3-5 ナギ部長の助言
その後はビジネスホテルで一泊し、翌日は商店街、遊園地、水族館を見て回ってから職場へと戻った。
商店街も遊園地も水族館も『本と果実と魔法の館』で抱いた違和感とは違う素朴な雰囲気があって、それがまた乃衣の心を迷わせる。
三つ目の聖地候補である浪木島には一週間後に向かう予定だ。
薄木原町と風ノ瀬市の資料をまとめたり、浪木島のスケジュールを見直したり。この一週間の間にもやることはたくさんあった。
事務仕事には慣れている。だけどなかなか集中できない自分がいて。何度「はあ」と心の中でため息を吐いたかわからない。
梨那はまだ、「どっちが良いと思う?」とは聞いてこなかった。本当は三つ出揃ってから考えた方が良いのはわかっていたが、乃衣はどうしてももやもやしてしまう。
すると、
「桜羽さん、ちょっと良い?」
梨那――ではなく、部長の渚に声をかけられた。しかも、わざわざ乃衣のデスクまでやってきて。
「あ、す……すみません。今、ぼーっとしてましたよね。気を付けます」
肩をトントンと叩かれ、乃衣は思わず背筋を伸ばす。
ずっと梨那から「サクラちゃん」と呼ばれていたのもあって、「桜羽さん」と呼ばれることが逆に不思議な感覚だった。
「ふふっ、大丈夫よ。さっき猫塚さんがスケジュール詰め込みすぎたーって唸ってたから。それに桜羽さんにとっては初めてのプロジェクトでしょう? 緊張して疲れるのは当然のことよ」
口元に手を当てながら柔和に笑う渚の姿に、乃衣の心は少しだけ落ち着く。
いつもクールで大人な雰囲気を漂わせている渚だが、口を開くと一気に優しい印象へと変わるのだ。部長という立場のはずなのに、渚は一番話しかけやすい先輩だった。
「それに……。桜羽さん、今凄く悩んでいるところでしょう?」
「えっ、あ……はい、そうです。色々と難しいなと……思いまして」
「そんなに困った顔をしなくても良いのよ。結局は『花束とアンドロイド』のためのプロジェクトなんだもの。たまにはパートナー以外に相談するのも大切なことよ」
言って、渚は「ね?」と小首を傾げてみせる。あまりにも愛らしい姿に、乃衣は一瞬キョトンとしてしまった。
渚は乃衣にとって上司だが、同時に人生の先輩でもある。
三児の母であり、『未来聖地巡礼案内所』に入社して二十年目の頼れる先輩。元々は『ドラマ・映画・一般文芸部門』に所属していたが、子供が生まれたのをきっかけに『アニメ部門』に異動したらしい。
アニメのことはまだまだ勉強中、と渚は言っている。
しかし、「子供達の好きなアニメに寄り添っていきたい」という想いを抱く彼女の姿はいつだって頼もしかった。
「あの」
ちらり、と横目で梨那のデスクを確認する。
トイレにでも行っているのか、そこに梨那の姿はなかった。
「夕桐部長にも報告しましたが、二つの場所を巡ってきたんです。……良いところもあれば、想像とは違うと感じてしまうところもあって。まだもう一つ聖地候補はあるのに、早くも悩んでしまって」
渚の優しい視線に甘えるように、乃衣は本音を吐露する。
すると渚は「なるほどねぇ」と呟きながら腕組みをした。ほんのりと緩む口元に大人の余裕を感じる。
(これは誰もが通る悩みってことなのかな)
もしかしたら、ベテランの渚からしたらほっこりするような悩みを打ち明けているのかも知れない。そう思うと何だか恥ずかしくなってきて、乃衣は身体を縮こませた。
「そうねぇ……。桜羽さんは最近、熊岡監督の作品は観た? それか『スタジオプリムラ』の作品とか」
「え、あ……。最近は観られてないですね。『花束とアンドロイド』の資料ばかりで」
「だったら一度観てみると良いわよ。作品を通して伝えたいメッセージは一貫していると思うし、頭の整理にもなると思うから」
言いながら、渚は何故かあらぬ方向にウインクを放つ。
えっ? と思いながら渚の視線を辿ると、そこにはトイレから戻ってきたらしい梨那の姿があった。
「ね、猫塚先輩……」
「何々、あたしに内緒でナギ部長に相談なんてずるいじゃん。あたしもナギ部長に甘えたい!」
「え、そこなんですか」
小声で突っ込みを入れながらも、乃衣は内心「まぁ、気持ちはわかるけど」と思ってしまう。普段はクールなのに、口を開いた途端に放たれる圧倒的な包容力ったらないのだ。熊岡監督の作品を観ると良いというアドバイスも的確で、乃衣は早速帰宅したら観てみようと考えている。
「夕桐部長。……あと、猫塚先輩も。熊岡監督の作品を観て、一回頭の中を整理してみます」
言って、乃衣は二人に向かってお辞儀をする。
もやもやとしていた心は少しだけ落ち着いていた。ずっと『花束とアンドロイド』のことばかり考えていたから、熊岡監督の別作品を観るなんて発想、乃衣にはなかったのだ。「これからこれをすれば良い」という目標が見つかるだけで、人はこんなにも安心感に包まれるのだから不思議である。
「サクラちゃん」
「な、何ですか。もしかして、猫塚先輩じゃなくて夕桐部長に相談したのを怒ってるんですか?」
「別にぃ? そんな子供っぽいことで怒ったりしないよー。ただちょっと、違和感あるなら言ってねって伝えたはずなのになーって」
「…………そのことは、本当にすみませんでした」
先ほどのお辞儀よりも深く、乃衣は梨那に頭を下げる。
梨那は別に本気で怒ってる訳ではないのだろう。まるで不貞腐れた子供のような梨那の姿は、むしろ場の雰囲気を和ませようとしているように見える。
だけど乃衣は「難しいな」と感じたことを梨那ではなく渚に打ち明けてしまった。その事実は何も変わらないのだ。
「良いって良いって。あたしもあの時の違和感を打ち明けられなかった訳だからさ」
「そう、なんですか……?」
「そりゃあね、あるよ。色々。……だからさ」
珍しくぼそぼそとか細い声を漏らしながら、梨那はじっとこちらを見据える。
黒紅色の猫目に、ピンクアッシュのツインテールに、ちろりと覗く八重歯。もう何度も見てきた梨那の姿のはずなのに、今は不安定に揺れている。
悩んでいたのは自分だけではなかったのだと感じた。ちょっとだけ嬉しくて、乃衣は一歩、梨那に近付こうとする。
しかし、
「あたし、くまお監督作品のBDいっぱい持ってるから。あたしの家で観ない?」
――近付いて来たのは、梨那の方だった。
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