第五話 ハロー、エメラルドガール
東京第一鑑別小隊のためのシェアハウスに足を踏み入れた。玄関の扉を開け、廊下を進んだ俺たちを迎えるのは、共用スペースであるリビングだ。
生活感のないこの場所は、キッチンに面しており、隊員間でのコミュニケーションが行える場所である。
一階の部屋は男性隊員、二階の部屋は女性隊員の個人スペースになっていて、地下室には保管庫、訓練や運動ができるトレーニングルームと、武装の調整を行える工房がある。
ミーティングルームや仮眠室も備えられていて、おそらく地下が最も充実しているだろう。一階だけでなく他の階にもトイレや風呂があり、男女の共同生活のための配慮がなされていた。
いかんせん、鑑別官という職は秘匿性が強い。隠さなければいけないものが多くあるし、隊員自身も秘匿されるべき存在だ。そんな隊員や備品を一纏めにして管理しようというのは、至極真っ当な判断だろう。
しかし今現在使われているのは、地下室、キッチンと俺の部屋、そして一階のトイレや洗面所などの設備だけだ。他の部屋は主と別れてから、そのままの状態で安置されていて、何も手をつけていない。
……特に彼の部屋は、まだ開けることすら出来ていなかった。
「……琴森。今、紅茶を入れた」
「あ……ありがとうございます。砂糖はありますか?」
「ああ。あるぞ」
調理のために用意している砂糖のケースを渡すと、そこから信じられない量を紅茶へ入れ始めた。うーん。これぐらいだったらまだ受け入れられるようになってきた。まだわかりやすい。
リビングのソファに身を沈ませ、大きく深呼吸をする。
「……今すぐ、誰かが入れるように空けている部屋がない。悪いが今日は、地下の仮眠室の方で寝てくれないか」
「全然大丈夫ですよ。私はどこでも寝られます。ほんとですよ?」
「ありがとう。明日の深夜また、任務に出る。だから、英気を養っておけ。それと……この、USBメモリの話なんだが……」
そう言って、机の上に翠色のUSBを置く。その装飾が、彼女の髪色に、妙にそっくりだった。
「……はい。それ、日高茉莉子九硬級鑑別官から、聞きました。私は彼女から説明を受けましたし、貴方が、全部を知らないっていうのもなんとなく察しています。なんか、すっごく何回もびっくりしてたので。それと……私たちはまだ、一時的なパートナーということも」
シリアスな表情でコップを両手に持つ彼女は、俺の事情をどこまで知っているのだろう。
ただ、知る知らない以前に、目の前の人がいきなりイカれた量の砂糖をぶち込み始めたら、ビックリすると思うよ。あと、初対面の上官にいきなり飴渡そうとしてくるとか。
「……君は、俺なんかと組んでもいいのか?」
「俺なんかって……わ、私からは何も言えないですけど……私は貴方で良かったです」
「……まあ、少なくとも日食までの間、君と俺は相棒だ。短い期間かもしれないが、宜しく頼む」
「…………はい。私の方こそ、お世話になります」
少し俯いている彼女に、話を戻そう、と告げた。
「…………それで、このUSBメモリを開けたら、四つ、ファイルが入っていた。一つ目は、君と会ったときに開けろと、閲覧可能なテキストファイルに書いてあった。現時点では、他のファイルを開ける条件は分からないけれど」
鑑別部隊より支給されたノートパソコンに、USBメモリを差す。ロードされたファイルをクリックして、パスワードを要求するウィンドウが出てきた。
「入れてくれないか」
「はい。もちろんです。一個目は、私と会ったタイミングでって話だったので。えっと、えっちいーえるえるおー、いーえむ……」
人差し指で不器用に、キーボードで入力していく。
パスワードは……[Hello, Emerald Girl]、か。確かに彼女は、エメラルドに妙にそっくりな少女だと思う。
今、無機質な動作を伴って、ファイルが開かれた。
恐る恐るマウスポインタを動かしながら、資料を読もうとする。
「じゃあ、私、地下室でシャワー浴びて寝ます。流石に疲れました」
「ああ。武装の類いは、俺がまた地下室の保管庫に収納しておく。今日はよく頑張った。新人とは思えない働きだったよ。明日は、夕方くらいには起きてくれ」
正直な感想を口にした俺を、彼女がきょとんとした表情で見つめている。一転、そこからにやつきを抑えきれないような顔になりながら、おやすみなさい、とだけ言い残して、彼女は階段を下っていった。
夜夜中。リビングの秒針の音だけが、カチカチと響いている。
地下室からガタガタと聞こえる物音。そして、マウスのスクロール音が聴覚を刺激した。一見した感じ、特別、日高さんからのメッセージがあるわけではなさそうだ。報告書的な、無機質な文字列が画面を彩っている。
ただし前置きとして、琴森詠芽という存在に関して東京支部の中で情報を握っているのは、東京唯一の十硬級鑑別官、前田豊和だけとはっきりと記されていた。他者には決して、情報を漏らすなということだろう。
その上で、ファイルの中にあるドキュメントを開く。
『琴森詠芽 戦闘技能訓練修了証明書』
……思いの外、懐かしいと思えるようなものが出てきた。これは、鑑別官候補を養成する機関の書類だろう。
