冒険者たちの行進曲
@hirabenereo
冒険者たちの行進曲
その人がぼそぼそとなにか歌っているのを、わたしはちらりと横目で見た。
暗い酒場だった。
その暗い酒場のさらに暗い隅っこが、彼の指定席だった。
酒場は最下層から三番目。わたしたち”冒険者”にとって、の話だけれど。
普通の人は自分の行きたい酒場に行き、好きな酒を、財布の範囲で飲むのが普通。わたしは未成年だからわからないけど、きっと元の世界でもそうだったはずだ。でもここでは違う。酒場はクエストをもらうのに重要だし、仲間とのマッチングもしてくれる。狩場の情報もレベルにあったものを教えてくれる。自分のレベルに応じた酒場を選んで、レベルが上がるまではそこを拠点にする。そうしないと効率が悪い。
私はようやく下から二番目の酒場……カッパーの酒場を終えて、このシルバーの酒場に足を踏み入れた。
「よぉ。お嬢ちゃん」
入るなり、黒人男性がにやっと笑って片手を上げる。「早かったじゃないか」
「ボブさん……アー……ミスタ・ボブ?」
「ははっ。日本人の下手な英語でも聞くのが久しぶりだと染みるね。でも構わねぇよ。こっちの言葉で」
ボブさんは肩をすくめて、ドレッド・ヘア(って言うんだっけな?)をかきあげた。
「覚えたんだろ?」
「ちょっとは」
「こっちは英語を忘れかけてる。思ったより早かったな。無能力だから、もっとかかると思ってた」
「頑張ったんで」
「日本人はよく言うな。ガンバル。こっちの語彙にはないか」
「あるかもしれないですけど、知らないんです」
わたしは革の胸当てを少し揺すった。サイズが合っていないのだ。男物だから仕方ない。それもゴブリンから奪ったものだ。小柄な私にはちょうどよかったけど、何度洗っても匂いが取れない。もっとも冒険者たちに他人の臭いなんか気にする人はいない。みんな必死だから。
「登録、済ませちまいな」
「はい」
わたしは頷いて、酒場のカウンターに向かう。カウンターには無愛想なひげもじゃの男が立っていて、黙って一冊のノートを差し出した。宿帳みたいなものだ。めくるとアルファベット、キリル文字、漢字、さまざまな文字が並んでいる。どれも名前だ。その隣にこの世界の文字で読みが書いてある。
いくつかの名前には赤いインクでバツがつけてあって、この世界の暦で日付が記されていた。
死んだのだ。
彼らの墓標はこれだけだ。自分で書いた名前の上から赤いバツ。それから日付。
たったこれだけなのだ。
私はふっとため息をつく。
「ん?」
ひげもじゃの酒場の主人がこっちをちらりと見る。
わたしは彼を睨み返して、それからペンを取った。
名前を書く。
忘れそうになっている、自分の名前と文字。日本語で。
愛澤透子。あいざわ、とうこ。
わたしはペンを投げ出す。書いたよ。ひげもじゃの主人は黙ったまま、ノートに書いた名前の隣を太い指でトントンと小突いた。わたしはもう一度ため息をついて、ペンを取り、この世界の文字でふりがなを振る。
トーコ。
◇◆◇
サインは好きじゃない。
この世界に来たのは、うかつなサインがもともとだった。
少なくともその日まで、私は普通の日本人女子高生だったのだ。
「ねぇねぇ、ゲームってやったことある?」
親友……とりあえずその時は……の河合みきが、いつものかわいらしい笑顔で学校帰りのわたしに後ろから抱きついた。
「げーむ?」
「そうそう。なんか新しいのが出たんだって」
わたしはすこし驚いた。この栗色の髪の女の子からゲームの話題が出るなんて思わなかったのだ。だって彼女はクラスでもアッパーなカーストの女の子で、短いスカート、流行りの香水、薄いお化粧、それらをぜんぶ似合うものにしてしまう容姿と雰囲気の持ち主だったから。クラブもラクロス部。クラスどころか学年でも人気者。
一方のわたしはどちらかと言えば暗いし、長い黒髪を染めたりなんかしたことがない。そんなにブスだとは思わないけど、趣味は読書とゲーム。昼休みは寝たふりをするカーストといえば解るかな。そういう女の子だ。
みきとは小さい頃から家が近くで幼馴染という以外は、とくにつながりはなかった。
でも彼女はそのつながりを大事にしてくれて、今でも仲良くしてくれている。
ともすればいじめにあってもおかしくないわたしが(そのくらいは客観視できる)クラスで浮かずに、いじめにあったりしないのは、彼女のおかげだ。そこは情けないけど感謝してる。
だけどそんな彼女はついぞゲームなんていうわたしの趣味には興味がなかったはずだった。
「へぇ……珍しいね」
「そうかな」
「みきちゃん、ゲームしないじゃん」
「んー。男の子の間で流行ってるらしくてさ」
みきはちょっと考えてから取り繕うように笑った。なるほど、新しいカレシか。
「どんなゲーム?」
「なんだっけな。ファンタジー? の世界で冒険するやつ」
「よくあるやつだね」
わたしはもともとゲームのファンだし、家のパソコンは海外のゲームポータルとつながっている。オープンワールドのゲームは特に好きだ。なにせ自由だから。
現実のわたしはこんなんだけど、でも異世界の、ゲームの世界なら剣を振り回したり魔法を使うことだってできる。それが楽しい。逃避と言われればそれまでだけど。
「でもあたし、ゲームってよくわかんないからさ……。トーコ、ちょっとやってみて感想を聞かせてくれない?」
みきが照れくさそうに言って、わたしはぷっと噴き出した。
「みきちゃん、彼氏にわたしの感想そのまま言うつもり? ボロでるよ」
「でも、わたしよりトーコのほうが上手いじゃん」
「上手い下手じゃないよ。ゲームは楽しむものなんだからさ……でもいいよ。ちょっと興味出てきた。どんなの? お店で売ってるやつ? ダウンロード? ハードは? パソコン? スマホ? ソシャゲはやだよ。あれやらないんだ」
「トーコのセリフはビタイチわかんないけど……」
そう言いながら、みきはじゃらじゃらと毛玉のキーホルダーだとかをつけた通学カバンから一枚の紙を取り出した。
「これに名前書いて出せば送ってくるんだって」
「へぇ?」
受け取った紙は、いわゆるコピー用紙なんかじゃない。
しっとりした手触り。手漉きの和紙とも違う。厚みが結構あって、きちんと断ち切りになっていないかんじ。革なんじゃないかな、これ。
それにしっかりとしたインクで何か書いてある。
何かって言ったのは、文字が日本語じゃなかったから。英語とも違う。
「これ、創作文字? うわ、気合入ってるなぁ!」
わたしはその紙の怪しさなんかぜんぜん気にならなかった。
まるでそれは、わたしの好きなファンタジー世界から抜け出してきたような紙で、下の方に書いてあるみきのサインがむしろ違和感だった。それは横棒で消されている。
「プレイ・バイ・メイル? こんなの今時流行るの? わたしは興味あるけども」
「なにそれ……いや、わからんけど。その……男の子たちの間でね、流行ってるらしいの」
みきはそう繰り返した。
「これに? 名前書けばいいの?」
「ウン。お願い」
わたしは少しうきうきとした。
謎の文字が並んだ不思議な紙。それに自分の名前を書くなんて、ちょっとわくわくする。
冒険の旅の始まりって感じ。
わたしはカバンに入れた筆入れからボールペンを取り出す。
これにサインするなら羽ペンがよかったな。ううん、万年筆でもいい。百円プラス税のボールペンというのは、なんだかそこだけ現実感が残ってしまっていて、興ざめだ。
