第34話 遠い日の思い出
王妃教育の授業が終わった時間を見計らってミゼンが部屋へと訪れると、庭園に散歩に行かないかとヒナを誘った。
ヒナは、いつもはハンナを誘うのに、今日はどうして自分なのかとミゼンに問いかけたが、蒼壱が「庭園は薔薇が見事だから、ミゼンに案内してもらうといいよ」と勧めた為、ヒナは少し不服そうにしたものの、ミゼンの誘いに応じる事にした。
——この調子ならミゼンルートにはならないだろうし、ミゼンには華が世話になったみたいだから少し恩を売ってやろう。俺も一人の時間が欲しいし。
ヒナとミゼンを見送りながら蒼壱はそう考えて、一人図書室に残ると、ぐっと伸びをした。
降り注ぐ日差しが大きな窓から射し込み、木製のテーブルを照らしている。講師が置いて行った教本のページをパラパラと
ノックもせずに華は室内へと駆け込んで来ると、蒼壱の前のテーブルに身を乗り出す勢いで手をついた。
「大変なの、蒼壱! お爺ちゃんから聞いたんだけど!」
「……お爺ちゃん?」
怪訝な表情を浮かべた蒼壱に、華はこくこくと頷いて見せた。
「剣術の師匠の、モーリッツさん!」
蒼壱の脳裏に『では、稽古を始めよう』と、言いながらゲーム画面に現れる、白髪頭の男の姿が思い浮かび、「ああ」と、声を出した。攻略対象の名声ポイントを上げる為に、剣の稽古をさせるというミニゲームに登場するキャラクターだ。
「モーリッツが剣術の師匠なのか。稽古は厳しいの?」
「そんなことないけど……それより、剣技大会の控室って個室じゃないんだって!!」
——そりゃあ、そうだろう。
と、蒼壱は考えて瞳をぱちくりとさせた。
「どうしよう!! 私、汗臭いのに耐えられないかも!? それに男の人に目の前で着替えられたら嫌なんだけどっ!!」
「……華?」
「最悪っ! 男の人とつきあったことも無いのにっ! 流石にパンツは脱がないよね!? ね!?」
「いや、ちょっと待って。控室の使用は強制じゃないだろう? ヨハンやフォルカーだって他の出場者達と一緒の控室は使わないだろうし、アオイ・ランセルは公爵家の人間なんだから、多少の優遇はあるに決まってるじゃないか」
蒼壱の冷静な意見に、華はすんなりと「あ、そっか」と言うと、「ああ、焦ったぁ~」と、言いながらテーブルの上に突っ伏した。
「女性騎士だっているだろうし、その辺りは配慮してると思うけれど。問題はどうしてモーリッツがわざわざ華にそんな事を言ったかじゃないかな?」
「お爺ちゃんは多分、私が女性だって気づいてると思う。ヨハンとの剣の打ち合いはさせないもの」
蒼壱は頷くと、テーブルの上を人差し指でトントンと叩きながら考え込んだ。
——モーリッツは華に何か警告したくて言ったはずだ。でも、一体何だろうか。
「あ!」
蒼壱が声を上げて、華は驚いてビクリと肩を動かした。
「受賞式だよ! もしも華が優勝して受賞式に出るとしたら、あの服を着させられるんだ!」
「あの服……?」
と、華がポツリと言って、剣技大会の受賞式での、攻略対象者の姿を思い浮かべた。それは乙女ゲームさながらのサービスショットの如く、攻略対象の服装は持ち前の肉体美を見せつける様に、胸を広く開けた羽織姿だった。
いくらなんでもやり過ぎだと、華が爆笑した記憶が蘇る。
「あー……あれは私、着れないや……」
「いくら発育途中とはいえ無理だよね」
ポコン! と、華は蒼壱の頭を殴りつけると、「悪かったね!! 発育途中で!」と頬を膨らませた。
「ててて。まあ、モーリッツの忠告には感謝だね。受賞式で上手く入れ替われる様に、準備ができるってわけだもの」
