第16話 蝶

 稽古場で華と別れて、蒼壱は急ぎお茶会のもよおされている王后の庭へと向かった。


——華の奴。無茶な事しなければいいけど。


 蒼壱は、華が言い出したら止めても利かない性格であることをよく知っている為、不安に思ってため息をついた。


 浮かない顔のまま庭園に顔を出すと、執事がうやうやし気に出迎えて席へと案内する後ろをついて行った。

 天候が良く、日差しを避ける為か、テーブルは木々の下へと設置されていた。


「あら、ハンナ嬢。今日も素敵ね」


 王后が蒼壱に声を掛けると、蒼壱はハッとしてドレスを摘み、膝を折って挨拶をした。


——今はこっちに集中しないと!


「お招き頂き有難うございます。王后陛下」

「堅苦しいのは抜きにしましょう。さあ、掛けて頂戴」


 王后は美しく塗られた紅を横に引いてにこやかに微笑んだ。前王后を毒殺したとはとても思えない程に穏やかな印象を受ける。ゲーム上の設定であるとはいえ、毒殺犯と共にお茶を楽しむ羽目になるとは、と蒼壱は心の中で不満に思った。


 王后の庭は色とりどりの薔薇が咲き乱れており、蝶がふわふわと飛んでは、香りにつられてあの花へ、この花へと止まっていた。

 蒼壱の前に置かれたティーカップにお茶が注がれ、良い香りが漂った。指をかけ、カップに口を付ける前に、王后は「そうだわ!」と、両手を合わせ、思い出した様に声を上げた。蒼壱は『またか』と心の中で思いながら、王后を見つめた。


「誰か、ミゼンを呼んで」


 執事がお辞儀をし、そそくさと王宮へと入って行く様子を見送りながら、蒼壱はうんざりした。王后の招待するお茶会に出席すると、彼女は必ずミゼンを呼びつける。ヨハンを呼んだ事など、当然ながら一度も無いというのに。


 ハンナはヨハンの婚約者だ。ミゼンとしても、自分の兄の婚約者とお茶を飲んで楽しいはずが無いだろうに。


「王妃教育は順調の様ですね。わたくしの耳にも噂は届いておりますよ。父君のランセル公爵も、さぞ鼻が高いことでしょう」

「まだまだ学ぶことが多く、難儀しております」


蒼壱の答えに王后はホホホと笑うと、「可愛らしい子ですこと」と瞳を細めた。


「母上、お呼びでしょうか」


 群青色の詰襟に白い手袋。長髪を後ろに束ね、品の良い笑みを浮かべたミゼンが王后の側で会釈をした。

 チラリと横目で蒼壱に視線を送る。


「ご覧なさい。庭の薔薇が見事でしょう」


 蒼壱の前に出されたお茶は口を付けないまますっかりと冷めていた。

 王后の言葉にミゼンは「ええ。本当に美しいですね」と言いながら蒼壱から視線を外さなかった。


——あいつ、俺に言ってるのか?

 蒼壱は不愉快な気分を必死に押し殺したまま、黙って二人のやりとりを聞いていた。


 そういえば、以前華が俺に渡そうとした手紙をミゼンが台無しにしたことがあった。あれには一体何が書かれていたのだろうか。すっかり華に聞きそびれてしまった。ひょっとしたらミゼンの悪口が書かれていて、ミゼンはそれを読ませない為に妨害したのかもしれない。華が悪口を書くとしたらどんな事を書いたか容易に想像できるな、と考えて、蒼壱はクスリと小さく笑った。


「おや、ハンナ嬢。何か可笑しい事でもございましたか?」


 ミゼンの突っ込みに蒼壱はすまし顔で「ええ」と答えた。


「薔薇も美しいですが、蝶の舞も美しいと思いまして」


 蒼壱の答えに王后が嬉しそうに微笑んだ。


「ええ、そうね。ミゼン、ハンナ嬢に庭を案内して差し上げなさい」

「承知致しました」


ミゼンは颯爽と蒼壱の側に来ると、手を差し伸べた。蒼壱は一瞬躊躇ったものの、渋々その手を取り立ち上がった。


——王后め。ハンナはヨハンの婚約者だぞ? ミゼンとくっつける気か? 

 と、沸々と沸き起こる苛立ちを噛みしめながらも必死に押し殺し、ミゼンにエスコートされて優雅に庭を散策した。

 ヒールが土に取られて歩きづらいなと思った時、ミゼンが蒼壱の手を自らの肘へと引き寄せた。


「遠慮なさらずしっかりとおつかまりください。こちらの方が歩きやすいでしょう?」

「……ありがとうございます。殿下」


——はっ倒すぞオラ!!


