第1部ー5

 この日、仕事が終わったのは、午後十時を少し過ぎた頃だった。フロアに残っていたのは、隣の島の、第二営業課の男性社員が三人と、唯香と宇野沢だけだった。業務が終わったことを宇野沢に報告し、PCの勤怠管理に退勤時刻を入力し、承認依頼ボタンを押した。挨拶もそこそこに足早にフロアを出て、丁度降りてきたエレベーターに飛び乗った。社員通用口を出ると、亜熱帯地方のような、むわっとした湿気を帯びた空気が唯香にベタベタと纏わりついた。雨水を吸収した街路樹から夏の匂いがした。


 水天宮前すいてんぐうまえ駅に辿り着くと、丁度、銀色の車体に紫色のラインが入った南栗橋行きの電車がプラットフォームへと吸い込まれるようにして到着した。この時間になると乗客も疎らだ。唯香は、七人掛けの座席のいちばん端の席に腰掛けた。空気圧でドアが閉まると缶酎ハイの蓋を開ける時みたいな音が車内に充満した。金曜日の夜ということもあって、アルコールの匂いを漂わせている人も少なくない。皆、一様に疲れた顔をしているが、その表情には、一週間仕事をやり遂げた達成感や解放感のようなものが薄っすらと見受けられた。唯香は、喫煙所での岡崎さんとのやり取りを思い出し、思わず、頬がゆるんだ。


 最寄り駅に到着する頃には、二十三時を過ぎていた。コンビニに立ち寄り、ナポリタンとサラダと檸檬の缶酎ハイを買った。すっかり眠りに就いた錆びれた商店街のアーケードを潜り抜けると、大通りに出る。大通り沿いを東に向かって三百メートルほどの所に唯香が暮らす鉄筋コンクリート造りの五階建てのマンションがあった。唯香は何かを思い出したかのように、ふっと立ち止まりマンションを見上げた。三階の一番奥の部屋のパステルブルーのカーテンからオレンジ色の灯りが漏れていた。


(アイツ……来てるのか……)

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