まぁいいや。
わたしはそこに自分の名前をサインした。
愛澤透子、と。
受け付けるのは日本人なんだろうと思って普通に日本語で書いたけど。
「あ、アルファベットのほうがよかった? ふりがないるかな」
「大丈夫。本人が自分の名前だって認識してればそれでいいんだって」
「なぁにそれ」
わたしは笑って、それから急に視界がぐにゃりと歪むのを感じた。心臓の鼓動が早くなって、息が苦しくなる。わたしは胸を抑えた。
「あ、あれ? なんだろ、急に……。肋間神経痛とかかな……最近寝不足だったから……」
「違うよ」
地面に膝をついてカバンを落としたわたしの肩を抱いて、みきが耳元で囁いた。
「ごめんね」
「え?」
暗転する。
次に目を開けると、そこは光に包まれていた。
「どうも、こんにちは!」
妙に元気のいい、なんだろう、ギリシア神話にでてくるトーガをまとった、水色の髪の女の子がわたしの目の前に立っていて、わたしはびっくりして後ずさった。
「あ、あの、ここは」
「はいぃ。わたくし、神様です! あなたは死にました!」
「……は?」
女の子はあっけらかんと言って、わたしはぎょっとして周囲を見回す。
地面はふわふわして綿みたい。空は薄暗い。満天の星空で、こんなの日本で見たことない。周囲に建築物はほとんど見当たらない。大きな肘掛け付きの椅子……それも石でできているやつ……が、女の子の向こうに見えるだけだ。
「あ、あの……」
「はい?」
「死んだって」
「そうです!」
「本当に? ここは天国?」
「イエス、ノーです。あなたは死にましたけど、ここは天国ではありません。死んだものの魂の次の行き先を決める場所です」
「閻魔様?」
「日本人はみんなそう言いますね。でも違います。違うけど面倒だから閻魔様でもいいです」
水色の髪の閻魔様はフンスと鼻を鳴らして薄い胸を反らせた。
「あなたは契約書にサインしました」
「は?」
「これ、これです」
閻魔様は得意げな顔で一枚の紙を取り出した。どこから出したんだろう? その紙は、ついさっきわたしがみきから受け取ってサインした紙だ。不思議な文字がいっぱい書いてある紙。
「あなた、サインしましたよね?」
「しましたけど……なんて書いてあるんですか」
「あれ? 読めませんか。それか聞いてませんか?」
「何も……」
閻魔様は小首をかしげてから、説明してくれる。
「あなたはこれから、別の世界に行って、そこで戦ってもらいます。そこはいま、アーリオーキ……読めないならわかりづらいか。魔王でいいや。魔王の侵略を受けていて、そいつの兵士と戦う戦士を求めているんです。その世界はわたくしのお友達の世界で……わたくし、スカウトを頼まれたんですね」
「はぁ」
「あなたがサインしてくれたのは、そこで戦う戦士になるっていう契約書です」
「……えええええ?!」
「あなたの魂はもう日本を離れました。肉体もこれから転送されるので、日本からあなたは消えます。消えるったら消えます」
「そんな、急に……なんで……」
みきが渡してくれた紙にサインしたせい。そのせいらしい。どうして。先にみきがサインしていた。ならここにいるのはみきのはず。
「でももちろんタダじゃないんですよ? あー……本来は、ですね」
「どういうことですか」
わたしはがくがくいう膝を両手で抑えながら聞いた。
「丸腰でいきなり異世界で戦えって言われても困るでしょ? だからわたくしからプレゼントをあげることにしてるんです。この契約書でもらえるプレゼントは、”巻き戻し”の能力でした。ちょーレアスキルですよ! 時間を巻き戻すことができるんです!」
「はぁ」
「でも、そのスキル、あなたはもらえないんです」
「……まさか」
「そこに最初にサインした人、その人もここに来たんですけどね、それでスキルをあげたんです。わたくし初めてみました。もらったばかりのスキルを完全に使いこなしてわたくしの裏をかくひと……すばらしいわ」
「あの、詳しく……」
わたしはどきどきする。信じたくないけど、信じたくないけどひょっとして……。
「彼女、すぐさまスキルを使って、サインした直後まで時間を巻き戻したわ。そして素早くサインに横棒を引いて保留状態にしたのね。スキルは戦士と引き換えに渡すから、それで彼女はあなたにサインさせたってわけ。そうすれば、彼女はスキルを持ち逃げできる」
「つまり……」
わたしは乾いた唇を舐めた。震えている。歯の根が合わない。視線も定まらない。その歪んだ視界の中、駆け寄ってきた水色の髪の女の子がぐうっと顔を近づけて、視界いっぱいに、にいっと笑った。
「あなた、裏切られたの」
◇◆◇
わたしはそうして”この世界”に転送された。
契約期間は十年間。十年間たったら、元の世界に戻してくれるらしい。その時に持っていたスキルを持ったままにするか、お金(日本円)に変えるかを選べるんだそうだ。そんなことどうでもいいけれど。
ただしここで十年過ごせば、日本でも十年過ぎている。戻ったら何もかも元通りなんていうものではないらしい。
わたしが転送された世界には、同じように契約書にサインした地球人がいっぱいいた。
彼らは(わたしをふくめて)”冒険者”と呼ばれた。
”冒険者”は年齢も性別も国籍もまちまちだったが、すぐに”この世界”の冒険者ギルドとかっていうところに回収された。特殊なスキルを持った彼ら(私はないけど)を活用して、世界を脅かすアーリオーキという魔王の軍勢と戦わせるのだ。冒険者ギルドの長と名乗ったのは、若い男性だった。
この世界は北の魔王の軍勢に脅かされており、すでに最前線のこの街の周囲には魔物たちがうろついている。
そいつらを効率よく倒して報酬を受け取るというのが、わたしたちの最初の仕事だった。
報酬。
わたしたちは契約して冒険者になったが、労働には報酬が支払われるし、魔物が財宝を持っていた場合それを自分のものにすることも許されている。その報酬は主に生活費(柔らかなベッドやおいしい食事はそれなりに高価だった)や装備の更新(武器はすぐに壊れるし、鎧もがたがくる。魔法のかかったもっといい装備ももちろんあるのだ)に使われるが、もっと大事な使いみちが、わたしにはあった。
違約金である。
冒険者ギルドの長は言った。
違約金を支払えば、契約期間を短縮し、その時点で元の世界に帰れる、と。
違約金の額は、金貨で三万枚。
わたしの所持金は、まだ金貨三十枚と銀貨で六十枚だ。
シルバーの酒場で記帳を終えたわたしは、右手でメニュー画面を開いた。目の前に青くて半透明なステータス画面が現れ、”この世界”の文字で名前や状態、残り体力や持っているスキルなんかが表示されている。
まるでゲームだ。
このメニュー画面を使えるのは、わたしたち冒険者だけらしい。
わたしのレベルは、今は4。所属の欄にシルバーの酒場と文字があるのを確認して、わたしは満足してメニュー画面を閉じた。
みきは嘘を言っていなかった。これはゲームだ。でも確実にわかるのは、遊びでもなければ楽しくもないっていうこと。すくなくとも逃避先なんかじゃ、ない。
さっきのステータス画面の所持金欄を思い出す。ぜんぜん足りない。
わたしは腰に下げた剣の重みを感じた。
必ず戻って、みきに会う。
みきに会って……どうする?
