第20話 ライバル

 高い天井まで続く大きな窓から光が差し込み、木製のテーブルを照らしている。


 テーブルの上に置かれた白い教本が光を反射し、眩しくて瞳を細めた。蒼壱がページを捲ろうと手を伸ばすと、コツンと細く白い指に当たり、思わず手をひっこめた。


「あ、ごめんなさい、ハンナ様」


 艶やかな黒髪に吸い込まれそうな程に大きな瞳の少女が微笑んだ。


——可愛すぎて死ぬっ!!

 と、蒼壱はバクバクと鼓動する胸を押えながら、思わずヒナから目を逸らした。


「教本が一冊しかなくてすみません。二人同時に教える事になるとは思わなかったので、準備が出来るまで我慢してくださいね」


 王妃教育の教師である女性が申し訳なさそうに声を放った。


 華に治癒魔法を施したヒナの噂がたちまちに広がってしまった為、ヒナの存在を隠し通すことは不可能となった。異世界から来たヒナはこの世界の事についての知識が全くといって無い為、それならば都合がいいからと、ハンナの王妃教育に同席し、共に学ぶこととなったのだ。

 確かに、ゲームでもそういう設定だったけれど……と、蒼壱はチラリとヒナの横顔を見た。


——どうみても可愛すぎる!!


 ヒナが蒼壱の視線に気づいてニコリと微笑もうとしたので、蒼壱は慌ててパッと顔を背けた。


——ヤバイってば! 緊張し過ぎてもう勉強どころじゃないっ!


 ヒナはというと、蒼壱のそんな様子を見て自分が嫌われていると思い込んでいた。それもそのはず、ヒナが話しかけても蒼壱は緊張のあまりつっけんどんな態度をとるし、せいぜい一言二言返すだけで会話が続かないのだから。

 おまけに目が合うとすぐに顔を背けられてしまうのであれば、誰もが嫌われていると思うことだろう。

 ハンナが実は男性でヒナに惚れているとは想像だにしない程、蒼壱の女装が完璧だったとも言えるわけだが。


 木製のテーブルに蒼壱とヒナの二人が並んで座っているというのに、蒼壱は気まずそうに顔を背け、ヒナは申し訳なさそうに俯いているという絵面が、ここのところの王妃教育の様子だった。


 二人のその様子には教師側も少々困っていた。それというのも、ヒルキア王国の王族は、妃を何人めとろうとも制約がない。この先もしも二人がヨハンの妻になると想定した場合、後継者争いの火種になりかねないという懸念がある。それならば、どちらかがミゼンの妻になるのが良いだろうと、まつりごとの場でも話題に上がるのは仕方の無いことだった。


 ヒナについては神聖力を持っている事から、ヨハンの妻にはハンナではなくヒナをという声が上がるのもまた仕方の無いことで、ヨハンがヒナを暫くの間かくまっていたという経緯もあり、ヨハンの気持ちもハンナよりヒナに向いているだろうと噂されていたし、ヨハン本人も特段否定する行為もせず沈黙を守っていた。


 そして、正に最悪のタイミングで現在進行中のミゼンによる略奪愛だ。ハンナとミゼンが二人で行動を共にしている様子を目にした者は決して少なくは無い。


 蒼壱は全てを察した上で、それでも抗いようのないもどかしさに苛立ちを隠せなかった。華に迷惑をかけている自分に忸怩じくじし、王妃教育だけでもヒナに負けることなくやり遂げなければと思いながらも、ヒナへの気持ちがそうさせてはくれないのだ。


「あまり集中できないようですね」


 教師がため息交じりにそう言うと、持っていた資料を下ろした。


「それでは、今日はダンスの練習へと切り替えましょう。淑女のたしなみとして基本中の基本です。ハンナ嬢は私から教えるまでもなく、既に完璧な社交界デビューを果たされておりますが」


 どうやら運動を通じて二人の仲を深めさせようという魂胆のようだ。

 教師に促されてダンスホールへと移動すると、途中王宮の廊下では使用人達の奇異の目に晒される羽目になった。とはいえ、流石は王宮に仕える使用人達だ。当人たちの前で陰口を叩く様な失礼な者達はおらず、前を通過する時は愛想よく会釈をした。


