第1話 双子の絆

はなぁ——!」


 高く結い上げた髪をサラリと風になびかせながら制服姿で廊下を駆け抜ける華を、威勢のいい声が呼び止めた。

 靴音を響かせて華が立ち止まると、呼び止めた少女が追い付いてきて、華の前でパッと両手を合わせる。


「また助っ人お願いできない? ね、お願いっ!」


 涙目で懇願こんがんしてきた少女は剣道部の部長だ。恐らく次の大会の助っ人を華に頼みたいのだろう。華が答えようと口を開きかけた時、我も我もと人が集まり、気が付くと運動部の部長達に取り囲まれていた。


「ああ……えーと……」


 戸惑う華に次々と女生徒達が声を上げる。


「一人骨折しちゃったから、代わりを探してるのっ!」

「うちは一回戦だけでもいいから!」

「いっそのこと入部してよ!」

「ちょっとぉ! ずるいよ、華はうちが欲しいのにっ!」

「華は皆のものでしょ!?」

「そうだよ! 華は全運動部のスーパー助っ人なんだからっ! 抜け駆け厳禁でしょ!?」


 スポーツ万能だというのにどの部活にも所属していない華は、大会が近づくと毎年運動部の取り合いになる。しかも、今年は高校三年生である為、彼女を助っ人にできるラストチャンスなのだ。

 運動部の部長達は互いの視線にバチバチと火花を散らしながら睨み合い、その中央に立つ華は今にも感電しそうな勢いだった。


「皆、ごめん。今年はどこにも参加できないの!」


 申し訳なさそうに言った華の言葉に、全員があんぐりと口を開き、「どうして!?」と、聞き返す事すら覚束おぼつかない程に混乱した。


「今、親が海外出張中でさ。蒼壱あおいを一人きりにできないし」


 蒼壱とは、華の双子の弟だ。顔こそ瓜二つであるものの、大人しく控えめな文系男子だ。あまり身体が丈夫ではない蒼壱は、喘息の発作も起こしやすい為一人にしておくわけにはいかないのだ。


「くおぉおおおっ! どーしてこんな時期に限って海外出張しちゃうかな!? 華のご両親!?」

「ホントごめん!」

「まぁ、それじゃあ仕方ないかぁ……」

「毎年頼っちゃってるしね」

「諦め諦め」

「華も大変だと思うけど、頑張ってね」


 運動部の部長達がすごすごと帰っていく様子を手を振って見送った後、華は再び廊下を駆けた。

 高い身長のせいもあってスラリと脚が長く、彼女が駆ける姿はつい足を止めて見惚れる程に美しい。フランス人のクォーターであるからか、鼻筋が通った顔立ちは一見とっつきにくそうに見えるものの、人当たりが良く人懐っこい性格である為友人が多く、華の周りはいつも賑やかだ。


「ただいまー!」


 玄関のドアを締め切る前に大声を張り上げる為、華の帰宅は同じマンションのご近所中に知れ渡る。


「華、そんなに怒鳴りつけなくても聞こえるから……」


 蒼壱が呆れ顔で出迎えたが、華は無造作に玄関先に靴を脱ぎ捨ててズカズカと室内へと入ってきた。制服の上着と鞄をソファの上に放り投げ、大急ぎで冷蔵庫から麦茶を出して飲み干す。


「ぷはー! 美味いっ! 生き返るっ! くぅ~~~っっ!!」

「華、おっさんくさいんだけど……」

「え? 臭い? まじで? 走ってきたしなぁ」

においの事じゃないよ!!」


華はケラケラと笑うと、「解ってるって!」と僅かに肩を竦めた。


「それより、体調大丈夫なの? 早退したんでしょ?」


華の指摘に蒼壱は申し訳なさそうに俯いた。


「全然大した事ないんだけど、今日は薬を忘れちゃって」

「しっかり者の蒼壱がそんな大事なものを忘れるなんて珍しい。気を付けないと」

「ああ、うん。そうだね……」


 蒼壱は曖昧に答えて視線を反らした。


——本当は、薬を忘れただなんて嘘だ。

 蒼壱は心の中でそう言いながら、ぎゅっと唇を噛みしめた。


 華と蒼壱はそれぞれ別の高校に通っていた。華が通うのは女子高だったし、勉強がよく出来る蒼壱は大学受験に有利な進学校に通っていた。


 今朝は気候が良く、身体の調子が良かった蒼壱は、少しでも身体を鍛えようと、わざと遠回りをして登校する事にした。昨夜降っていた雨のせいで空気が洗浄されたのか、早朝の公園は驚く程色鮮やかに見えて、花の香りがほのかに香っていた。