わたしの思考はいつもそこで止まる。
殺すのか?
いつしか殺しに慣れたわたしは……多分できる。スキルがあったとしても彼女は”この世界”の経験はない。女子供を殺すくらいわけない。後ろから近づいて刃を突き立てる。それでおしまいだ。
「みきちゃん……」
わたしはため息をついて思考を中断し、知り合いであるボブのところに向かう。彼はわたしよりもちょっと前に契約していたらしく、わたしがアイアンの酒場に入ったときにはもうカッパーを卒業する寸前だった。アメリカのダウンタウンにいたらしく、そこで食い詰めていたという。わたしからは信じられないことに、彼は”この世界”を楽しんで定住するつもりでいた。
何も解らず一人で荒野を歩いていたとき、彼のパーティに助けてもらった。それから彼は、時々様子を見てくれていた。半年かけてようやく追いついたわけだ。
その途中、聞き覚えのある歌が聞こえてきて、わたしは足を止めた。
さっきの人だ。
薄暗い酒場の中の、一番暗い場所で、木のジョッキで何かを飲みながらぼんやりとしている男性。国籍は判然としない。髭を生やしていて、フードを深くかぶっている。彼はぼそぼそと歌を歌っていて、そして多分途中でやめてしまい、ジョッキを傾けてからまた最初から歌い直しているようだった。
わたしは聞き覚えのあるメロディがなんだったか思い出そうとしたけど、思い出せなかった。
まぁいいや。
わたしは思って、ボブの待つテーブルに座った。
「いよぉ。シルバー昇格おめでとう」
「ありがとうございます」
「カッパーのパーティはどうした?」
「彼らはまだカッパーです。ついてきたいって言ってくれましたけど……わたしは早く昇格したかったから……」
「待たなかったのか」
「はい。昇格すれば報酬もどんどん上がりますし」
「違約金、狙ってんのか。まだ」
ボブはステータス画面を出して(画面はわたしからは見えないが、しぐさでなにをしているかは解る)、インベントリ(所持品欄のこと。余計な荷物は一定量までならここに格納できる。ここに格納された品物は見えなくなるし、重さも感じない)から暖かなチキンとお皿を出して、わたしの前におしつけてくれた。おいしそう。わたしは違約金を夢見ていたからあまり食事にお金はかけていない。先輩のご厚意に甘えることにした。ボブはついでに飲み物を一つ注文してくれる。柑橘類の果汁の入った冷たく冷やした飲み物は、カッパーの酒場にはなかった。おいしい。
「ぜいたくに口が慣れちゃうな」
わたしがチキンをもぐもぐやりながら笑うと、ボブは苦笑した。
「たまにはいいだろ。三万枚は、遠いぜ。そんなに帰りたいか」
「……帰らなきゃならないんです」
わたしはうつむいてつぶやいて、それから思考をそらすべく首を振ってからにこっと笑って、がぶりとマグカップを傾けた。
「クラスはどうしたんだ? シルバーってことは、レベル4だろ」
「魔法戦士にしました。わたし、スキルがないから、できること増やそうと思って」
「悪くないな」
レベル3になったら冒険者はサブクラスを選べる。わたしは最初戦士だった。まわりの冒険者はみんなスキルを持っているから、ただ武器で戦うだけの戦士でも結構いろいろなことができる。たとえばボブは、触れた物体を高速振動させるスキルを持っていた。これを使えばやくざな剣でも大きなダメージを与えられるし、木を切り倒したり石壁を(時間はかかるけど)貫通させたりもできる。本人は「ハズレスキルだよ」と言っていたが。そう考えると、みきちゃんが持っていった”巻き戻し”のスキルがいかにレアかが解る。あれがあればこんなに苦労していない。
とはいえそれは持ち逃げされてしまった。いや、思考が変わってしまっている。そんなスキルなんていらないから、パパとママの待っている家でぬくぬくゲームでもやっていたかった。
ないものねだりは出来ない。わたしはレベル3のサブクラスで、多少魔法の使える魔法戦士を選んだ。専業の魔法使いには及ばないけど、これでわたしの無能力をカバーできるだろう。
「ボブさんは闘士でしたっけ」
「あぁ。その、俺はスキルが近接向きだから、それを伸ばしたほうが、な。それはそれとして、装備はいただけねぇな」
「そうですか?」
「体に合ってないし、なによりそんな革鎧じゃシルバーの依頼では生き残れない。いくら持ってる?」
「え……」
わたしは顔をしかめた。
「そんな顔するな。解ってるよ。お前がカネを使いたくないのは解ってる。でも死んだら元も子もねぇだろ」
ボブはわたしがアイアンのころから、こうして”この世界”の生き方を教えてくれていた。わたしは素直にインベントリから金貨袋を出す。
「金貨で三十枚くらい」
「溜め込んでんなぁ」
「ポーションとか、買わなかったから」
「よく生き延びてこれたな。それだけあれば十分だ……もうすぐ返ってくるはずだから、ちょっと待ってな」
ボブはそう言って、もう一杯わたしにジュースをおごってくれた。
ボブのパーティメンバーが戻ってきたのはその数分後だった。わたしはチキンに加えて小さいバゲットを(こっちは自腹で)平らげて、シルバー昇格を祝った。
「あ、それ、前にボブが言ってた子?」
長い黒髪の女性がひらひらと手を振ってテーブルにつく。
「あぁ。トーコだ。日本人だよ」
「よろしく、トーコ。あたしはキム。ま、ここじゃ地球でどうだったかはどうでもいいよね。盗賊よ。暗殺者。レベルは今8かな」
「あ、トーコです。魔法戦士で、レベル4です」
「4なら力場の盾の魔法が使えるな。なら多少壁にできる」
そう言ったのは後から入ってきた白人男性だ。
「よろしく、トーコ。マリオだ。クラスは魔法使い。学派は占術だよ。レベルは7。大丈夫。警戒しないで。君が警戒すべきなのは僕じゃない。あ、隣いいかな?」
彼はわたしの隣に返事も聞かずに座ると、ぐっと顔を寄せてきた。わたしはその分のけぞる。そのマリオを、金髪を後ろで束ねた少女……と、言っても多分わたしよりちょっと年上……が小突いた。
「怖がってんじゃん。マリオ」
「ごめんよベッキー! もちろん僕は君一筋さ」
「どうだか……。私はエリザベス。ベッキーでもベスでもいいわ。クラスは僧侶。領域は太陽。レベルは7よ」
彼女はマリオを蹴飛ばしてどかすと、私の隣に座ってにっこり微笑んだ。
「よ、よろしく……」
「前にもちらっと話したと思うが」
ボブがわたし以外に向けて言った。
「トーコは俺が昔から目をかけている冒険者で、なんと半年でこのシルバーまで上がってきた有望株だ。そこで、次のクエストに連れて行ってやりたいんだが、どうかな」
「いいよぉ」
マリオが即答してくれる。よかった。わたしは驚き半分安堵半分。
酒場を昇格すると、当然クエストの難易度は上がる。カッパーの酒場ではいいとこゴブリン程度だった。しかしシルバーは4レベルから10レベルほどまでで、用意されるクエストも高難度。おそらく倒すべきモンスターももっと強力だろう。わたしはもともとゲームファンだったから、その仕組みはすんなり理解できた。理解できすぎて、逆にこの世界に違和感を感じるけど、いまはどうでもいい。わたしの目的は世界の謎なんかじゃない。生き残って、帰ることだ。それ以外はどうでもいい。
