀というのですか、これは先生が発明されたのですか!? 軽量で軽快、打撃の衝撃を吸収して怪我を防ぎ、兵士に怪我をさせる事なく実戦的な訓練が出来る、重心のバランスも完璧です、壊れたら竹を一本ずつ換えて直すことも出来て……何と言う機能美でしょう、こんな物は初めて見ました!」


 俺はそんな事は少しも考えていなかったのだが、カテリーヌは本気で感激していた。俺が当たり前のように使っていた竹刀は、異世界の剣士にとっては見た事もない訓練用具だったのだ。

 剣道は一朝一夕に出来た物ではない。長い年月を掛けて研究改良され洗練され、伝えられて来た技術である。

 俺の心の中の悪魔がささやいた。そうだ! 俺が彼女に教えられる事、あるかもしれないぜ?


「あー……お前は子供に剣を教えた事はあるか? どうやって教えた?」

「は、はい先生、子供の前で剣を振ってみせました」

「その子供は、お前と同じように剣を振れるようになったか」

「いいえ……そうはなりませんでした」

「俺が最初に教えるのは、子供に剣を教える方法だ。俺の弟子になるならそこから始めてもらう。それが嫌なら今すぐ町に帰り、」

「とんでもありません、やります、やらせて下さい!」

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