機関において、この戦闘技能訓練はカリキュラムから外せない非常に重要なものである。訓練はよく体系化され、無機生命体を討つために特化した実戦的なものを取り扱っており、その成績はその鑑別官候補の戦闘力を測る指標として信頼に足るものである。というかそもそも、新人が着任してきたら現場にいる人員全員が目を通すことになるような、わざわざファイルに隠して渡すようなものでもない。
画面をスクロールするため動かしていた中指が、画面上に表示される情報を信じ切れず、ピタッと止まる。
「は……?」
無機生命体討伐訓練、上限到達により測定不可。体力試験、上限到達により測定不可。近接戦闘訓練、射撃訓練、A+。身体能力評価は歴代最高。宝石投与に耐えうる宝石適正の部分は……表記されていない。訓練に関するありとあらゆる項目が、上限に到達するかそれを突破している。
これが、ただ鑑別官候補の能力を測るだけのものだったら、まだ理解できただろう。しかしこの宝石鑑別部隊の戦闘技能訓練は、現役の鑑別官も参加するような、ハードなものだ。新人としては、C評価を貰えただけでも将来有望との評価が下されるものである。新人からベテランとなり、自身の力量を測るために再参加するようなものも多い試験の中、こんな成績を叩き出す方法が、俺には分からない。これが本物かどうかを疑った方が早い。
……加えて、特筆すべき項目、試験官からのコメントが付く箇所に、近接戦闘のセンスを百年に一人のものとすれば、射撃戦闘のそれは千年に一人のものではないかと記されている。跳弾を用い全ての標的を一発で仕留めた、数キロ先の標的を三分の準備時間のみで撃ち抜いた、など、とても信じられないことが書いてあった。
……しかし、今夜見たあの二連射の速度とその精度は、確かに現実の出来事だった。あれを見た後だからこそ、ここに書いてあることは、本当なんじゃないかという気持ちになってくる。いや、あれを目撃した後でも、まだ信じられないことではあるが……
しかしもし仮に、ここに書いてあることが事実だとしたら、彼女は国際無機生命体鑑別機関が待ち望んだ、英雄の原石だということになる。
それを何故、彼らは、日高さんは俺に託すんだ? 分からない。
誰もが圧倒される彼女のこの成績に比べれば、俺が持つ能力なんて、霞むようなものだ。一体、どうして俺なんかに。彼女を輝かせる方法なんて、ずっと燻り続けているクズの俺は知らない。
ファイルの隅から隅まで確認してみても、この成績書以外に、俺への指示を記したようなものはなかった。彼女のこの能力を理解した上で、鑑別官としての活動を続行せよということだろう。
USBメモリを取り外し、ノートパソコンを閉じる。目頭を押さえ、思考を切り替えた。今の自分がいくら考えたところで、意味はない。パスワード付きの謎のファイルはまだ三つ残っているし、思索に走ったところで、時間の無駄なだけだ。
廊下を歩いて、ガレージにある俺のツアラーバイクの方へ行く。そこに取り付けていた装備、武装の類いを、地下室の保管庫に収納しなければならない。一つ一つ取り外して、抱え込み、保管庫へ向かった。妙にSFチックに見える、近未来的な扉を前に、鑑別官が所持する宝石タグを使った宝石認証を用い、ロックを解除した。彼女の銃や弾薬、そして俺の鉱刀を保管する。こうやって、厳重に管理されなければいけない、確かな兵器なのだ。こいつらは。
ついでに、このハウスにある弾薬箱を開け、中身の確認をする。銃使いは俺たちの部隊にいなかったが、それでも最低限のものはある。箱を一つ一つ開け、使えそうな弾を手に取ってみた。
着弾時、霜のような輝きを見せる四硬級弾……フロストライト弾か。こいつを明日は使おう。用を終えて、保管庫を出た後、階段へ足を伸ばし、一階へ戻ろうとしたとき。
「……おねえちゃんとあそぶひと~このゆびとまれ~んぅんんんむにゃ~」
……あまりにも具体的すぎる、琴森の寝言が聞こえてきた。今日は仮眠室で寝て貰うことにしたが、琴森だって自身のパーソナルスペースは欲しいだろう。さて。どうするか。
二つ女性隊員の部屋は残っているが……一番無難なのは、日高さんの部屋だろう。姫内の部屋はガラクタが多すぎて、片付けきれない。彼女の部屋を衣替えして、琴森の部屋としようか。
明日は早めに起きて、夕方には動きだそう。彼女の生活を整えるための品を購入したいし、その後、彼女の教育をしたい。
彼女と同じように、シャワーを浴びる。
体を温め、戦闘でかいた汗水を流しながら、己に問答をした。
脳天気なあの新人の女の子は、一体何者なのだろう。日高さんによれば、彼女は俺が拒絶せざるを得ない存在らしい。
それでも、錆び付いて軋む音を鳴らし、動き出した自分の現状を見て。
どこか、彼女が変えてくれるんじゃないかなんて、期待をしてしまっていた。俺の時間がまた動き出すんじゃないかって、自分で動かさなければいけないものなのに。
日食の日までの一時的なパートナーだと琴森にはっきり告げておきながら、不可思議な、あのエメラルドの少女が連れてきた非日常に、胸の高鳴りを覚えている。
糸雨のように降り注ぐ温水が、浴室の鏡を曇らす。
頬を伝うはずだった水滴は混ざり合って、俺に逃げ場をくれた。
なんて、情けない。
彼女の前では大人のように振る舞っていても、俺はまだ子供だ。
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