「なんとかできる? 控室の問題もあるし……」
心配そうな華に、蒼壱は「勿論」と頷いて見せた。
「華が皆の前で着替えをするのは難しいだろうけれど、男の俺が着替えをするのは別に苦労しないからね。当日悪役令嬢ハンナは着替えやすい服装にしていればいいってわけさ」
「着替えやすい服装?」
蒼壱は頷くと、ニコリと微笑んだ。
「つまり、ハンナが男装すればいいんだよ。剣技大会なんだから、何も着飾る必要なんか無い。ヨハンやアオイに合わせて、自分も参戦するかの如く激励のつもりで、騎士の服装で応援するって事にしちゃえばいいんだ。それなら入れ替わるのも楽だろう?」
「……蒼壱、あったまいい!」
「見直した?」
こくこくと頷く華に、蒼壱は得意げに笑った。すると、華がハッとしたように辺りをキョロキョロと見回して、「そういえば、ヒナは?」と、小首を傾げた。
「ヒナなら、ミゼンと一緒に庭園に散歩に行ったけど」
「え!?」
素っ頓狂な声を上げた華に、蒼壱は「仕方ないよ」と肩を竦めてみせた。
「俺にそれを止める権利なんか無いからね。それに、ミゼンルートにはそうそうならないだろうから、警戒する必要も無いと思って」
「そうかもしれないけど、でも……」
華は難しい顔をして俯いた。蒼壱はそんな華を見つめて、「どうかした?」と、眉を片方下げながら聞いた。
「どうしてミゼンはハンナじゃなく、今度はヒナを誘う事にしたのかな?」
「そんなの、王后の指示に決まってるよ。ミゼン自身は王位を継承するつもりが無いんでしょ? だとしたら、今までハンナをわざわざ誘っていたのも、今回ヒナを誘う事にしたのも、王后の指示だったんだろうね。俺を脅したのは、恐らく俺がすんなりそれに応じないと分かっての苦肉の策だったんだろうし」
華は蒼壱を尊敬の眼差しで見つめた。
「流石蒼壱! 学年トップの成績は健在だね!」
「……学校の成績なんか、関係ある?」
「ねえ、ちょっとのぞき見しに行かない?」
華の提案に、蒼壱は「はあ!?」と、声を上げた。
「ミゼンとヒナがどんなデートしてるのか、気になるじゃない!」
「俺、そんなの見たく無いんだけど……」
ヤキモチを妬かないといえば嘘になるし。と、蒼壱は敬遠したが、華は強引に蒼壱の手を取った。
「蒼壱だって気になるでしょ!?」
「ならなくはないけどさ! でも、そういうのは良くないよ、華!」
「行こうよー! 私一人だったら見つかったら違和感おおありだけど、二人だったらまだ散歩に来たのか程度で済むしさ!」
「済まないと思うけど。俺は二人が庭園に向かったのを知ってるわけだし……」
もし見つかったのなら、完全にヒナにヤキモチを妬いて見に行ったのだとミゼンにバレる事だろう。ミゼンは恐らく蒼壱の気持ちを確かめる意味もあって、わざと蒼壱の前でヒナを誘った様に思えたからだ。
——それに、もしもミゼンが華に気があったとしたら……。
そう考えて、蒼壱は唇を噛みしめた。
恐らく、ミゼンはそんな姿を華には見られたくないはずだ。王后の言いなりになって、自分の意にそぐわない相手とデートをする姿なんか、誰だって見られたくはない。
ヨハンの生誕祭で華と踊るミゼンの眼差しは、明らかに好意を寄せている様に思えた。
「華、止めようよ。二人に悪いもの」
「えー!?」
華はあからさまに残念そうに声を上げた後、渋々蒼壱の手を放した。蒼壱がホッとしたのも束の間、華は「でも」と、蒼壱を見つめた。
「でも蒼壱。もういい時間だよ。ヒナを迎えに行かないと、私達だって邸宅に帰れなくない?」
——しまった……ヒナはランセル家に身を置いているんじゃないか!