「いいけど、報酬を5等分は嫌だな」
キムが注文をつける。「半人前なんだから、報酬は少なくていいだろう」
「そうだな」
ボブも頷いた。
「報酬は九で割って、我々は二貰おう。トーコ、それでいいか?」
「半人前の間は、だよね?」
「もちろん」
「ならいい。むしろありがたいよ」
「素直だね」
キムはニコっと笑ってわたしに投げキッスをした。
「長生きできるよ」
「だといいけどな。あぁ、ベス。前に使ってた鎧、まだ持ってるか?」
「チェインメイル? 持ってるけど」
「それ、トーコに譲ってやってくれないか? 体格も近いし……」
「タダで?」
「まさか。六割でどうだ。トーコも」
チェインメイルの相場は、金貨で四十枚ほどだ。売るとそれは半額になる。それが相場。冒険者は手に入れた品物を店で売って、それを多少直したりしてお店は倍額でべつの冒険者に売る。今つけているのはゴブリンから奪った革鎧で、店で売ったら、多分金貨二枚と銀貨五枚くらい。チェインメイルは革鎧よりは重いけど斬撃属性の攻撃に強くてそれでいて動きがあまりにぶらない。欲しいとは思っていたけど高かったし、三万枚という目標額を思うとちょっと買おうとは思えなかった。
「六割。店売りよりマシかぁ。ええっと、何枚だ」
「金貨二四枚です」
「計算早いね。さすが日本人。どう? あんたがよければ売るけど」
わたしはちょっと躊躇する。
金貨二四枚はチェインメイルの価格としては安い。破格と言ってもいい。しかしわたしの全財産を考えるとちょっと高かった。
「いい鎧はつけとくもんだ。生きてりゃお前ならすぐ稼げるよ」
ボブがそう言って背中を押してくれて、わたしは頷いてインベントリから金貨二十四枚をエリザベスに支払った。
ベスが出してくれたチェインメイルは、さすがに女の子が長く使っていただけあってよく手入れされていて、ちょっといい匂いがした。
「ありがとう」
「こちらこそ。あんまこれやるとギルドにいい顔されないんだけどね。あぁ、それ着る前に風呂に入ったほうがいいよ。その革鎧、ちょっと臭いよ」
ベスは笑って、シルバーの酒場の奥を指差した。
シルバーからは酒場にお風呂がついているのだ。有料だけど。
銀貨二枚を支払ってお風呂に入ったわたしは、久しぶりにさっぱりとして中古とはいえよく手入れされたチェインメイルに着替えた。前のゴブリンの革鎧はインベントリにしまう。
「~♪」
なんとなく鼻歌が出て、わたしは自分がまだ歌を忘れていなかったことに驚いた。
なにせこの生活だ。日本でのことは、どんどん忘れていく。
歌は好きだったアニメのオープニングで、そういえば二期を楽しみにしていたんだった。あれから半年。所持金は金貨六枚。二期には間に合うまい。
「こういうことも、そのうち忘れちゃうのかな」
わたしは剣を腰に吊るして、ため息を付いた。
ボブのパーティのひとはみんないい人そうだったけど、みんなすっかり”この世界”に馴染んで見えた。わたしはどうだろう。最初はゴブリンを殺すのにもひどい罪悪感に見舞われた。今は、違う。
「パパ、ママ」
誰もいない脱衣所であることをいいことに、声に出して言ってみる。
唇が日本語を、その言葉を忘れそうだったから。
「パパ、ママ……帰りたいよ……」
言葉に出すべきじゃなかった。頭のなかにさっと懐かしい光景が浮かぶ。家に帰って、今日テストだったんじゃないの? とかお小言言われて、塾がない日ならさっさと部屋に帰って本を読む家ゲームでもやって、夕方にはママと二人でご飯。パパはもうちょっと遅いから、ママはごはんをはんぶんだけ食べてパパとも一緒に食べる。「太るわ」とかいつも困った顔をしていたっけ。お風呂を洗うのはわたしの仕事だからさっさと済ませて、パパが帰ってくる前にお風呂も済ませちゃう。半身浴がしたいから。パパが帰ってきたらお湯を足してわたしはほかほかでテレビを見る。それから勉強をして、眠くなったらスプリングの入ったマットレスのベッドで眠る。それが、普通の日。
でもその普通の日は、もうすっかりおぼろげ。
今のわたしにとっての普通は、クエストを確認していいのがあったら受けて、仲間を募るか入れてもらって狩場に行って、こっちを殺して肉を食らうことしか考えてないモンスターたちの喉を金属の棒でひっぱたいてかっさばき、命を奪ってそいつらの懐から金目の物をいただいて、クエストをこなして日銭を稼ぐ。失敗すればこっちが死ぬ。死んだら終わり。コンテニューはない。なんとか生きて帰ってきて、節約したまずいご飯をのどに押し込んで、小さい板のベッドに横になって眠る。明日も生きていられることを祈って。
それが今。
明日わたしはもういないかもしれない。
あの宿帳のわたしの名前に赤でバツが引かれて、日付を入れられる。あとに残るのは、たったそれだけ。
わたしがいたっていう証拠は、それだけしか残らない。元の世界から消えたわたしを、パパとママは探してくれるだろうか。
……みきちゃんは、なんて言うんだろうか。
わたしは涙が裸足のつま先に落ちるのを見た。
歌を忘れないようにしよう。
”この世界”になじみきらないように。
きっと帰るんだから。
「お、いいじゃん」
お風呂から上がってチェインメイルを着たわたしに、マリオが笑った。
「前の鎧は?」
「インベントリに入れてあります。あとで売っちゃおうと思って」
どちらにせよ、これですっからかんだ。早急に稼がなければならない。ボブのパーティがすぐクエストに行ける状態ならいいけど。
「写真入りで売れば割増になるんじゃない?」
マリオが笑ってエリザベスが彼を蹴飛ばす。その様子を、ボブがきょとんとして見た。
「写真?」
「いや、トーコちゃんかわいいからさ……いてぇ!」
「トーコがかわいいのはいいが、写真……あぁ!! 写真か!! フォトグラフか! ははっ!」
ボブはようやく笑った。
”この世界”に写真はない。
「それよりトーコ。クエストを受けるんだが、ちょっと今揉めていてな。少し待ってくれ」
「なんです?」
見ると、カウンターのところでキムと男性が話し込んでいる。酒場の主人ではない。さっき暗いところで歌っていたフードの男だ。
「仲間に入れてくれっていうんだ。俺がシルバーにあがったころからずっといて、ぜんぜん仕事をしてなかった男だ。どうやら金が尽きたらしい。レンジャーで、レベルは9って言うけど……どうだかな」
男は一生懸命キムに話している。キムはと言えば腕を組んで思案顔だ。
「仲間を急にあんまり増やすと、連携が取りにくくなる。かえって危険が増すこともあるんだ。トーコだけならと思っていたんだが」
「入れてあげるんですか?」
「交渉次第。盛ってたとしてもレベル9レンジャーなら悪くない。クエストは野外だからな」
