第377話

 水道や水泳の件以外にも、村には細かい問題がいくつかあった。市場の建物が老朽化してるとか、村の荷車が壊れたままだとか。僕は毎日倉庫から道具や材料を持ち出し、設備を修繕して回る。一か月も経つと、細かい問題は片付いてしまった。


 村では水泳ブームが巻き起こり、子供も大人も海辺と親しむようになり、それはやがて魚取りブームへと発展して行った。

 豊かな漁業資源を持ちながら他所から魚を買い入れる一方だったルーダン城は一転、水産の村として名を上げて行く。

 近隣に出稼ぎに行っていた大人達も、少しずつ村に戻って来た。


   †


 僕は城の母屋の開けっ広げな広間に寝転がっていた。畳に似た敷物が敷かれたこの場所はまるで、琉球の古民家の居間のようである。


「また昼間からゴロゴロ横になられて。他にやる事はないのですかクローゼさま」

「あったら教えてよシルレイン。消えた守備兵を探しに行く? だけど近くの人里はだいたい回っちゃったでしょ」

「クローゼさまは13歳ですわ。普通に学問や武芸に励まれても宜しいのですよ」

「えー、なんて? 聞こえなーい」


 僕が耳に手を当てて聞き返すと、シルレインはただため息をつく。


「いやー城主の仕事は大変だよねー、どうりでみんな逃げ出すわけだよ、あはは」

「……そうですか。聞こえませんでしたか」


 シルレインはそう言って声を落としわずかにうつむく。僕は慌てて跳ね起きてきちんと座る。


「ちょっと待って、今のなし」


 しかしシルレインはメイドドレスのエプロンのポケットから銀色に輝く、長く太い針のような物を取り出す。僕は立ち上がり縁側を越えて庭先へ逃げ出そうとしたが、その前にシルレインにシャツの後ろ襟を捕まれてしまった。


「いいから、それはやめて、だめ」

「大人しくなさい、クローゼさま」


   †


「ああっ! あ……ああああっ……」

「情けない声を出さないで下さいクローゼさま。それでも男ですか」

「だって、ひっ……きっ、気持ちひぃ……だめ、よだれ垂れる……」


 強制的にシルレインの膝枕に寝かされた僕は、耳に銀色の耳かきを突っ込まれ身悶えしていた。シルレインの耳かきは恐ろしい、これをやられると気持ちが良過ぎて本当に全身に力が入らなくなるのだ。


「まあ大きい……こんなに溜めていたなんて、恥ずかしいですわねクローゼさま」


 シルレインは僕の耳から掘り出した耳垢を見て、耳元でささやく。


「や、やめて……そんなの見ないで……」


―― ふぅぅぅぅー。


「ひいいいっ!? 御願い、もういいから放して」


 耳に息を吹きかけられ悶絶しながらも、僕は何とかシルレインから離れようともがく。だけどまるで体がいう事を聞かない。


「まだ半分しか終わってませんわクローゼさま。今度はこちらを向いて下さい」

「待って、向こう向きになるから」

「面倒をおっしゃらないで下さい。こちらを向いて、じっとしてらして」

「ああだめっ、ああああっ……」


 そこへ。


「領主どの……今日の所は出直させていただいた方が良いだろうか」

「ポ、ポポロンさん! シルレイン、ちょっと放して」


 庭先からポポロンの声がするのを聞いた僕は、シルレインの膝から跳ね起きようとする。力が入らないので、結局シルレインに引き起こしてもらったが。

 ポポロンは庭に立ち尽くし、目を細めて僕を見ていた。


「お楽しみの途中ではなかったのか」

「耳を掃除してもらっていただけだよ、何でもないから! コホン……あの。何かわかりましたか」


 ポポロンは出稼ぎに出た村人の多くの行先を把握していて、その連絡網の扇の要を担っていた。


「魚を売りに行くついでに様々な者に聞いて回っていたら、先の城代ではないかと思われる人物が、古い灯台跡に潜伏しているのがわかった」


 先代の城主というと、三年前に居なくなった人か。


「そこには獣人も一人居るらしい。元々は近在の集落に住んでいた者のようだが、元城代とどういう関係なのかはわからない」

「その二人に会ってみたいです。ポポロンさん、僕をそこに案内してくれる人に心当たりはありませんか」

「水臭いぞ領主どの、俺が行くに決まってるじゃないか」

「ありがとうございます、では明日は朝から御願いします。そうと決まれば出掛ける準備を」


 僕はそう言って庭に出ようとしたが、すぐシルレインに腕を捕まれ、膝の上に引き倒されてしまった。


「旅支度は私が整えますわ。今は反対の耳をお出し下さい」

「いいからっ、それはもういいから!」

「邪魔したな領主どの。ごゆっくり」

「待ってポポロン助けて! あっ……ああっ……」


   †


 翌朝、約束の時間に僕とシルレインが集落へ降りて行くと、ポポロンは僕が修理した荷車を用意して待っていた。荷車の前には猫のレーニャも居て、天秤棒で運んで来た魚でいっぱいの魚籠を荷車に移している。