「じゃあ、私、迎えに行って来るよ! 蒼壱はここで待ってて」
「ちょっと待った!」
蒼壱は慌てて立ち上がると、華の手を掴んだ。
「分かった、俺も行く」
「そう来なくっちゃ!」
華を一人で行かせたら、きっと暴走するに決まっていると、蒼壱は思ったのだ。自分がアオイの恰好をしている事も忘れ、『熱いねお二人さん、ヒューヒュー!』なんて親父くさい事を言って冷やかした日には、目も当てられない。
二人揃って図書室から出て庭園へと続く廊下を歩く途中、すれ違う使用人達の目を気にし、蒼壱は中腰で歩き、華はいつもより背筋をピンと立て、身長差を誤魔化そうと気を使った。つま先立ちまでしようとする華を、「そこまでしなくていいって!」と、蒼壱が叱り、華はチロリと舌を出して悪戯っぽく笑った。
庭園に着くなり、華はサッと木立の影に隠れて、そっと辺りを見回した。不審者極まりないその様子に、蒼壱はため息をついたが、華に「蒼壱もちゃんと隠れて!」と、強引に促されて、渋々従った。
手入れの行き届いた庭園は美しく、青々とした緑と咲き乱れる花々で、清々しい気持ちになり、二人はついすぅっと深呼吸をした。
子供の頃、母に連れられて見学に行った薔薇園を思い出す。大きな池にはスワンボートに乗ったカップルや家族連れが居て、池の側を散策中に、華がカルガモの巣を発見した。
すかさず持っていた鯉の餌を投げつける華に、母は「そんな風に乱暴にしちゃダメだよ」と優しく言って、餌をその場に少し撒いて距離を置いた。
人間の姿が離れた期を狙って、カルガモ達が餌を啄む様子を、華と蒼壱の二人は瞳を輝かせて見つめたものだ。
王宮の庭園には池は無かったが、代わりに大きな噴水があった。ミゼンとヒナが噴水の縁に腰かけて何やら会話をしている様子が見えたので、華と蒼壱はそっと近づいた。
「お二方、のぞき見は感心しませんね」
一瞬のうちにミゼンに見つかって、華は苦笑いを浮かべ、蒼壱は気まずそうに目を逸らした。
「あ、アオイ様!?」
カッと顔を赤らめ、慌てて立ち上がろうとしたヒナがバランスを崩した。華と蒼壱が手を伸ばし、ヒナを助けようとするよりも早く、ミゼンがヒナを支えて助けた。
「あ……わ!? わ!?」
華が勢いを止める事ができず、そのまま一人で噴水にダイブし、盛大な水しぶきを上げ、その場に居た全員に水をかけた。
「あちゃ……ごめん!」
大惨事となった様子に華が申し訳なさそうに眉を下げると、ミゼンは愛嬌のある笑みを向けながら華に手を差し伸べた。
「全く、皆ずぶぬれですよ」
華はミゼンの手を取りながら、その表情を見つめた。どこか悲し気に、寂しげにすら見えるミゼンは、必死に笑顔を作っている様に見えた。
——ミゼン。ホントは、王后の言いなりになんかなりたくないんだよね? ヨハンと、子供の頃は仲が良かったって言ってたもの。きっと二人で無邪気に遊んでた頃もあったんだよね?
華はわざとミゼンの手をぐっと引いた。ミゼンが意表を突かれ、噴水の中へと水しぶきを上げて落ちたので、蒼壱とヒナがそれを浴びて悲鳴を上げた。
「何をするんです!?」
そう言って怒りながら華を見たミゼンは、「ゴメン」と、悪戯っぽく舌を出した華の表情を見て絶句した。
——ああ、兄上と二人。仲が良かった頃、兄上にも悪戯でわざと噴水に落とされた事があった。あの時も、華の様に兄上は悪戯っぽく笑って僕に謝って、自らも噴水の中に入って二人で遊んだ。教育係にこっぴどく叱られたが、最高に楽しかった……。
「……全く、貴方という人は」
ミゼンはいつもの愛嬌のある笑みではなく、子供の様な無邪気な笑みを華に向けた。
蒼壱とヒナも顔を見合わせて、「ずぶぬれだ」と、笑い合い、庭園に四人の笑い声が響いた。
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