「さて、それではまず基本姿勢を。ヒナ様、背筋は美しく伸ばしましょう。ハンナ様は……素晴らしいですね」


 女性教師がトントンと杖で床を叩きつけながら言う様を見つめながら、ああ、このくだり。ゲームでもあったなぁ……と、蒼壱はまるで他人事の様に考えた。


 ヒロインは王妃教育が開始された当初、悪役令嬢ハンナに何一つ敵わなかった。元々ハンナは公爵家のご令嬢なのだから、いくら我儘放題だったとはいえ、宰相の娘としての教育を受けていた。現代の日本から異世界転移してきた女子高生に比べると差があるのは当然のことだろう。

 そんな事情も知らない教師としては、ヒナがあまりにもダンスの基本を知らない為、段々と呆れてしまうのは無理もない。


「……ヒナ様は居残りですね。基本のステップくらいは最低限マスターしてくださいませ。ハンナ嬢は、本日の授業は終了ですから、お帰り頂いて結構です」


 ヒナは落ち込んでいるのか俯いたまま小さく返事をした。蒼壱はその様子にズキリと心が痛み、咄嗟に「私が残ってヒナ様の練習を見ます」と提案した。


「え? そんな、ハンナ様を巻き込むわけには……!」

「良いご提案かと存じます」


 戸惑うヒナの言葉を遮って教師はピシャリと言って頷いた。二人の仲が良くなるに越した事は無いのでそう言うのも当然だろう。微笑みながら「それでは宜しく頼みます」と、二人を残し、さっさとダンスフロアから出て行ってしまった。


——咄嗟だったとはいえ、何て事を言っちゃったんだ俺はっ!!

 蒼壱は自分の発言を激しく後悔した。


「ごめんなさいハンナ様。私が下手なばっかりに……」


 ヒナは思いのほか酷く落ち込んでいる様子だった。蒼壱はハッとして頬を掻いた後、小さくため息を吐いた。


「いいえ。気にする事はありません。ヒナ様はこの世界に来て日が浅いのですから」

「……私、どうしてこんなことさせられてるんだろう」

「え?」

「好きでこんなところに来たわけじゃないのに。国の歴史の勉強だとか、ダンスだとか、そんなことするより家に帰りたいわ!」


 ポロポロと涙を零しながら、ヒナはその場にしゃがみ込んでしまった。


 ヒナの言う事は尤もだと、蒼壱は思った。ゲームの世界に入ってしまったのだと認識している蒼壱と華とは違い、ヒナは自分の置かれている状況も立場も全く分からないのだ。不安で泣き出したくなるのも当然だ。


「ヨハン様が私をかくまってくれてたのはその為だったんだわ! こうなることが分かってたからっ!」


 しくしくと泣きながら肩を震わせるヒナの側に赴いて、蒼壱はヒナの肩にそっと触れた。


「大丈夫。心配しないで。ヒナ様は皆に好かれますから。今は孤独に苛まれて不安だらけだと思いますが、誰もヒナ様を傷つけようだなんて思っていません。私も貴方の味方です」


 ヒナにハンカチを差し出すと、蒼壱はニコリと微笑んだ。


 蒼壱は元々人の気持ちに寄り添って行動する優しい性分だった。天真爛漫な華を陰ながら支え、華が落ち込んでいると元気づけるのは蒼壱の役目だ。


「……それと、ずっとお礼を言いたかったのです。弟のアオイの傷を癒して頂き有難うございます」


——華。怪我をしたって聞いて、ホントはすぐにでも駆けつけたかった。


 蒼壱はヒナに深々と頭を下げた。


 華は、額に傷が残ってしまった事が余りにもショックだった様で、あれ以来蒼壱と顔を合わせることを避けていた。もしかしたら傷も無く女性らしく着飾っている自分と瓜二つの姿を目にしたくないのかもしれない。


 華を慰めようにも掛ける言葉が見つからないのは事実だし、不甲斐ない自分をさらけ出して余計に華を傷つける気がして、蒼壱も無理に華に近づく事をしなかった。


「ごめんなさい。綺麗に治せなかったの! ずっと謝りたくて!! あれ以来ヨハン様も私によそよそしくなってしまったわ! 私、大変なことしちゃったんだって思って!!」


 嗚咽を混じらせながら言ったヒナの姿がじんわりとぼやけた。蒼壱は慌てて瞳を擦ると、「ヒナ様の責任ではありません!」と、声を発した。


「私はお礼を申し上げているのです。ヒナ様が癒してくださらなかったらと思うとゾッとします。アオイは、私の大切な家族なのですから」


——ヨハンの奴!! ヒナへのフォローもまともにせず、何をやってるんだっ!!