「普段は頼まれても手伝いなんかしない奴なんだがな……今日は領主どのが一緒だとどこかで聞きつけたらしく、朝からこの通り押し掛けて来た」

「領主さまぁ! あたしも行くの、領主さまのお仕事手伝うの!」


 ポポロンは困惑の表情を浮かべている。レーニャは真面目に働いているように見える。


「まあ、ポポロンの仕事も手伝ってくれるならいいんじゃない?」

「やったー! じゃあ領主さまとシルレインさんはここに座って!」


 レーニャは僕たちに、魚を積んだ荷車に座るよう勧める。

 ポポロンは牛馬ではないのだからそんな事をしたら悪い、僕はそうも思ったのだが、それを獣人相手に言っていいのかどうかがわからない。だから僕は黙って荷車の後ろに座らせてもらった。

 一方、シルレインは自分は主人と同じ乗り物には乗れないと言って断った。


 ポポロンは荷車を引いてすたすたと歩き出す。やっぱりパワフルだなあ、まるで力を入れているようには見えない……本気を出せば10馬力くらい出そうだ。

 道は引き締まった白い砂で出来ていて、明るい緑色の葉をつけた並木に囲まれている。海岸は近いのだが、海風は程よく木々に遮られ優しく吹いている。

 空は相変わらず抜けるように青い。日差しは朝から強烈だが、この道は空を覆う並木の枝葉に守られていて、とても過ごしやすい。


「ねえシルレイン、前の城代の人って何故ここから逃げ出したんだろう? 僕は今王都に帰って来いって言われても、あんまり帰りたくないんだけど」

「わたくしにはわかりかねますわ、クローゼさま」


 道はずっと平坦だったが、途中には川もあった。川と言っても水深は深くても数cm、広く浅く、大きな水たまりのように広がる川だ。僕は荷台から降りて車を押そうとするが。


「乗ったままでいいぞ領主どの、この地面は見た目よりは締まってるからな」


 荷車はまるで水面を走っているかのように、川を越えて行く。透明な水、穏やかな河口と遠くまで続くサンゴ礁の海、深く青い空……なんて素敵な景色だろう。ここはもしかして天国なのではありませんか?

 思わず荷台に寝転んでしまった僕の顔を、レーニャが覗き込んで来る。


「領主さま気持ち良さそう。領主さまはここが好き?」

「好きだよー。ずっとここに居たいねえ」

「じゃあここにずっと居て! ずっとここの領主さまで居て?」


 明るい色のふわふわとしたボブヘア、印象的な大きな瞳、人間の耳の代わりの大きな猫耳、レーニャはとても可愛い、そしていつも真っすぐに、あまりにも真っすぐに僕を見つめて来る。


「だけど帰って来いって言われたらどうしよう。帰りたくないなあ」


 僕らが来た頃のルーダン城は水不足と人手不足と古い掟のせいで、食糧事情はあまり良くなかった。

 しかし今は朝市に行けば新鮮な魚が豊富に並んでいるし、野菜や果物も容易に入手出来るようになった。豚肉だって食べられる。集落に豚や猪の獣人が居なかった事は幸いである。


「えーっ、いつまでも一緒に居てよォ、領主さまぁ」


 泣きそうな顔をするレーニャ。僕も今はここにずっと居たいと思っている。

 だけど現実には、多くの都の人間がここから逃げ出してるんだよなあ。ミストルティン家の前にここを領有していた貴族、父が派遣した二人の城代、城代が連れて来た守備兵。

 ここにはまだ、僕の知らない何かがあるのだ。


   †


 荷車は海岸を離れ平坦な道を進む。マングローブのような林、白い砂岩の道……途中にはいくつかの村や集落もあった。ポポロンはそこで魚を売り、野菜や果物を仕入れる。

 やがて、太陽が南中するくらいの頃に。ポポロンは荷車を止め、道を外れた藪の方を指差す。


「見えるか、領主どの。この藪の向こうの岬の先端に灯台が見えるだろう」

「灯台? どこ?」

「見え難いかな、俺の肩に乗ってくれ」


 ポポロンが肩車をしてくれると、それは僕の目にも見えた。生い茂る草木に覆われた小さな岬の先端の方に、石煉瓦で造られた小さな塔がある。あれが灯台跡か。

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