ゴキブリとユスリカ(1)
「……ですからどうか、お願いします。この悪夢から解放してください」
いつも通り話が終わり、虫かごからふっと光が消えていく。それを見届けてから、葵はかごをそっと持ち上げた。
今日はずいぶんと嫌な話だった。話していたのは女の人で、真冬に
寒さのためかゴキブリは動きがノロノロしていて、今にも死にそうだった。それを見かねての事だったのだが、ゴキブリが煎餅を食べ始めた途端、その場にアシダカグモが現れて捕まえてしまったという。
その日の夜、夢の中で彼女の布団の周りを大量のゴキブリが囲んだ。まるで仲間を餌で誘い出したと恨んでいるかのように、キチキチと羽音を立てるゴキブリ。そこへアシダカグモが一匹だけ現れて応戦するも、徐々に食われていくのだ。ついに自分まで食われるというところで目が覚め、以来同じ夢を毎晩見るのだという。
「ずいぶんお疲れですね。あまり気持ちのいい話ではありませんでしたか」
「ここで気持ちのいい話なんて聞いたことないけど……うん、確かにそうですね。今日はちょっと、ひどかったです」
顔をのぞかせた片目の男に、思わず反論しかけてから、葵は素直にうなずいた。
虫が苦手な葵にとって、家の中まで入ってくるゴキブリやクモは一番怖い虫だ。それが毎晩、しかも大量に出てくる夢なんて見た日には、ちょっと正気でいられない気がする。
毎日虫かごから話を聞いて、「これは確かに怖いなぁ」と思いながら聞いていたものの、この温室にやってくる相談者の気持ちまでは、葵はこれまでさほど考えたことがなかった。
ここに虫かごがあるという事は、彼らの問題はすでに解決しているはずだから、というのももちろんある。しかしそれ以上に、同じ体験をしたことがないせいか、実感として理解できない話が多かったのだ。
しかし今日の話は違う。ゴキブリに煎餅をやろうなんて、葵なら考えもしないけれど、もし大量のゴキブリに恨みをもって襲われたら、と思うと怖くて仕方がない。
なんとなく食欲もなくなって、今日もおにぎりを持ってきているのに、取り出す気になれなかった。
「とりあえず落ち着きましょうか。今度は虫の面白い話でもしましょう」
「もう虫の話は嫌なんですけど……」
虫の話で嫌な気分になっているのに、この上また虫の話か、と葵はうんざりした。しかし男はそんな葵の顔を見て見ぬふりで、麦茶のグラスを二つ
「そうおっしゃらず。この温室でできる話なんて、虫の話くらいなんですから」
「他に話題はないんですか?」
「あるように見えますか?」
にっこり笑ってそう言われて、葵は黙るしかなかった。この片目の男は、毎日毎日この虫かごだらけの温室で過ごして、そして客が来ればまた虫の話を聞かされるのだ。飽きないのだろうか、と葵は思ったが、口には出さなかった。
男が望んでここにいるとは限らない。他にこの温室を管理している人間を見たことがないし、ずいぶんな田舎で人手はそうそう確保できそうにない。だから必要に迫られてここにいる可能性もあるのだ。
逆に好きで自らここにいるのなら、飽きることはないだろう。黙って待っていても、虫にまつわる話はあちらからやってくるのだ。大量の虫かごの中でも、どれにどんな話が入っているのか、大体は覚えているらしいこの男なら、むしろそっちの可能性の方が高い。
葵が渡された麦茶を飲み干すと、男はグラスを受け取って戻し、葵の前に椅子を引いて座った。
「さて、それじゃひとつ、お願いします」
「へ? まさか私が話すんですか?」
「ネタならたくさんあるでしょう? ここに何度も来られるような人は、虫の話のネタが豊富だってことですよ」
いきなりそんなことを言われて、葵は思い切り首を
しかし困惑する葵に構わず、片目の男は懐から取り出した手帳をパラパラと
「お嬢さん、ユスリカの話を聞かせてくれませんか」
「ユスリカ……って何ですか?」
「ほら、夏に川のそばを歩いているとよく、塊になって飛んでいる蚊がいるでしょう? あれはユスリカの雄なんですよ」
「えっ、ああ! あれがユスリカなんですか。そういえば思い出しました!」
葵の記憶の中で急速に
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