セミ(1)

 どおっ、と急に強い風が吹いてきて、葵は坂道の途中で足を止めた。

 枯れ草と夏草が入り混じる左手の畑の跡で、お腹の黄色い鳥が餌を探してちょこまかと動いている。その鳥は足を止めた葵に気づくと、パッと飛び立ってどこかへ行ってしまった。

 どこか遠くから、大きな木に固まっているらしいセミの声が聞こえてくる。地元にいた頃は街中まちなかで、降るようなセミの声にうんざりしていたのに、ここではむしろ涼しげに聞こえるのが不思議だった。

 風に揺れる夏草のむっとするような匂いも、暑さを更に際立たせるものだと思っていたのに、今は少し清涼感せいりょうかんのある匂いに感じられる。


「おばあちゃん、容態ようだいが良くないから入院期間がびたんだって」

 今朝がた電話を受けた姉が、少し暗い顔でそう言った。

 祖母の病名を、葵は知らない。いや、これほど長い期間預けられていることでうすうす察してはいるものの、誰も葵にははっきりと教えてくれなかった。

 昔はおばあちゃん子だった葵が、必要以上に心配しなくて済むよう、みんな気を使っているらしい。それでなくとも今年は高校受験を控えている身だ。それは分かっていた。

 それでも、肝心なことを教えてもらえない立場が、今は苦しかった。

 ここへ預けられたときは、あまりに何もない環境がつまらなくて帰りたかったが、今はただただ祖母が心配で帰りたい。そう思っても、葵はなかなか言い出せなかった。周りの気遣いを無にするようなことは、口に出しにくかったからだ。


 風がやむと、再び辺りは静かになった。葵は整理の付かない思いを抱えたまま、いつものように温室へ向かった。



「おや、今日はずいぶんと元気がありませんね」

 温室に足を踏み入れるなり、片目の男がそう言って足早に葵の元へやってきた。

 その男の出で立ちが、いつもと違っていた。掃除でもしていたのか、着物の上に白衣ではなく割烹着かっぽうぎを着て、頭に三角巾を巻いている。右手にはハタキを持っていた。

 一目見た瞬間、葵は軽く吹き出してしまった。普段はどこかとらえどころのない姿をしているのに、こうなるといっぺんに所帯しょたいじみて見える。


「何も笑うことはないじゃないですか、お嬢さん……。ここだって時々は掃除しないと、埃が積もったらくしゃみが止まらなくなるんですよ」

 などと言い訳されて余計に笑いだした葵を、男は温室の裏手に導いた。

 掃除のためなのだろう、そこには椅子や踏み台などが出してあった。葵がいつも使っている揺り椅子は、あの葉先が三つ又になっている木の下に置かれていて、涼しげな木漏れ日を浴びていた。

 男はそこへ真っすぐ葵を導くと、一つだけ出してあった虫かごを手渡した。そのまますたすたと温室に戻っていく男に、葵は慌てて声を掛けた


「えっ、ここで聞いてていいんですか? 掃除のお手伝い、した方がよくないですか?」

 虫かごだらけの温室は、さぞかし掃除が大変だろうと思われた。裏口に案内されたのは、てっきり手伝いを頼まれるのだろうと葵は思っていた。

 男はえっ、というように目を見開いて、少しの間、迷うように口元に手を当てていた。しかしすぐ思い直したのか、葵が持っている虫かごを指さした。

「その虫かご、今朝からお嬢さんを待っていたんですよ。聞いてあげてください」

 そう言って、男はにこりと笑うと温室に戻っていった。

 男がそう言うのなら、と葵は揺り椅子に腰かけ、虫かごを膝に乗せた。

 明るい屋外でも、虫かごの中心はほんのりと光って見える。すぐに声が聞こえ始めた。


「妹はもう目を覚まさないのでしょうか? 私はあの時止めておけば良かったと、ずっと後悔しているんです。どうか、妹を助けてください」


 出だしから聞こえてきたその言葉に、葵は思わず体を乗り出して虫かごに耳を寄せた。

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