第3話 命の綱渡り、ブランシェット邸



 右手を誰かが掴んでいる感覚があった。


 真っ白い部屋の中、白いベッドの上に力なく横たわった私は、少しも動けないし喋れない。


『約束だ』


 ぼやけた視界の中、小さな人影が私を覗き混んでいる。その子は私の手を握り、話しかけてくれているようだった。


『次に生まれ変わって、出会えた時は――』


 言葉は途中から聞き取れなくなってしまう。


 視界は暗くなり完全に何も見えなくなった。



「……ん」


 眩しささえ感じる強い光を感じて、私はゆっくりと目を開けた。


 そこは最近与えられた自室のベッドの上だった。カーテンの隙間から太陽の光がチラチラと入り込んでいる。ぼうっとしながら先ほどまで見ていた夢を思い出そうとする。


 あれは前世の記憶だったのだろうか?


 自分が亡くなる前の出来事はひどくおぼろげだった。


「……あの子は誰だったんだろう?」


 私は何かを、忘れてしまっているのような気がした。





***



「おい、お前!」


 不機嫌な子供の声に、私は足を止めた。


「なんでお前なんかが屋敷を歩き回ってるんだよ!」


 振り返れば私より二つ年上の義兄であるブライアン・ブランシェットが、高価そうな絨毯をずしずし踏みつけながらこちらに向かって歩いてきていた。


 私が屋敷に来た日、エドガーが「君に紹介したい子たちがいるんだ」と息子を紹介してくれたのだが、この子の態度は初対面の時からずっと変わらない。


「間取りを覚えようと思って」


「そんな必要なんてない!お前なんかすぐ追い出されるんだからな!」


 フン、と鼻を鳴らすブライアンに、私はうーんと思考する。

 私としてはウィルや孤児院の子たちみたいに仲良くなれたらいいなと思うのだが、ブライアンは私を家族として受け入れる気はないようだった。確かに、いきなり「妹だよ」と連れて来られても納得できないだろう。


 ここは平和的にいきたい。

 今世の私はもうすぐ9歳になるけれど、精神年齢はプラス15歳。そう! 私は大人なのだ!

 睨んでくるブライアンに私は広い心でニッコリ笑いかける。


「お兄様」


「兄なんて呼ぶな、気持ち悪い!」


「……ブライアンくん」


「ブライアン様と呼べ、ネズミ女!」


 は?

 今、なんて言った?


 一瞬、私の笑顔が引きつる。


「ネズミ女……?」


「お前みたいなおこぼれを貰うだけの、役立たずの穀潰しのことを言うんだ!この寄生虫!」


 ネズミの次は寄生虫だと?ならお前はスカンクだ!!

 などと言ってやりたい気持ちを押し殺して、私は毅然とした態度で一歩前に出る。


「この間自己紹介したよね?私にはリターシャという名前があるんだから、そんなふうに呼ばないで!もしかして名前も覚えられないの?」


「覚える必要なんてない、ネズミ女!」


 なんて生意気なガキだろう。紳士的なエドガーの子供とは思えないほどイヤな奴!

 いやいや、待って。熱くなっちゃ駄目だ。冷静になれ。相手は子供、私は大人。


 そう自分に言い聞かせ怒りを沈めようとしていることなどつゆ知らず、ブライアンは私の胸ぐらを乱暴に掴みあげた。


「この服も!お前なんかには分不相応なんだよ!」


「っ、ちょっと……!」


 確かにこんな上質な生地の服、前世を含めて初めて袖を通した。公女という身分、上等な衣食住、知識を得る機会、たくさんの権利を与えてもらった。

 

だから私はこれからこの恩に報いるため、見限られないため、多くのことを身につけ、その力で公爵家に貢献しなければならないのだ。ネズミ呼ばわりされる謂れなんてない!こっちは最悪命がかかってるんだぞ!


「さすがに、これはやりすぎよ」


 静かな口調でジッと睨み上げれば、ブライアンはビクリと肩を震わせ、掴んでいた手は緩んだ。しかしすぐに悔しそうに表情は歪む。


「生意気なんだよ!」


 今度は両手で服を掴まれそのまま思い切り引っ張り倒された。油断していたためドタン、と床に体を強く打ち付けてしまう。これはあとで痣になるだろう。

 しかしそれでも怒りが収まらないのか、ブライアンは顔を真っ赤にしてゆっくり足を持ち上げた。


 蹴られる!私はぎゅっと目を瞑り身構えた。


「何をしているんだ!」


 その時、偶然通りかかったエドガーが止めに入ってくれて事なきを得た。

 ブライアンはエドガーに連れて行かれ、しばらくの間私への接近禁止を命じてくれた。


 仲良くなれるのかさえ不安な出だしに、私はフゥとため息をついた。

 前途多難だな……。




***


 ブライアンとの一件もあり、今日は自室で本を読むことにした。


 初めて部屋に案内された時は広さに驚いた。以前まではこの空間に十数人が毎日賑やかに生活していたけれど、今は一人きり。

 私は本に視線を落としたまま、いつの間にかシスターやウィルたちのことを思い出していた。早くもホームシックになってしまったのだろうか。これからはここが私の家になるというのに。