「レベル9ならもうすぐエレクトラムじゃないですか」
「あぁ。だから本当ならさっさと上に行っちまうんだ。でもやつは多分、ずっとシルバーで仕事もしていない。食うだけならシルバーの報酬一回で半年くらいは食えるからな。切り詰めれば」
「シルバーってそんなに報酬いいんですか」
「知らなかったのか。カッパーとは桁が一つ違うよ。もっとも消耗品も買ったりするから言うほど割は良くないけど」
それならさっきバゲットなんて自腹切らないで白パンでもねだればよかった。わたしはちらっと考えて、それからその考えを振り払った。何を甘えているんだ。ボブにだっていつ裏切られるかわかったもんじゃないじゃないか。なついてどうする。利用するんだ。
そんな話をしていると、キムが向こうから指でVサインを作って戻ってきた。
「交渉成立」
「どうだった?」
「確かにレベル9レンジャーっぽかったわ。なんでいままで仕事をしなかったのかは知らないけど。名前は野伏」
「なんだそりゃ」
「そう名乗ってた……まぁ、珍しくないわね」
わたしは目をぱちぱちする。野伏は言ってみれば職業や通り名だ。人間の……特に地球人の名前じゃない。どこの国の人かもわからない。わたしの様子に気付いたキムが解説してくれる。
「冒険者が長くなるとね、元の名前じゃなく、”この世界”での名前をつけるようになる人がいるの。もう帰るのを諦めたり、帰る気がなくなったり……忘れちゃったりね」
「よくあることさ」
ボブは肩をすくめる。
「俺も、契約期間が切れても再契約するつもりだ。国に帰ってもけちな前科者さ。……あと七年、生きていられればだけどな。それで?」
「あぁ、野伏はね、取り分はトーコと同じでいいって。本当にお金がないみたい。9レベルレンジャーが新米と同じ取り分で入ってくれるなら悪くないじゃない?」
「まぁな」
「ただ、今回のクエストが終わったら抜けるって」
ちらりと野伏の方を見る。彼は準備をするためにインベントリを開いているらしい。弓矢と長剣を帯びている。どちらもそこそこいい品物に見えた。わたしが持っているのはやっぱり拾ったナタみたいな剣だから、これも早く買い換えないとだ。バックパックに必要なものを詰めている(インベントリをいちいち開くよりも便利なこともある)野伏のフード付きのマントで隠れた表情はうかがえない。
「ビビっちまってんじゃねぇの? あのオッサン」
マリオが肩をすくめた。色とりどりの飾りの付いた杖が彼の武器だ。もっとも魔法使いだから、それで殴るわけではないだろう。マリオは露骨に野伏をうさんくさげに見ている。
「役に立つのかね」
「ま、弾除けにはなるよ」
エリザベスがそう言って、インベントリから円い盾を取り出して背中に担いだ。つまりここは、そういう世界なのだ。
◇◆◇
この城塞都市のほど近くの村が数日前消滅した。ただ消滅したのではない。不死者……つまりアンデッド……ゾンビとかそういうたぐい……の連中に襲われたのだ。かろうじて村から逃げ出した青年によれば、ゾンビどもは黒いローブを着た男に率いられていたらしい。
ゾンビに噛み殺された者はゾンビになる。
タフなだけで単体ではそう強くはない動く死体が脅威度2に指定され、カッパー以下の冒険者に回ってこないのはこれが理由だ。
死霊術師は(マリオと同じような)魔法使いの一派で、魔王アーリオーキに仕える人間の裏切り者と聞いている。彼らが村を襲えば、かれらの軍勢はその分大きくなる。放置はできない。
村の人口は三十人ほどだったらしい。
「合わせて五十か六十は相手にする必要があるな」
ボブは目算した。
村までは順調。
ゾンビは昼の日光のもとでは動きが鈍る。昼の日光には太陽神ペロルの加護があるのだと、エリザベスは説明した。だから昼の間はどこかに隠れているだろうと。
野伏はしっかりした作りの長剣の柄を落ち着か投げにもてあそびながら、わたしたちの一番後ろをついてきていた。
口の中で何かぶつぶつ言っていて、エリザベスは気味悪がるし、マリオは侮って軽口を叩くしであまりパーティになじんでいるとは言い難い。
しかしクエストをこなすパーティが別に仲良しこよしである必要はない。
わたしはカッパーに残してきたパーティメンバーの顔を思い出した。彼らはいい人たちだった。「ガンバルから、一緒にシルバーに行こう」と言ってくれたが、わたしは彼らを残してシルバーに昇格した。ぐずぐずしていたくはなかったから。仲間なんて、そんなもんだ。
「?」
わたしはボブやキムからシルバーのクエストの心得や注意点なんかをアドバイスしてもらいながら隊列の中ほどを歩いていたが、ふと野伏のぶつぶついう繰り言が気になって足を緩めた。
歌だった。
野伏はずっと、なにごとか歌っていたのだ。
聞き覚えがある。でも思い出せない。
「歌?」
わたしは野伏に話しかけた。マリオが油断なくこちらを見ているのをとりあえず無視する。彼なりにわたしを守ってくれるつもりなのだ。万一この得体の知れないレンジャーが襲いかかった時に対応できるよう準備している。
野伏はわたしの声に、やっと顔を上げた。
疲れた顔だった。中年の男性だろう。黒い髭にも白いものが混じっている。表情はやはりよく読み取れない。東洋人に見えた。
「日本人?」
わたしは聞いた。歌が気になったからだ。なんという歌だったか。
「日本?」
「あぁ、ごめん、いいわ」
野伏は首を傾げて、わたしは会話を打ち切った。
「村だ!」
先頭を歩いていたボブがこちらに呼びかけた。
「野伏さん、出番だぞ!」
ボブは出発前に作戦を説明していた。
まず村に行き、生存者を探す。もしいれば情報を聞くし、いなければ足跡を追跡してくだんの死霊術師を探す。そして可能なら昼の間に強襲をかける。昼の間なら逃げるとしても地上にさえ出てしまえばゾンビの足はかなり鈍る。逃げ切れるはずだ。
いずれにせよ、野伏あっての作戦だった。
レンジャーには鋭い知覚力のほか、足跡を追跡する技能もある。これはスキルではなく、クラスの能力だ。
村についたわたしたちは、手分けして生存者を探した。ボブとキム、マリオとエリザベスがなんとなくペアになってしまったので、わたしは野伏と一緒に扉を開けて回る。目の届くところにボブかマリオがそれとなくいてくれるのは心強い。こちらも他のペアに何かあったら急行しなければならない。
壊れたドアの向こうからうめき声が聞こえて、わたしは剣を抜いて中に目を凝らした。
子供だった。
子供が短い手足をばたばたさせながらうめいている。
胸に刺さった鋤の柄のせいで歩くことはできそうにない。つまり、ゾンビだった。
「あ……」
野伏が小さく声を上げる。
子供は女の子だったらしかった。死後そう時間が経っていない。粗末な衣服だったが、精一杯の可愛いつぎあてがあった。
「どうしたの?」
わたしが尋ねると、野伏はぐっとうつむいて深い息をついた。
「なんでもない」
野伏が殺すかと思ったがそうする様子がないので、私は注意深くその子供のゾンビに近づき、剣で頭を破壊した。これでゾンビは活動をやめる。
