ザトウムシ(1)

「ちょっと、葵!」

 いつものように昼ご飯を食べ終えて、温室へ行こうと玄関に向かった葵は、姉の椿に呼び止められた。

「なに? 急いでるんだけど」

「急いでるって、一体毎日どこに行ってるの?」

 こんな何もないところなのに、と言外げんがいに匂わせてきたその言葉に、葵は一瞬、どう答えたものかと考えた。「誰かの家をたずねている」などと遠回しに言えば、姉は「それなら挨拶あいさつしておかないと」と言い出しかねない。

 かと言って正直に「妙な温室で不思議な体験をしている」と説明した日には、からかっているのかと怒られるのがせきの山だ。信じてくれたところで「そんな不気味なところに行くのはやめなさい」と、やっぱり止められてしまうだろう。となれば、けむに巻くだけだ。


「秘密基地よ。友達ができたの」

 片目の男は友達とは言えないが、あの温室は確かに秘密基地のようなものだ。うそは言っていない。

「秘密基地? どこかに神社でもあったの?」

「まぁそんなとこ。じゃ、行ってくるね」

 そう言って椿の横をすり抜けようとすると、不意に椿は一歩踏み出して葵の前に立ちふさがった。

「ちょっと待ちなさい、葵。あなた今年は高校受験なのよ。せっかく来たんだから楽しむのもいいけど、勉強はしてるの?」

「ちゃんと朝のうちにやってるよ。それに帰ってきたら夕方にもやってるし。息抜きぐらいさせてよ」


 本当はもっと遅くまで温室にいたいのだが、片目の男は陽がある程度傾き始めると、葵が何と言おうと温室から追い出すのだ。早く帰らねば家族が心配する、というその言葉は正しいのだろうが、正直なところ、帰ってから夕ご飯までの時間がぽっかり空いてしまう。

 そんなわけで、図らずも葵の受験勉強の時間は充実していた。姉に文句を言われる筋合いは無いというくらいには。

 しかしそれでも不満げな姉の態度は変わらなかった。一体何が気に入らないのかと思ったが、その理由はおのずと分かった。


 姉はここに来てから、大学の友人たちとも会えず、図書館の一つもないので研究の続きをすることもできず、地元に戻りたがっている。口を開けば「いつ帰れるのか」と祖父に文句を言ったり、両親にラインを送ったりして返事がかんばしくないとぼやいている。けれど例えば入院している祖母の容態を気にしているとか、見舞いに行きたいけれどいけないことを気にしているとか、そんな様子ではない。

 つまりは、自分だけ楽しみを見つけた葵が気に入らないのだろう。

 いちいち付き合っている場合ではない。日が暮れる前にはあの温室から追い出されてしまうのだから、早く行かないと今日の虫かごの話を聞きそびれてしまう。

「もういいでしょ、通して」

 葵は強引に姉の体の脇を潜り抜けると、スニーカーをつっかけながら玄関を飛び出した。姉が何か言う声が追いかけてきたが、葵はそれを振り切って走った。



「なるほど、それで今日はいつもより遅かったんですね」

「もう、私だって今年は大変なのに、全然分かってないんだから」

「まぁまぁ。それはたぶん心配されているんですよ」

「そうかなぁ……」

「そういうものですよ」


 奥の部屋から救急箱を持って来ながら、片目の男はのんびりと言った。

 葵の膝には、もう乾き始めた血の跡が付いていて、ずきずきと痛んだ。姉から逃れようとスニーカーをちゃんと履かずに走ったせいで、途中で派手に転んでしまったのだ。

 男は「少ししみますよ」と言って、その傷口を濡らしたタオルで拭き、薬を塗ってガーゼを貼った。


「これで良し。さて、今日はどの虫かごが光ってるかな……と。おお、ちょうどいいところに」

 言いながら、男は楽しそうに高いところに積んであった虫かごを引き抜いた。ほかの虫かごよりやや古いのか、茶色っぽくくすんだ色をしたそれを、男は葵の膝にそっと置いた。

 するとすぐに光が強くなり、いつものように声がし始めた。年老いた女性と男性が、一緒に喋っている声だ。


「お願いします、あの子を助けてやってください」

「わしらではどうしてやっていいのか分からんのじゃ」

 今にも泣きそうなその二人の声は、孫の安否を心配し、助けてくれと何度も繰り返していた。

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