 けれどどうしても、孤児院にいた頃と比較してしまう。この屋敷には温もりを感じなかった。


 ここには執事やメイド、護衛騎士や庭師、たくさんの人がいる。みんな私を公爵の娘として迎え入れてくれたが、当主であるエドガーの命令に忠実にしたがっているだけのように見えた。

 表には出さないだけで本心では私を快く思っていないように思う。どこか壁を感じるのだ。それに使用人たちの周りの空気はいつも淀んだ陽炎のように見えた。それとも、貴族の家とはどこもこんな冷え切った雰囲気なのだろうか。


「みんなに会いたいなぁ……」


 つい口から弱音が漏れてしまった。エドガーとの約束で孤児院のみんなとの接触は禁じられているためそれは叶わない願いだ。

 私は溜め息をついた。


――コン、コン。


 その控えめなノックの音に、萎んでいた私の顔は一瞬で笑顔を取り戻す。


「どうぞ!入っておいで!」


 声をかけるとゆっくりとドアが開き、男の子が顔を覗かせた。


 私の二つ年下の義弟、カーティス・ブランシェットだ。


 兄のブライアンは父親ゆずりのブラウンの髪と瞳をしているが、弟のカーティスは綺麗な銀髪に赤い瞳をしている。


 おいで、おいで、と手招けば、嬉しそうにニコッと笑って駆け寄ってきてくれた。トテトテと擬音が聞こえてきそうな足取り。スカンクみたいな兄と違って、弟は天使のように愛らしい。


「姉さん」


 可愛い声が私を姉さんと呼んでくれる。カーティスは出会った日から私に関心を示してくれて、こうして部屋を訪ねてくれるようにもなった。


「何を読んでるんですか?」


「今日は魔法について勉強してるんだよ」


 ふ~ん、と首を傾げて覗き込んでくる仕草がたまらなく可愛らしい。


「カーティスには、まだこの本は難しいかな」


 まぁ、本来なら私くらいの子供が読むような本でもないんだけどね。


 カーティスには絵本を渡して、今日は二人で一緒に本を読むことにした。

 絵本は七頭の子犬を育てる母犬のお話だった。カーティスはイラストの母犬にソッと触れる。


「お母さんって、どんな人なのかな」


 呟くようなその言葉には寂しさの色が窺い知れた。


 ブライアンとカーティスの母親はすでに他界していた。カーティスはまだ幼かったせいで母親の記憶がないのだ。


 かく言う私も現世の母親の事は知らない。だから前世の母の顔を思い出す。


「……きっとね、辛くて悲しい時も側にいてくれたら安心して、胸が温かくなって……大丈夫って言ってくれるだけで勇気が持てて、」


 カーティスがじっとこちらを見つめていることに気付く。私はその赤い瞳を見つめ返して微笑んだ。


「大切で大好きな存在だよ」


 ちょっと待ってね、とソファから立ち上がり、鏡台の引き出しから宝石の埋め込まれた小物入れを取り出しフタを開く。


「カーティス、これ見て」


 私は折りたたまれた白い布を開いて見せた。「リターシャ」と赤い刺繍が入った白いハンカチ。雪に埋まる以前の私を知る、唯一の手がかりとなるもの。


「お母さんが私のために用意してくれたものじゃないかって、シスターが持たせてくれたの。私には記憶がないから本当かどうか分からないけど、大切な物なんだ。これを見ると元気が出る気がするの」


 白いハンカチを食い入るように見つめるカーティスにフッと笑みがこぼれる。


 この子は素直で優しい、とてもいい子だ。

 けれど……。


 屋敷の者たちはカーティスから距離を取っているように見えた。それにはカーティスの容姿が関係しているようだった。


【銀髪に赤い瞳を持つ者は魔女の末裔である】


 古い言い伝えの根は深く、気味悪く思う者も少なくなかった。使用人たちの態度にカーティスも薄々気付いているようだ。聡い子なのだと思う。


 私はカーティスの頭を撫でる。


「これからは、お姉ちゃんの私がずっと一緒にいるからね」


 私の言葉にカーティスの赤い瞳がキラキラと煌めく。まるでルビーみたいに綺麗な瞳。


「本当?」


「本当だよ」


 カーティスの柔らかそうな頬がみるみる紅葉して、嬉しそうに微笑む。その笑顔は身もだえしてしまうほどに可愛かった。この子は確実に地上に舞い降りた天使に違いない。


 カーティスとは仲良くやっていけそうだ。




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