 踏みしめる芝生に朝露がたっぷりと含んでいるので、蒼壱のスニーカーに染みてきたが、それさえも心地よいと考えて、しかし学校についた後は少々不快になりそうだと思い直し、舗装されている小道の方へと後ずさった。


「あっ!」


 誰かにぶつかって、蒼壱は慌てて「すみません!」と謝罪した。後方を確認せずに下がってしまった自分の落ち度だ。恐らくぶつかった相手は早朝散歩の心地いい気分を台無しにされて、かなり腹を立てていることだろう。


 バシャリ! と、音がして、自分の足にじんわりと冷たい水が染みこむ感触があった。水たまりに足を突っ込んでしまったのだと気づいて、蒼壱は青くなった。つまりは、その水しぶきが相手にかかってしまったからだ。

 白いソックスに泥水が跳ねている様子が瞳に映る。これは謝って赦して貰えるはずがない、と、泣きたくなりながら相手の顔を見た。


「……私ったら、運動神経鈍いんだから」


 ぶつかった相手は、桃色の唇から僅かにそう漏らした。

 艶やかな黒髪を肩まで垂らした、華と同じ学校の制服に身を包んだ少女だった。


「俺が急に後ずさったりなんかしたから、本当にすみません」

「私こそ、ちゃんと前を見てなかったの。ごめんね」


 そう言って申し訳なさそうに微笑んだ表情を見た瞬間、蒼壱の心臓は止まりそうになる程に強く鼓動した。


——酷い動悸だ。ひょっとして病気かな?

 思わずそう考える程に強く鼓動した心臓に驚きながら、蒼壱はポケットからハンカチを取り出して彼女に差し出した。


「これ、使ってください!」

「そんな、ハンカチが汚れちゃうからいいよ」

「でも……」

「大丈夫。ジャージに着替えたら靴下なんて分からないもの、本当に平気よ!」


 顔を赤くしながら一生懸命に遠慮している様子がまたなんともいじらしい。蒼壱は彼女に見惚れながらも、なんとか自分のミスを償いたいと必死に考えたが、良い案が思い付く間も無く、彼女は「気にしないでね!」と、パタパタと駆けて行ってしまった。


 ポツンとその場に残されたまま、蒼壱は暫く呆然と佇んでいた。


 何故心臓が痛い程に鼓動するのか、何故間抜けな程に自分が何もできなかったのかが分かるまで暫く時間を要したが、今でははっきりと『彼女に一目惚れしてしまった』のだと理解している。

 恐らく喘息の薬はハンカチをポケットから取り出す際に落としてしまったのだろう。プラスチック製のケースに入った簡易吸入器で、落として気づかない程小さいものではないのだが、それほどに蒼壱は動揺していたのだ。





「蒼壱? おーい。大丈夫?」


 今朝の出来事を思い出してふけっていた蒼壱の顔を、ひょいと華が覗き込んできたので、蒼壱は慌ててコクコクと頷いて見せた。


「へ、平気だよ。ちょっと考え事してただけ」

「平気そうに見えないけど。今日はゆっくり休みなよ。晩ご飯は私が作るから」


華のその言葉に蒼壱は瞳をひん剥いた。


「え!? そ、それは遠慮……じゃなくて、いいよ! 俺、料理好きだし作りたいから!! 作らせて!?」


 華の料理の腕前といったら猛毒レベルに酷いのだ。それだというのに本人は全く自覚が無いから厄介極まりない。唯一の救いと言えば、彼女が今の所全くもって恋愛に興味が無いというところだろう。

 好きになった相手に手作りお菓子をプレゼントしようものなら、毒殺してしまうに違いない。


「そう? 無理しないでね。じゃあ、私はちょっと宿題やっつけてきちゃうね」

「ああ、うん。やっつけてきちゃって」


——人間以外は。

 と、心の中で付け加えながら、蒼壱は華の背中を見送った

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