カマキリ

「自分でもよくわからないんですけど、やっぱり怖いんです。いつか本当にとんでもないことになる気がしてて」


 今日も葵は薄暗い温室の中、揺り椅子に座って光る虫かごをじっと見つめ、そこから聞こえてくる声に耳を傾けていた。

 常にざぁあ、と雨音がしている温室だが、虫かごの声を聞いている間は、その音は小さく小さくなっている。あるいは葵が声に集中しているために、耳が他の音を無意識に遠ざけているのかも知れない。いずれにせよ、静かな雨音は、人の話を聞くのには心地よく落ち着く音だ。



「私よく、間一髪とか紙一重とか、そういう状況で助かることがあるんです。助かってるんだからいいじゃないかと思うかもしれないですけど、本当に肝が冷えるくらい危ないことばっかりで。

 え、もっと具体的に、ですか? うーん、本当に思い出すのも怖いんですけど、そうですね、最初は交通事故だったと思います。


 私がまだ幼稚園に通っていた頃のことです。いつもの停留所でバスを待ってたら、そこにカマキリがいたんですよ。何カマキリかはもう分からないんですけど、大きなカマキリでした。子供の私の手のひらには乗らないくらいだったし。

 ただそのカマキリ、普通じゃなかったんです。なんだか動きがおかしいなぁと思って、ひょっと捕まえてみたら、頭がなかったんですよ。もうびっくりしちゃって。

 慌てて手を放してよく見たら、二つの目がこっちをぎろっとにらんだのが見えたんです。それで更にびっくりしてよくよく見たら、胴体から細い管みたいなのが伸びてて、首はそこからぶら下がってたんです。


 私思わず悲鳴を上げて走り出して、それですぐに転んじゃって。そこにバスが突っ込んできたんです。バスの運転なんて運転手さんによりけりですからね。停留所が近づいたら減速してゆっくり来るバスもあるけど、その時は止まれればいい、みたいな感じで停留所に勢いよく来るバスだったみたいです。私もう、怖くて全然動けなくて。これで死ぬんだって、子供心に思ったんです。

 でも運よくと言うか、バスはギリギリで私の前に止まったんです。顔の前に壁みたいにバスが迫ってて、あと1秒バスが動いてたら死んでたと思うんです。

 それまではそんな経験したことなかったんですよ。一緒にいた母なんか、顔面真っ青で泣くわ怒るわ謝るわで大変だったし。でもそれで終わりじゃなかったんです。


 小学生の時、遠足があったんです。ちょっと離れた公園までみんなで歩いていくんですけど、その時一つだけ大きな道路を渡る必要があって。

 私たち、先生の後について大人しく待ってたんです。信号が変わったら急いで渡れって言われてたから、見逃しちゃいけないって思って。

 そしたら、いきなり右から来た車が突っ込んできたんです。後で知ったんですけど、いわゆる軽トラだったらしくて。学校の近くに家があるけど、子供嫌いで近所では有名な人だったらしいです。

 先生は皆を庇おうとして真っ先にはねられて、それでも車は止まらなくて、私の前にいた子たちがどんどんかれて。

 私ももうダメだって思ったんです。このままみんなと一緒に轢かれるんだって。でもガツンって音がして、目の前で軽トラは止まったんです。

 どうやって止まったのかはもう分かりません。当時はすごいニュースで騒がれたらしいですけど、私は転校させられたし、親は話したがらないし。


 子供の頃はそういう交通事故がすごく多かったです。交通事故って言っても、私はなぜか無傷なんですけどね。

 高校時代は自転車で走ってたら、後ろから友達が来て、振り返った一瞬の間に前から車が走ってきたことがありました。

 細い生活道みたいなところで、普段なら車は通らない道だったんですけど、なぜか勢いよく走ってきて。たまたま友達に呼び止められてなかったら、向こうが急ブレーキ踏んでても間に合わなかったと思うんです。

 大学にいた頃も似たような感じで、市内電車に轢かれそうになったこともありましたよ。停車駅を一つ間違えた電車が、急にバックしてきたんです。今通り過ぎたと思ったのに、バックしてくるなんて思わないじゃないですか。

 その時は幸い、車掌しゃしょうさんがすぐに気づいてギリギリで止まってくれたんです。カーブの途中じゃなかったら、私がそこにいるなんて誰も気づかなかったでしょうけど。


 大人になってから、ですか? それはちょっと話しにくいんですけど、私仕事で大変なミスをしちゃって。クビにされるところだったんですけど、その翌日たまたま同じオフィスにいた人が入院しちゃって。一度に二人もいなくなったら回らなくなるからって、今回だけだぞって会社に残してもらえたんです。

 仕事中も色々ありましたよ。重いものの移動の時とか、なぜか脳天からコピー機が落ちてきた時は本当、馬鹿みたいにぽかんとしちゃって。幸い私を飛び越えて真後ろに落ちたんですけどね。


 ああ、そうそう、なんでここに来たのかって事ですよね。最近まで気づかなかったんですけど、私、こういうことが起きるたびにあのカマキリを思い出すんです。

 そもそも最初の事故が、あのカマキリにった直後でしたし。そういう話を同僚にしたら、ここに相談してみたらって言われたんです。

 どうなんでしょう? 私、あのカマキリのせいでこうなってるんでしょうか? そうですか、やっぱりそうですよね。

 じゃあ、お願いします。これ以上何か起こる前に、この因縁いんねんを断たせてください」



 ざぁあ、という雨音が耳に戻ってくると同時に、片目の男がすっと盆を持って現れた。

 しかし今日は、その上に何も載せていなかった。コップが二つ載っているが、どちらも空だ。どういう事だろうと葵が顔を向けると、男はにっこりと笑って、葵が持ってきたトートバッグを指さした。

「今日は食べ物を持っていらしているでしょう? あなたが握ったおにぎりが、二人分」

「ちょっ、なんでそれを!」

「人に作ってもらう食べ物は美味しいですからねぇ。ぜひいただこうと思いまして。水も井戸水でしょう?」

「だからなんでそれを! ……まぁ、食べてもらうために作ったんですから、別にいいですけど」


 そもそも生きた人間なのかどうかも怪しいような男に、なぜ分かるのかと尋ねるのも無意味な気がして、葵はすぐに追及を諦めた。

 弁当箱を取り出して、ラップに包まれたおにぎりを男に差し出し、ついで水筒からコップに水を注ぐ。味気ない弁当、といったところだが、それを受け取った男は、それそれは嬉しそうに笑って、葵のおにぎりにかぶりついたのだった。

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