第233話
暑い夏が過ぎ、秋の風が吹いた。俺は土器の甕をたくさん焼き、中に森で集めて来たどんぐりを貯め込み、蓋をする。
ゴブのすけは、ゴブリンと人間のマルチリンガルに育っていた。
「ボボバビ、またドングリためてる、アハハ」
「大事な事なんだぞ。これから冬が来るんだからな」
「フユー?」
子供の成長は早いが、月日が過ぎるのも早い。朝晩はどんどん冷え込むようになり、ついにはちらちらと雪が降り出した。カエルや蛇は完全に姿を消したし、虫の声ももう聞こえない。
恐竜はあれから来ていない。懲りてしまったのだろうか。
ある晩には雷が鳴った。ゴロゴロと何度も鳴った。翌朝洞窟を出てみると、辺りは一面の銀世界と化していた。
その時の俺はとても焦った。この冬はいつまで続くのだろう? この雪はいつまで大地を覆うのか? その間、俺たちはドングリなどの保存食だけで持ちこたえられるのか? 日本に居た頃なら何でもなかっただろうその景色は、異世界に於いては終わりの始まりのようにさえ見えた。
幸いそれは根雪となる事もなく、数日後にはほとんど融けてなくなった。
ゴブリンたちは俺にとても感謝してくれていた。みんなこんなに快適な冬は初めてだというような事を言ってくれた。炭焼きの腕を磨いた俺は秋までの間にたくさんの木炭を作っていたのだ。各所には火鉢も置いてある。
それでも冬の生活は、他の季節と比べると様々な我慢と不便に満ちあふれていた。だから辺りが少しずつ暖かくなって来たのを感じた時には、本当に嬉しかった。
†
―― ポクッ! ポクッ! ポクッ! ポクッ!
小春日和のある昼下がり。それはやって来た。最初に見つけたのは俺だった。俺は物見台の吊り板を叩き、みんなに危険を知らせる。
森の淵から、奴が、あの恐竜が現れたのだ。夏に見た時よりかなり痩せている……もしかしたら冬眠明けなのかもしれない。おそらく奴は今、とても腹を空かせているだろう。
「みんな、洞窟に隠れろ!」
奴が現れたのは半年ぶりだった。こちらには何も準備はない。こういう時はただ隠れてやり過ごすよりない……ゴブねが、ゴブのりが駆け戻って来る……非番のゴブじろうは洞窟の奥で寝ているはずだ。ゴブ美ちゃんは? ああ戻って来た、だけど何か様子がおかしい。俺は物見台を降り、そちらに駆け寄る。
「どうした? ゴブ美ちゃん……ゴブのすけが居ないのか?」
人間で言えば小学校中学年くらいまで成長していたゴブのすけは、やんちゃ盛りだった。一方ゴブ美ちゃんのお腹にはゴブじろうとの次の子供が居るらしい。それで二人で一緒に採集作業に出掛けても、ゴブのすけは動きの鈍い母親を置いてどんどん先へ行ってしまうという。
「俺が行くから、ゴブ美ちゃんはゴブじろうを起こしておいてくれ!」
俺は何も持たずに飛び出す。恐竜はまだ遠くに居て、時間の余裕はあるはず……そう思ったのだが。
―― ギャ、オオ、エェエ……
彼方で恐竜が咆哮を上げる……奴も狩猟者だ、獲物を見つけもせず吼えたりしない、まさか、ゴブのすけはそんなに遠くまで行っているのか!? 冗談じゃない、間に合わない!
俺は一度近くの岩の上に登る、やっぱり恐竜はまだ遠い、だけど……ああっ、やっぱり、ゴブのすけのやつあんな所に居やがる、馬鹿、走れ! 逃げろよ! だめだ、恐竜に吼えられて腰を抜かしちまった……!
恐竜の鎌首がゴブのすけに迫る! 俺が。思わずその光景から目を背けてしまいそうになった、その時。
森の端から凄まじい速さで誰かが走って来る……それは人間の速さではなかった、鳥か? 獣か? だけどその姿は間違いなく人間、あれは、長い金髪ポニーテールをたなびかせた16、7の少女!? それも遠目にもはっきりとわかる程の大変な美少女だ!
少女は剣のような物を持っていた、だけどあれは剣じゃない、あれは木の棒だ、木刀だ。ウソだろ!? そんなもので何をするんだ、俺がそう思った瞬間。少女が手にした木刀が青白い光を放った!
少女は、跳んだ。人外の速さで、跳躍力で。そして口を開き猛り狂う恐竜目掛け舞い降り……
―― スパッ……
首をもたげた恐竜と少女が交差する瞬間、少女が手にした青白く輝く木刀が、恐るべき速さで閃く……
―― スタッ……ゆらり……ズシーン!!
そして少女が着地した直後。恐竜は魔法か何かで力を奪われたかのように。前のめりに、倒れた。
†
少女は見事な手つきで木刀をくるりと振り回すと、腰に戻した。そして尻もちをつき呆気にとられているゴブのすけの前に屈み優しく引き起こし、その尻についた泥をそっと払ってやっていた。
一方、少女が出て来た森の端の方からは、三人の人間が現れた。
俺より20cmは背が高い、鎧兜と巨大な槍で武装した、雄大な豪傑。
黒地に金色の刺繍のローブを着た、長い髭を持つ三角帽子の風格ある老人。
白いドレスに大きな飾りのついた銀色の杖を手にした、神秘的な若い女。
三人は少女が鮮やかに恐竜を仕留めた事にまるで驚いた様子もなく、互いに顔を見合わせ談笑していた。
一方俺はヘビとゴリラとターミネーターとラオウに睨まれたカエルのように脂汗を流し、一歩も動けなくなっていた。
間違いない。あれは俺が関節技をかけていじめ、大事な剣を取り上げて追い払った美少女剣士だ……あの子、仲間を連れて復讐に来たのか!?
どどど、どうしよう、逃げなきゃ、いやごまかそう、俺はここに居ない事にして……って、ゴブのすけの奴あの美少女剣士と何か話してるじゃねーか、あれ絶対俺の事聞かれてるだろ!?
あれから一年。俺はこの沼地の小さなダンジョンでだらだらと暮らして来た。ゴブじろうが作ってくれる酒を飲み、歌って踊って……その間あの子はどんな修行をして来たのだろう。
そして今日はあの子にも仲間が居る。はっきり言って三人ともめちゃくちゃ強そうだ、繰り返しになるが彼女の仲間は彼女が一太刀で恐竜を仕留めた事に少しも驚いていない。
俺は。岩の上で棒立ちになっていた。
そんな俺の姿を見つけたゴブのすけが、俺を指差した。
金髪ポニーテールの美少女剣士が……俺を見た……!
俺はそれでも動けなかった。理性は早く逃げろと、洞窟ではなく沼の反対側の森の中まで走って逃げろ、ここから消え失せろと命じているのだが、体は全く動かない。そもそも、恐竜より速く走れる彼女からどうしたら逃げられるというのか。
美少女剣士はゴブのすけの頭を優しく撫でると、おそらく歴戦の強者である仲間たちに何かを告げ……一人でこちらに歩いて来る。
俺は、目を閉じる。
ふっ……異世界転移かあ。面白い経験だったな。よく考えてみれば、俺はあの地下鉄の事故で一度死んでいるのだ、きっと。ここまで生きて来られたのはそれだけで奇跡じゃないか。
良かった。俺は幸せだ。よし、この幸せのまま終わろう。うん。それでどうする? 切腹でもしようか? だけど石包丁で腹なんか切れるだろうか。
俺がそんな事を考えている間に。彼女は俺が立っている岩の目の前まで歩いて来てしまった。
彼女は真っすぐに俺の目を見て、片膝をつき、口を開いた。
「お久しぶりです、一年前貴方に挑み完敗した剣士、カテリーヌ・デュ・ブレイドと申します。先生。私を御記憶でしょうか」
……え?
カテリーヌは片膝をついたまま腰に差していた木刀を抜き、俺に捧げるかのように、そっと手前に置いた。
「先生より拝領した刀を手に、私はこの一年、艱難辛苦を乗り越えて参りました。勿論、先生が行われた修行と比べれば児戯のようなものとは思います、ですが! 私は先生の教えを守り、あらゆるものを己が目で、己が心で見極めて参りました!」
え……えええ……
「誰に何と命じられようと、その為にどんな困難を背負う事になろうと、私は自分が斬らぬと決めたものは斬りませんでした。そして、自分が斬ると決めたものに対しては、一点の迷いもなく! 先生より授かりました剣を、その心を、向けて来たつもりです!」
えー。えー。あー。うー。
「先生に出会うまでの私は、慢心の塊でありました。私の剣心は誠に弱い、迷いと疑いだらけのものでした。先生は……グスッ、そんな私を強く、優しく、あふれる程の愛で包み、導いて下さいましたッ……! グスッ……」
恐怖と戸惑いで訳がわからなくなった俺は、意味もなく腕組みをして背中を向けたまま、彼女の話を聞いていた。どこにどう感極まったのかは解らないが、カテリーヌは少しの間、話を中断し鼻を鳴らして泣いていた。
しかし好奇心に負けた俺が横目でチラ見してしまった瞬間、彼女は顔を上げ、興奮した様子で熱弁を振るいだす。
「先生! 私は今、八魔王のうち二王を討伐し、二王と和解して参りました。人々は私を勇者と呼び称賛してくれます、しかし私は悔しいのです、私にこの力を授けて下さった真の勇者である先生の事を、人々は誰も知りません! 先生、どうか御願い致します、私と共にこの草庵を降り、天下万民の為に働いてはいただけませんか? 私は先生の力を全土に知らしめたいのです、私は先生に、この心、この体、全てを捧げ御奉仕致します!」
静寂が、流れる。
いや、その……確かに俺には未練がある、出来れば人間社会にも復帰したい、人間の友達や恋人が欲しいし、人間の家族だって持ってみたい。
だけどカテリーヌが言ってる事はヤバいだろ。俺は本当に、日本でほんの少し剣道をやっていただけの、ただのオッサンだぞ。そんな俺が彼女について行ったら、どうなっちまうんだ?
「……勘弁してくれ。俺はお前が思うような人間ではないし、ここに居る事は性に合っているんだ」
俺はカテリーヌに背中を向けなおし、どうにかそう告げた。
そんなのさあ。最初は人々に持て囃されるかもしれないけど、そんな化けの皮すぐに剥がれるに決まってるじゃん、嫌だよそんなの、そんな気まずい思いはしたくねえよ。
俺がこの異世界で社会復帰するなら、世界の片隅でこっそりと入り込みたい。ごく普通の器用貧乏なおっさんとして、普通の嫁さんをもらって、炭焼きとか陶芸とかを仕事にして、静かに暮らしたい。
「とにかく、お前の剣は今返す、奪い取って済まなかった」
「お待ちください。正直、先生はきっとそうおっしゃるのではないかと思っておりました」
俺は思わず微かに振り向いてしまった。カテリーヌはあまりにもまっすぐな、真剣な瞳で俺の横顔を見つめていた。俺は慌てて視線を逸らす。
「魔王達がこのまま大人しく引き下がる事はありません、私は世の為人の為……いえ、己の剣の心為、今よりも強くならなくてはなりません。先生。どうか御願い致します! 私を正式な先生の弟子にして下さい」
えっ。
えええええー……?
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