野伏は下を向いたまま、ただ黙っていた。
村では収穫がなかった。
わたしたちは野伏に頼んで足跡を追跡してもらい、死霊術師の足取りを追った。
五十体からなるゾンビを連れているのだ。足跡を隠すことなどできようはずもない。
その間、野伏はずっとぼそぼそと歌を歌っていた。ボブもマリオもキムもベスも、それを咎めようとはしなかった。関わろうともしなかったが。
追跡するうち夜になり、わたしたちは野外で一夜を明かすことになった。
インベントリから食料を出して食べ、毛布にくるまって眠る。
「大丈夫。私のスキルで警戒しておくから」
エリザベスはそう言って胸を張った。彼女のスキルは、周囲をレーダーのように感知する”警戒”らしい。地上にいる相手なら見逃さない、と彼女は自信を持って言った。勉強中にマンガを読んでいるときにお母さんが上がってくるのを感知するには便利だろうな、と思ったが、これは口には出さなかった。解ってもらえないかもしれないから。
「その歌」
焚き火を見つめながらまたぼそぼそと歌う野伏に、わたしは尋ねた。
エリザベスのスキルはあるとは言え、野伏はきちんと周囲にワイヤーを巡らせて鳴子を仕掛けている。レベル9の冒険者の用心深さを感じた。こうできたからこそ、生き残ってこれたのだろう。レベルが5つも違えば、体力はわたしの倍はあるだろうに。
わたしが毛布の中から話しかけると、野伏は顔を上げた。
「その歌、何の歌ですか。知ってる気はするんですけど……気になっちゃって」
「知ってるのか?」
野伏は口を開いた。
「え、ど、どうでしょう。知らないんですか?」
「知っていたはずなんだ」
野伏はつぶやくように言う。ぱちぱちと爆ぜる火の粉が、野伏の髭面を照らした。
「知っていたはずなのに、とちゅうからどうしても、思い出せない」
「……」
「娘がいるんだ」
「娘さんが?」
「あぁ」
野伏はちょっと饒舌になった。
「ここに来る前さ。もう……八年前かな。クリスマスの日だったよ。でもカネがなくて。万引きして捕まったんだ。けちな商品をさ。そうして……君がどうだったかはわからないけど、多分同じだろう。サインして、ここに来た」
「娘さんは……」
「元気ならもう高校生だろうな大学生かな」
「日本の方でしたか」
わたしは試しに、日本語で話しかけてみる。わたしも久しぶりに話す日本語に、唇が震えた。
「懐かしいな……。八年ぶりか……」
野伏はふーっとため息を付く。
「もうすぐ帰れるんだ」
星空を見上げると、月が三つ、輝いている。空気は冷たくて、乾いた枯れ木の焚き火が頼もしい。
「だからあまり無理をしたくないんだよ。ぼくのスキルでも、お金になれば、戻った時に多少は娘に、ほら、ね」
「あぁ……スキルは?」
「”入れ替え”。人と場所を入れ替えるんだ。万引きの時にあったら便利だったろうね……まぁ、あの万引きも、自分でもどうしてそんなことをしてしまったのかわからないけど。疲れていたんだろうな……中学で先生やっててさ……部活と担任持ってて休めなかったから……」
先生が万引きで捕まったらそれはまずいだろう。それはそれとして、野伏のスキルはなかなかの強スキルだと思えた。使いみちは色々あるだろう。
野伏は久しぶりの日本語が嬉しいのか喋りたがったが、わたしは詳しく聞くのはよくないと思った。わたしはまだ帰れない。こんなところで立ち止まっていたくない。野伏はあとニ年で帰れるのかもしれない。でもそれだって生き残ったらの話だ。立ち止まって生き残れるのだろうか。そうは思えない。それにわたしは、十年もここにいるつもりはないし、いたくもない。
「さっきの歌は、娘が好きだったんだ。でも」
わたしは毛布にくびをうずめて眠りに落ちようとした。もう聞かないほうがいい。
「どんどん、忘れてしまって……」
野伏が聞かせるでもなくつぶやいて、また最初から歌い始める。
なんだったか。わたしもきっと、知っているはずだ。
◇◆◇
翌日のごく早い時間に、足跡の行方は見つかった。
古い洞窟である。
五十体からのゾンビを陽光から隠すには、ここしかないだろうと思えた。
「ゾンビって、その、陽の光の下だとどのくらい動きが鈍るんですか?」
わたしが質問すると、ベスが答えてくれる。
「かなり。元々鈍いけど、それがもっと……一つの動作に五割増しくらいに時間がかかると思えばいいかな。それに、陽の光の下だとかってにダメージを受けてくれる。太陽神の加護だね。でも数がいれば別。どんな達人でも囲まれれば食われる」
「ベス」
ボブが注意深く言った。
「周囲に敵は?」
「いないと思う。少し範囲を広げたけど、動いてるやつはいないね……死霊術師は中だと思う?」
「恐らくな。ゾンビをいくら倒してもそいつを倒さないと意味がない。中に入らないで済むならそうしたいが……。中の様子を知りたいな」
「偵察に行くかい?」
「いや、キム姐より俺が魔法を使うよ」
マリオがそう言って呪文を詠唱する。魔法の目の呪文だ。術者は偵察ドローンのような目を作り出し、それを操縦して内部の様子を調べる。青白く光る目玉が現れ、それはまばたきを(ウィンクのつもりだろうか)わたしとベスに投げてから、すーっと洞窟に入っていった。
「そんなに広い洞窟じゃないな……あぁ、ゾンビが転がってる。魔法の目が臭いを探知できなくてありがたい。ベスのスキルは地下には届かないから気づけなかったのか」
マリオが目を閉じたまま実況する。
「広間に出た。明かりはないな。暗い。大きさはそうだなぁ。直径で20メートルくらいかな……。ゾンビの数が少ないぞ。共食いでもしたかな」
マリオの言葉に、ボブがぎくりとする。
「野伏、地面を調べてくれ」
「……あぁ」
わたしも足元に目を凝らす。足跡は確かにこのあたりで終わっていた。地面は湿気を含んでいて、黒土だ。雨なんてここ数日降っていないのに。言われてみれば、妙に柔らかい。
地面に這いつくばっていた野伏がぎょっとしたように跳ね起きた。その襟を、青白い手が掴んでいる。彼はマントを落とすことで、それから逃れた。ぼこり、と地面が凹み、地面から死体が土を押しのけて現れる。ゾンビだ。彼らは呼吸をしない。彼らは労役をいとわない。そしていつまででもその場所で待ち続けることができる。彼らを日光から隠すのに、必ずしも大きな空間は必要なかったのだ。埋葬すればいい。
「しまった!」
すでに周囲からは複数の手が伸び、ぼこりと目玉のない眼窩がこちらをねめつける。
囲まれている。マリオは慌てて呪文を中断した。
「中からも出てくる!」
「でしょうね!」
エリザベスは盾を構えて、それでマリオに襲いかかろうとするゾンビを押し返した。
ボブは大剣を抜き、彼のスキルで高速振動させる。周囲の空気が震えた。ゾンビは触れただけでばらばらになって吹き飛ぶ。しかしその手は、その足は動きを止めない。腐り始めた内臓を撒き散らし、魔王の呪いにあやつられたかつての村人たちは、わたしたちの温かい血と肉を求めてその泥の詰まった爪を振り上げた。