 蒼壱は込み上げる怒りを抑えつつ、ヒナを必死になって慰めた。


「そのことでヒナ様を傷つける様な者が居るのでしたら、私が許しません! ヨハン殿下と言えど蹴飛ばして差し上げますから!」


 コメカミをひくひくとさせながら言う蒼壱をヒナはきょとんとして見つめた後、ふっと笑った。


「ハンナ様ったら、そんなことをしたら兵士さん達に捕まっちゃいますよ」

「どうせ捕まるのでしたら、二発お見舞いして差し上げます!」


 蒼壱の言葉を聞いてくすくすと笑いだしたヒナに、蒼壱はホッとした。


——良かった。ヒロインはやっぱり笑っていてくれた方がいい。その方が周りも華やぐし、神聖力を持つという彼女の特性上でも効果が高いのだから。彼女が笑ってさえいればヨハンも含め攻略対象はイチコロなわけだから、おのずと周囲の彼女に対する当たりも和らぐ事だろう。


「良かった。ハンナ様は、私の事を嫌っているんだと思ってたから」

「まさか! ちょっとその……緊張してしまっただけです!」

「緊張?」

「ヒナ様が、その、あまりに可愛いかったので!」


——しまった。つい言っちゃったぞ!?

 と、蒼壱は顔を真っ赤にした。ヒナはキョトンとして蒼壱を見つめた後、再びニッコリと微笑んだ。


「綺麗な人にそんなこと言われると、なんだか恐縮しちゃうわ。あの、ハンナ様。私と友達になってくれると嬉しいのですが」

「も、勿論!! 願ったりかなったりです!」

「良かった! 私、最初ハンナ様の事ゲームに出て来る悪役令嬢みたいで少し警戒しちゃったの。でも、全然そんなことなくて優しくて、こうやって慰めてもくれるしで大好きになっちゃった」


『悪役令嬢』のフレーズにドキリとし、更に『大好きになっちゃった』の言葉に心臓が止まる程ときめいて、蒼壱はしどろもどろになった。


「そ……それはよござんしたですわ」


 何語なのかさっぱり分からない言葉を吐いた蒼壱に、ヒナが手を差し出した。


「これから宜しくお願いします。ハンナ様。私の事は『ヒナ』って呼んでね。様づけなんて慣れなくてこそばゆいの」


ヒナが差し出した手を握って握手をすると、蒼壱もニコリと微笑んだ。


「では、私の事もハンナとお呼びくださいね」


 二人は互いに微笑み合って、友情を誓い合った。

——いや、待て。俺の場合友情じゃないぞ?


 扉がノックされ、キィと音を立ててゆっくりと開いた。ミゼンが顔を出し、左耳につけられた長いピアスの房がゆらりと揺れる。


「邪魔をしてしまいすみません。こちらにお二人がいらっしゃるとお聞きしたものでして」

「……ミゼン。何の用ですか?」


 あからさまに冷たく言葉を放った蒼壱に少しも動じず、ミゼンは愛嬌のある笑顔を向けた。


「今度は西部に魔物が出現したとのことです。今回は聖女ヒナ様もご同行する様、陛下から命令がくだりました」


 蒼壱は眉を寄せた。確かにゲームでヒナが魔物討伐に同行するイベントが発生したが、随分とタイミングが早すぎる。王宮の生活にある程度慣れて、周囲の好感度ももう少し上がった後でのイベントのはず——と考えて、蒼壱はハッとした。


 そもそもヨハンがヒナを匿っていた時点でタイミングがずれているのだ。それ以前にヒナの登場自体も凱旋パレードでは無くなっている。

 つまり、聖女として民や隣国にまで噂が広まるタイミングを逃しているのだ。早いうちに魔物討伐でも何でも同行して、聖女としての力を周囲に見せつけない事には、ヒロインとしての立ち位置が変わり、ストーリーが進まない為、強制的に変更になっているのかもしれない。


「貴方がヒナ様ですね? お初にお目にかかります。僕はヒルキア王国の第二王子、ミゼン・ヴァーリ・ヒルキアです。お見知りおきを」

「ヨハン様の弟さん?」

「今は自己紹介をしている場合じゃないだろう」


 二人の会話に割って入ると、蒼壱はミゼンを睨みつけた。


「ミゼン。ヒナの魔物討伐同行、なんとかならないの? そんな危険なところに、何の訓練も受けていない彼女を送り込むだなんて、いくらなんでも無茶じゃないか」

「僕としても、このような可憐な少女が戦場に立つなど、考えただけで心が痛みます」


——それは、男の俺がここに居て、女の子の華を戦場に立たせているという事へのあてつけか?