 ミゼンが肩を揺らし失笑したので、蒼壱は心の声が漏れたのだろうかと心配になって顔を背けた。


「すみません。母上がどうしてもハンナ嬢と僕とを一緒にさせたがってしまい」

「……いえ。ヨハン様の弟君ですから。仲が良い事に越したことはありません」

「ご迷惑なのは分かっています。ですが暫し耐えていただけませんか。そう怒らずに」


 ひらひらと蝶が舞い、蒼壱の被る帽子に留まった。ミゼンがふぅっと息を吹いて蝶を追いやった。蒼壱はもしもこれが華だったらパニックになるだろうと考えながら、飛び交う蝶を見つめた。——華は蝶が苦手だからだ。


「今日は本当に、蝶が多いですね。風が無いからでしょうか」


鬱陶しそうに蝶を見つめるミゼンに「蝶がお嫌いですか?」と蒼壱は問いかけた。するとミゼンは僅かに口元を綻ばせ、困った様に眉を下げた。


「いえ。蝶が苦手なのは、僕では無くハンナ嬢ですよ。そうでしょう? アオイ」

「!!!!」


驚いて思わずミゼンを見つめた蒼壱に、ミゼンはニコリと微笑んだ。


「警戒せずとも口外するつもりはございません」

「……どうして」

「いつから入れ替わっていたのですか? それだけ教えてください」

「い、いつからって?」


 今回だけならまだしも、ずっと以前からなのだと知れたのなら、王后やミゼンだけでなく、国王やヨハンに対しても不敬であり、偽った罪として大罪を負う事になるだろう。


 蒼壱は必死になって取り繕おうとしたが、ミゼンはゆっくりと首を左右に振った。


「言ったでしょう、口外するつもりは無いと。ただ知りたいだけなんです。僕が気づいたのは、出征パーティーの時でした。貴方の社交界デビューはその日でしたが、もしやそれよりも前から入れ替わっていたのですか? 例えば……そう、幼少の頃など」


蒼壱は「いえ……」と、小さく答えた。


「魔物討伐の出征パーティーの時が最初です」

「良かった」


 ミゼンはニコリと微笑むと、薔薇の花を折り、蒼壱へと差し出した。


「僕の予想が当たっていました」


 蒼壱は薔薇の花を受け取った。棘が手袋を貫通し、チクリと指先を刺す。


「ヨハン殿下も気づいているのですか?」


恐る恐る聞いた蒼壱に、ミゼンはふっと笑った。


「まさか。兄上はこういった事に相当鈍い方ですから。貴方に興味が無い様子ですし」

「父は……公爵はこの事を知りません。全て俺が考えた事なんです! ハンナにも罪はありません!」


蒼壱の言葉にミゼンは笑顔を崩さずにため息をついた。


「僕は随分と信用が無い様ですね」

「ただ知りたいが故にこのような質問などされませんでしょう!」

「確かに」


 ミゼンは頷くと、薔薇を持つ蒼壱の手の上に自分の手を覆いかぶせ、ゆっくりと力を込めた。薔薇の棘が蒼壱の指に食い込み、痛みが痺れを伴って襲い掛かる。


「僕に協力してください」

「どんな協力です?」

「僕の目的全てにです」

「そんな……」

「貴方に拒否権はありません。分かっているでしょう? もしも僕がこの事を皆に言いふらしたらどのような事になるか」


蒼壱は唇を噛みしめると、薔薇をぎゅっと握りつぶした。


「そんなこと、絶対にさせない!」

「凄んでも無駄です。貴方も馬鹿ではないのですから、僕に従うしか無いとお分かりでしょう。なに、大したことではありませんよ」


パッと手を離して、ミゼンは蒼壱の前に跪いた。


 二人の会話は王后の下に届いていないものの、その様子は庭に居た全ての者が目にしていた。ハンナ嬢の前で跪く第二王子ミゼンの姿に、あっと使用人達が僅かに声を上げた。


「何を!!」


 蒼壱は使用人達の様子を察して、ミゼンを咎めた。こんな様子を晒してしまえば、王宮中に噂が広まるだろうと恐れたのだ。


「ハンナ嬢が、兄上ではなく僕の婚約者になるだけですよ。難しいことでは無いでしょう?」


ミゼンが蒼壱の手を取り、その甲にキスをした。

 王后はその様子を満足気に見つめており、蒼壱は振り払いたい気持ちを押し込めるのに必死で吐き気すら込み上げてきた。


「自分の兄を、ヨハンを陥れるつもりなのか!?」

「陥れるとは人聞きの悪い。僕はただ純粋にハンナ嬢を愛しているのです」

「出鱈目を!!」


——華。俺は、最大のミスを侵してしまった!! ミゼンなんかにバレるだなんて!!

 

「……ハンナは、ヨハン王子を愛しているのをご存じでしょう!?」

「ええ。兄上がハンナ嬢を望んでいないことも存じておりますよ。ご安心ください。ただ貴方は、僕と毎日お茶を楽しむだけで良いのですから」


 ミゼンはすっと立ち上がると、薔薇の棘で傷つき手袋から血が滲んだ蒼壱の指先にキスをした。


——その日の二人の様子は瞬く間に王宮内に広まった。噂は口伝くちづてに大きくなり、ハンナはヨハンから乗り換えて、ミゼンの婚約者になったのだと言われるまでに飛躍して、翌日には王都中の貴族達にまで広まっていった。

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