「固まれ! 円陣を組め! 足元に気をつけろ! 一旦引くぞ!」
ボブが素早く命令する。
「トーコ! こっちに!」
「どこかに術者がいるんじゃ……」
「ゾンビを正確に動かすには見えてるところにいるはずだ。ベス!」
「今は集中できない! 無理よ!」
「さっきベッツィのスキルにひっかからなかったのはどうして?」
「……魔法の目だ」
キムの言葉に、ボブがゾンビを切り飛ばしながらうめいた。
「スキルじゃない。魔法だ。こっちができるんだ、向こうもできると思っておくべきだった。眼を飛ばして警戒していたんだ。多分今は、ゾンビに紛れて洞窟から出てきている……」
スキルは固有だが、魔法はクラスによって獲得できる能力だ。わたしもレベルを上げれば魔法の目は使うことができる。
「陽光の下だとゾンビは死ぬんじゃなかったのかよ」
マリオが悲鳴を上げてベスに文句を言う。
「壊れるわ。でもこの数じゃ、その前にこっちがすり潰されるかもね。確かに術者は今は近くにいると思う……無差別に動かすならともかく、きちんと統制を取ってるから……」
「隠れ身の魔法?」
「かも、でもずっとは使えないはず。どこか……どこかにいるけど……」
多すぎた。五十体を一度に戦う計画にはなっていなかった。死霊術師を倒せばすべてのゾンビは動きを止める。先に相手を見つけ、暗殺者であるキムが仕留める手はずを、ボブは考えていたのだ。
インベントリを開く暇がない。用意のいいキムは腰に可燃性の油やポーションを下げているが、ベスやマルコは消耗品はインベントリの中らしい。わたしに至ってはそもそも持っていない。
わたしは目の前のゾンビを打ち払うので必死だ。彼らはタフで、わたしの剣で頭蓋を突き破るにはかなりの腕力がいる。円陣を組んでいるから動きまわって回避することもままならない。噛まれたら終わり。ゾンビになる。そんな前情報が、わたしの心に恐怖をもたらす。わたしも、こうなる。
それでもパニックに陥ってめちゃめちゃに剣を振り回したりはしない。冷静に。なるべく冷静に。ゾンビの爪は、新しくベスから購入したチェインメイルに任せる。頑丈な鎖帷子はよくわたしを守ってくれていた。わたしの隣は野伏だ。
「!」
ゾンビの飽和攻撃をさばききれなくなっている私よりも、さすがにレベルが高い。わたしのほうにまで手を回す余裕がある。彼は腰の長剣を抜いて刃を閃かせた。わたしに噛み付こうとするゾンビの口の中に剣をぶち込む。
「ありがとう」
わたしはゾンビの腐った血を浴びながら礼を言ったが、野伏は聞いていなかった。
口の中で歌を歌っているのが聞こえる。例の、娘さんに歌ってあげていたという歌。途中までしか覚えていない歌。なんだっけこれ……わたしも知ってる……。小さい頃によく聞いた、歌。
「術者を見つけられないのか! 囲まれてこのままじゃ撤退できん! すり潰されるぞ!」
「スキルを使う余裕がないのよ!」
「目を凝らせ! どこかで見ている! キム! 円陣が崩れる! 油はダメだ! 燃えたまま食いつかれると手がつけられんぞ!」
「そうは言っても……」
「ベス! なんとか集中してくれ! その間俺が引きつける!」
ボブは大きく振動剣をふりまわし、円陣の担当範囲を大きくした。マリオはありったけの防御術をベスに施す。しかしそのせいで、群がるゾンビを押し戻す円陣はきしんだ。
わたしは焦った。
このままではまっさきに死ぬのは、多分いちばんレベルが低いわたしだ。必死で剣を握る。みきにもっていかれたスキルがあれば。ゾンビが出たときに巻き戻せば、きっとこっちが不意を打てた。ないものを言っても始まらないけれど。
「死ねない……」
隣でぼそりと野伏がつぶやいた。
わたしはぞくっとした。
予感がした。
彼があと二年で契約期間を終える事は知っていた。ぼそぼそといつも歌っていた歌の娘さんに会えることも。
「野伏、だめ」
彼はちらりとこっちを見た。口の中であの歌を歌っている。そして次の瞬間。
野伏のいた場所……つまり、わたしの隣に、ゾンビが現れた。一方の野伏はかなり離れた茂みの脇に瞬間移動している。
スキルだ。
野伏の”入れ替わり”のスキルだった。
そのゾンビは群から少し離れたところにいて、そいつと入れ替われば確かに野伏は逃げることができるだろう。彼は、そうした。
円陣は崩れる。
野伏は、あの歌の途中までを残して、消えた。
があっ、とゾンビが口を開けてわたしに掴みかかる。
「あの野郎!」
マリオが吐き捨てた。私はそれどころじゃない。肩を噛みつかれる。チェインメイルで阻むことができたが、脳のリミッターのないゾンビの咬合力は生きているときより強い。ごきり、と鎖骨がきしむ。
「あぁああ!!」
「トーコ!」
ボブが叫ぶが、彼は目の前のゾンビどもにかかりっきりだ。エリザベスはスキルの集中を続けている。わたしは剣を落として、ゾンビの額を握った。ぐっと押し返す。別のゾンビが掴みかかってくる。蹴飛ばす。かみついていたゾンビを引き剥がす。そのゾンビにキムが短剣をぶちこんで沈黙させる。しかし崩れた円陣では持ちこたえることが出来ない。群れに飲み込まれる。
「パパ、ママ……」
わたしは子供のように悲鳴を上げた。
「みきちゃん……」
その時、わたしははっと思い出した。
野伏がずっと歌っていた歌。わたしも子供の頃大好きだった。なんで忘れてたんだろう。
「野伏!」
わたしは叫んだ。
茂みの脇で、野伏がちらりとこちらを振り返る。
「アンパンマン・マーチだよ! アンパンマン!」
言わずと知れた子どもたちのヒーロー。愛と勇気を友として、みんなを守り最後まで戦う。子供向けのアニメ番組のキャラクターだ。そのメインテーマ曲。走馬灯のように歌詞とメロディが浮かび上がった。そうか、これだったんだ。野伏がずっとぼそぼそ歌っていたのは。忘れてた。思い出せなくなっていた。”この世界”の生活はあまりに過酷で、どんどん馴染んでいってしまう。そして忘れてしまう。元の世界を。元の自分を。
ゾンビがわたしに襲いかかる。今度こそ、たすけてくれるものはいない。剣は落としてしまって、今は丸腰だ。
「みつけたぁ!!」
きんっ、という澄んだ音とともに青白い光が波紋のようにエリザベスを中心に広がったのが見えた。スキルが起動したのだ。ベスが叫ぶ。
「その茂み!!」
ベスが指差したのは、野伏のいる茂み。
死霊術師はその茂みに隠れているのだ。野伏がはっとしてそこを見る。
「逃げないで!」
わたしは叫んだ。野伏が術者を倒せば、みんな助かる。だが、野伏はそうするだろうか。彼は生き残りたいのだ。生きて娘と再会して、きっとあのアンパンマン・マーチを歌いたいのだ。
「キム!」
ボブが叫ぶ。キムはくっと息を止めると、茂みに向かって駆け出した。すごいスピード。途中のゾンビをすりぬける。あれがきっとキムのスキルなんだろう。でも数が多い。本当にこれ日光で鈍くなってるのかな?