 そう考えて、蒼壱はハッとした。


「ミゼン、その遠征にはひょっとして……」

「ええ。勿論、アオイ・ランセル卿も参戦いたしますよ。しかしながら今回は兄上の出征が無いので、近衛見習いという立場ではございません。ランセル卿は隊長としての参戦となります故、以前より前線での交戦となるでしょう」


 弾かれた様に立ち上がり、ミゼンを押しのけて廊下へと出ようとした蒼壱に、ミゼンは「ハンナ嬢!」と、珍しく声を上げて引き留めた。


「どちらへ向かうおつもりですか?」

「何処って、アオイを……!」

「アオイ・ランセル卿の剣の腕は確かです。あの方の下に配属となる者達もすでに決定しており、皆士気が高まっているところに、女性の貴方が水を差すおつもりですか?」


 それはつまり、今更俺が華と代わることなんかできないと釘を刺しているのかと、蒼壱はぎゅっと唇を噛みしめた。


 ……華のことだから、今回の遠征も、そしてこの先の戦闘イベントについても全て自分が出る気でいるに違いない。


「けれど、家族なのに。顔を合わせることすら許されないのか?」

「急な要請で皆殺気立っていますから、控えてください。なに、ご心配には及びません」

「何を根拠に言っているんだ?」

「今回は私が出ますから」

「……え?」


 驚いてミゼンを見つめた蒼壱に、ミゼンは人差し指をそっと自分の唇に添えた。


「既に父上からも許可を得ております。ご安心ください、それと引き換えに、ヒナ様の同行は取り下げて頂きました」

「一体どうして……?」


この男がただの善意でそんな行動を取るとは思えない、と蒼壱はミゼンを睨みつけた。

 ゲーム上、ミゼンは神聖力の代わりに強い魔力を持っているという設定である為、戦力としては申し分ない。魔物討伐は彼一人でも難なくこなせる程だ。しかし、ミゼンの能力が明らかになるのはゲームの終盤である為、この時点ではヨハン以外の誰も、ミゼンの母親ですら彼の魔力について認識していない。


「おや、私では頼りにならないと?」


 蒼壱はプルプルと首を横に振った。——そうではない。『戦力については』ミゼンになんら問題はない。あくまでも『戦力については』だ。


 心配なのはそのひねくれた性格だ。


 ミゼンルートではヒロインであるヒナに異常な程の執着を見せ、ヨハンを王位継承の座から引きずり下ろし、完膚なきまでに陥れるという非道をやってのけた男だ。

 華もミゼンのことを相当『陰険!』『キモイ!!』と、貶していたので、嫌っているのは明らかだろう。魔物討伐にミゼンが同行するのだと聞いたら、華は暴れ出すかもしれないと蒼壱はゾッとした。


 蒼壱が難しい顔をしていると、ヒナがひょいと顔を出した。艶やかな黒髪が揺れ、大きな瞳がぱちくりと瞬きをするので、思わず蒼壱の胸がときめいた。


「あの、ミゼン様。私の代わりに魔物退治に行ってくれるんですか?」


 ミゼンは愛嬌のある笑顔をヒナに向けて小さく頷いた。


「ええ。貴方の様な可憐な少女には荷が重い大義でしょうから」

「私の治癒魔法が下手だからですか?」


 ヒナは責任を感じている様だった。蒼壱がどうヒナをフォローしようかと考えていると、ミゼンが僅かに屈んでヒナに視線を合わせた。


 華は女性にしては高身長な部類に入るし、蒼壱は華より十五センチ程背が高い。ヒナはというと、日本人の女の子らしい華奢で小さな体躯をしていた。


「僕が参戦したら、治癒魔法が要らないからです」


 ふわりとミゼンはヒナの頭を優しく撫ぜた。ヨハンと同じエメラルドグリーンの瞳を細め愛嬌のある笑みを浮かべる様は、妙な色気を感じる程に美しい。


「僕はこう見えて、強いですから」


——どちくしょう。流石攻略対象。かっこいいじゃないか!


 蒼壱は悔しさで握りしめる拳が震えた。

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