第55話

 水道から噴き出す水は集落を巡り、真っ白な砂浜の広がる海岸へと流れ、海に注ぎ込む。

 この海岸はサンゴ礁のようなもので守られているらしい。サンゴ礁の手前には波も小さく穏やかな透き通った遠浅のエメラルドグリーンの海が、その外には深く青くさざ波立つ外洋が広がっている。

 砂浜の砂はとてもきめ細かく、優しく足を包む……何だかな。女の子たちは水道の池でおおはしゃぎしてたけど、こっちの方がずっと広くて気持ちがいいのでは?


「他にする事はないのですかクローゼさま。これでは隠居の老人のようですわ」


 シルレインは浜辺を散歩する僕に、大きな日傘を差しかけたままついて来る。そんなのいらないって言ってるのに。


「シルレイン、どうして獣人たちは海には近づかないんだろう。水遊びが嫌いなわけでもなさそうなのに」

「それは皆、貴方のような暇人ではありませんから」

「見て。トビウオの群れが飛んでる」


 僕はそれを指差す。穏やかな海面から細く長い魚の群れが飛び出し、大きなひれで羽ばたきながら水面近くを100mばかりも飛んで行く。


「魚だってこんなに居るのに、どうして誰も漁をしないんだろう」


   †


 集落のはずれには、大きな湾のようになった川の河口が広がっている。ふと見れば、遠く湾奥の川の入り口の辺りに背の高い人影が見える……あれは獣人の漁師だろうか? 網を投げているように見える。僕はシルレインに向かってうなずき、そちらの方へと歩き出す。


 それはやはり漁師らしい。そしてこの集落では珍しい、老人ではない大人の男の獣人だった。年頃は20歳前後という所か。マズルが長く、顔にも薄い毛の生えた、犬の、いや灰色狼の獣人のようだ。身長は2mくらいあり、肩幅は広くがっちりしていて、目つきは鋭く、いかにも強そうだ。

 狼の獣人は、僕が近づいて来るのを横目で見ていた。


「……お前が、皆が言っていた新しく来た領主か」

「クローゼといいます。初めまして」

「フン……」


 狼は名前を教えてくれなかった。そして僕に構う事なく、静かな水面に向かい投網を打つ。

 これはなかなかの達人なのではないだろうか……網は綺麗に広がって飛ぶ。僕はちょっとだけ、先日退治した巨大グモの顔を思い出した。


「どうせお前も、三か月もしたら居なくなるのだろう」

「えっ……? あの、なんでしょう」


 狼は何かつぶやいた。よく聞こえなかった僕は小さく聞き返した。しかし彼はそれには答えず、静かに手綱を引き始めた。

 こういうのって、素人が見てたらやりにくいんだろうなあ。申し訳ないけど、僕は興味があったので彼が網を引ききるまで見ていた。どうやら、魚は入らなかったようだ。


「あの……僕は素人なんですけど……向こうの浜では網を投げてはいけないんですか? さっき、トビウオの群れが飛ぶのを見たんですけど」

「あんなのは投網では取れん。近づけば逃げるだけだ」


 僕はあまり返事を期待せずに聞いたのだが、彼はすぐに答えてくれた。調子に乗った僕は次々と質問をする。


「ここには他に漁をされてる人は居ないんですか? 船で漁に出てる人とか」

「村に男手が少ないのは見ただろう。皆出稼ぎに行ってしまうからな」

「貴方は行かないのですか?」

「城代も守備兵も皆逃げてしまった。何かあった時に誰が村を守る」


 彼はその質問に答えると、まっすぐに僕の方に向き直り、逆に尋ねて来た。


「ミストルティン家が派遣したのは、領主のお前だけだというのは本当か」

「……すみません。だけど守備兵はきっと呼び戻しますから」

「戻って来る当てがあるのか? みんな給料が貰えないから去って行ったんだ」


 僕は黙り込むしかなかった。狼の彼は……川の方を向いてしまった。


「……お前も、何か訳があってここに来た人間のようだな」


 彼は見た目よりずっと優しい人なのだと、僕は思った。この人とは仲良くなっておいた方が良いような気がする。

 男女差別をするつもりはないけれど、彼は集落の数少ない男手で、集落の人々の事を真剣に考えている人なのだ。


―― ボチャッ、ボチャチャ、ボチャッ


 少し遠くの水面で、大きな魚が二度、三度と跳ねた。あの辺りに小魚の群れが居て、それを襲って食べているのだろうか。


「今魚が跳ねた辺りは、水深が深いんですか?」

「見ればわかるだろう、海は深く危険なものだ、お前もむやみに近づくな」


 なんだろう。この人、網の投げ方は達人なのに投げる場所が素人過ぎる気がしてならない。

 僕は靴を、そしてシャツとズボンを脱ぎステテコ一丁になって海に入り、狼の彼に近づいて行く。


「よせ、何をする気だ? そこの女! お前は領主の付き人ではないのか、何故止めない!」

「やっぱりこの辺りは浅過ぎますよ、もう少し前に出た方が」

「やめろ! 引っ張るな、やめてくれぇ!」

「あの……? もしかして貴方、水が苦手なんですか?」


   †


 自分は決して水が苦手な訳ではないと、狼の彼は言う。


 遠い昔。祭りの時に砂浜でふざけていた村の獣人たちが、突然やって来た見た事もない大きな波に飲まれ、大勢溺死するという事件が起きた。

 残された者達は大いに悲しみ、亡くなった仲間の為にせめてと思い「獣人は決して膝より深い水に入ってはいけない」という掟を作った。掟は代々の村の獣人に大事に守られ、現代まで続いている。

 そういえば水道の前でも水深30cmの池にはみんな喜んで入るのに、水深50cmの池、80cmの池には誰も入っていなかった。


 本人に言わせれば、村で唯一の漁師をしている彼は村で一番水を恐れない勇者なのだそうだ。他の村人は誰も、海に足を突っ込む事さえ出来ないのだから。

 海は石畳のプールとは違う。突然深くなっているかもしれないし、突然大波が来るかもしれない、恐ろしい場所なのだ。


「なるほど……わかりました、貴方は村一番の勇者なのですね、そんな貴方に御願いがあります! 貴方のその勇気を、みんなの為に貸してはいただけませんか?」

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