ベスが盾でゾンビを跳ね飛ばす。今はわたしのものとなっているチェインメイルがきしみをあげる。鎧を着ていないところを噛みつかれていないのはただの幸運だ。
「野伏!」
わたしの視界で、野伏がぐらりと揺れた。
茂みから飛び出したゾンビが、一瞬動きの止まった野伏を襲う。首に噛みつかれている。マントはもう捨てている、あれば助かったかもしれないけど。野伏はそのゾンビの首に剣を当て、大きく薙ぎ払った。ゾンビは倒れ、そのうしろから黒いフードつきのローブをまとった人間の男が姿を現す。あれが術者だ。そいつはよろめく野伏に、持っていたうねるようにゆがんだ短剣を突き立てた。
「きゃあっ!」
キムの声が聞こえる。茂み……術者に殺到する最中で、ゾンビに捕まったのだ。彼女の身のこなしなら噛まれることはないだろうが、足が止まる。
わたしは見ていることしか出来ない。シルバーのパーティがすり潰されるのを。
野伏の手からぽろりと長剣が落ちるのが見える。マリオが自分のローブが裂けるのもかまわず呪文を唱えて術者に魔法の矢を放つが、それは術者の力場の盾の呪文で防がれた。
ゾンビが眼前に迫る。日光に焼かれてくずれかかっている。だが、わたしを殺すには十分だろう。
次の瞬間、わたしの目の前にいたのはゾンビではなかった。
黒いローブを着た男が、わたしの目の前でねじくれた短剣を携えて立っている。驚いた顔。わたしの足元には野伏の長剣が落ちている。わたしは考えるよりも早く、その剣を拾い上げた。腰だめにして男に突きこむ。ずぶり、と、随分と簡単に、刃は死霊術師の体に食い込んだ。ひねる。ごぼり、とそいつの口から血があふれ、彼は逆手に持った短剣をわたしの背中に突き立てた。焼けるような痛み。わたしはそれでも野伏の剣を離さず、そのまま体重をかけて男を押し倒した。えぐれ、切り裂かれた男は、地面で一回もがくと動かなくなる。
わたしたちを取り囲んでいたゾンビは地面に倒れ、ただの死体に戻った。
◇◆◇
野伏は助からなかった。
わたしはすぐに駆け戻って、わたしを場所を”入れ替え”た野伏を助け起こした。喉を食いちぎられた野伏は、ひゅーひゅーと呼吸の音を漏らしている。
「なあんだ。アンパンマンか」
野伏はごぼごぼという喉の奥で、しかしほっとしたように言った。
「よかった。覚えていて」
彼は日本語でそう言って、すこし歌うと、事切れた。
でもその歌は、きちんと最後のほうだった。
クエストは成功。死霊術師はそこそこ金目の物を持っていて、わたしたちは予定の報酬にありつくことが出来た。
「魔王の力が強くなっているようだ」
と、冒険者ギルドの長は言った。つまり、陽光の下でもゾンビは言うほど弱くなっていなかったのだ。
野伏の装備は、売りさばいてしまう。
インベントリに入っていたものはもう取り出せないから、たいした金額にはならないけど。
でも剣だけはわたしがもらった。
「持っといてやれ」
と、ボブが言ったからだ。
「新しいの必要だったろ。なかなかの品だ」
たしかに野伏の剣は、わたしのレベルで持つには贅沢なくらいのしっかりした逸品だった。
「それに、あの男を最後に救ったのは、たぶんお前なんだよ。それをトーコが自分のものにしても誰も文句は言わんさ」
「そうかな」
「そうさ」
ボブはドレッドヘアを揺らして頷いた。
「あいつのこと、何か知ってるか? 何か話してたろ。日本語で」
「ほとんど知らない。娘さんがいるらしいけど」
「そうか」
ボブは空を見上げて、それからぽつりと言った。
「あいつのこと、何となく分かるよ」
「そう?」
「あぁ。命のやり取りしてると……それを当たり前にやってると、だんだんそれに馴染んできてしまう。言葉も、考え方も。忘れていくんだ。今までの自分を」
そうかもしれない。わたしだってそうだ。忘れていた。ワンフレーズも聞けば思い出してもおかしくなかったのに。たった半年の間の”この世界”の生活で。わたしも忘れていくのだろうか。パパのこと、ママのこと、学校。それに、みき。忘れてたまるか。
「そういう冒険者はいっぱいいる。俺だってそうだ。そうして”この世界”の人間になっていく。違う人間になっちまう。そうなったら契約期間を終えても、違約金を払っても、なにがなんだかわからない……」
ボブはわたしの頭に手をおいてくしゃっとなでた。子供扱いされているようで気分が悪かったが、その手を振り払おうとは思わなかった。
「きっとその……マーチ? 歌が、あいつがしがみついてたものだったんだろうな……。忘れたくなかったんだろう。だからずっと仕事もしていなかった。”この世界”にこれ以上馴染みたくなかったんだろう……想像だがね」
「そうかもね」
わたしは言って、シルバーの酒場のカウンターにいるひげもじゃの男の前に立った。彼はノートを取り出して広げてくれる。
ぱら、ぱらとめくっていると、その中に一つ、名前を見つけた。
よれよれの日本語で、高津健二、と書いてあった。ふりがなのつもりだろう。その隣に、”この世界”の文字で”野伏”とある。ひょっとしたら、自分の名前を読めなくなっていたのかもしれない。手だけが字を覚えていた。
これが彼の名前だったんだ。
ひげもじゃの男は黙ってわたしに、赤いインクのペンを差し出して、わたしはそれを受け取って、その名前にバツを引いた。日付を記入し、ペンを返す。
これが野伏の墓標。高津健二という男の墓標だ。たったこれだけ。
”この世界”に転送された彼は、もういちど娘に会うことを夢見ながら、最後まで歌えなくなった歌に必死でしがみつき、そしてここで一ページにも満たないインクのシミになって消えた。
わたしは踵を返す。
これが今のわたしたちだ。
ボブも、マリオも、キムも、エリザベスも、カッパーのみんなも、もちろんわたしも、明日こうなってもおかしくはない。たった数行の己の命。”この世界”に馴染まなければ、確実にこうなる。しかし。
わたしは口の中で、小さく歌を歌った。彼を忘れないように。わたしを忘れないように。
暗い酒場だった。
その暗い酒場のさらに暗い隅っこが、彼の指定席だった。
END
冒険者たちの行進曲 @hirabenereo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます