メンガタスズメ

「……始まりはどこだったのか、よくわかりません。私はある学校の教師をしています。学校というのは広いようで狭いところですね、ひとたび噂が立つとあっという間に広まって。

 しかもどんどん尾ひれがついて、そのまま広まっていくらしいのです。私たち大人の耳にはなかなか入らないのに。

 そうですね、そう考えると始まりは噂だったのかもしれません。ある日、学校のとある階段の踊り場で『背中にドクロもようのあるガが死んでいる』とうわさが立ったんです」


 葵は今日も揺り椅子に座り、膝に虫かごを載せて、その声にゆったりと耳を傾けていた。いつもよりややか細いその声は、少し年のいった男性のものだ。

 あれから葵はこの温室には毎日通うようになって、今日で一週間になる。入り口はいつも鍵が開いていて、虫かごは毎日ひとつだけが、自然と光っている。

 誰かの「虫との因果を断ってほしい」という話が込められたその虫かごたちは、まるで葵に「わたしの話を聞いてほしい」と呼び寄せているかのようだった。


「おや、それはまた珍しいものですね」

 虫かごの話を聞き始めてすぐ、片目の男が奥から顔をのぞかせた。

 温室の奥には男の私室ししつがあるらしい。葵がやってきてすぐは、男は温室内にいたりいなかったりで、いないときはこうして私室から出てくる。

 もはや勝手知ったる温室内なので、葵は特に気にせず、来れば真っすぐに光る虫かごを手に取って聞いている。まるで図書館にでも通っているかのような入りびたりようだ。男も何もとがめたりはせず、聞き終わるころには饅頭まんじゅうと麦茶を出し、日が傾いてくると早く帰るように葵を促す。毎日その繰り返しだった。


「珍しいんですか、この話」

「いえ、聞けば分かりますが話そのものは珍しくないんです。ですが、彼はこの場所に来る前に、ある神社で同じことを相談していたんですよ。それで、どうにもならないからと神様がこの場所を夢で知らせたわけです」

「へ? 神様? 神様って本当にいるんですか?」

「お嬢さん、こんな場所へ毎日通っておいて、それはないでしょう」

 男は呆れたようにため息をついた。言われてみれば、こんな超常現象のようなものに毎日触れているのに、神様の存在に疑問を持つなど今更だった、と葵はふと自分の置かれている状況を思い返した。

 いつの間にか当たり前になってしまって、すっかりこの場にも馴染んでいるが、よく考えてみれば不思議な事だ。あの日初めてこの光る虫かごを見た時は、恐ろしいものを見た気がして帰ろうとしたというのに。


「まぁいいですよ、変に怖がられるよりはいいですから」

 男はそう言うと、葵の膝の上に載せられたかごに手をかざした。するとまるでボリュームを上げるように、か細かった男性の声が大きくなった。


「私は何度も見に行きましたが、そこにの死骸など落ちていませんでした。なので何度も子供たちにそう伝えました。しかし今度はどうしたことか、『あのガが死んでいた場所では子供がいなくなる』と噂が立ったんです。

 確かに普段はよく使われる階段ですが、いつ確かめに行っても、誰もいなかったんです。ですが、私はそのことを話していませんし、子供がいなくなるなどと言った覚えもありません。

 この噂はあっという間に学校中に広まってしまったようで、職員室に向かったり各クラスに分かれたりする一番上がりやすい階段だというのに、子供たちが怖がって使わなくなってしまったんです。


 もっと悪いことに、この噂の発生源は私だと言われるようになりました。それでとうとう、職員会議で全教員からお𠮟りを受けることになりました。

 それでやむなく、私は授業の時間を一つ使って、生徒たちをその階段に連れて行ったんです。噂は噂に過ぎないと、子供が消えるなどいうことはあり得ないと、そう伝えるためでした。

 ところが子供たちを集めてそう話していた時です。突然黒っぽい大きな蛾が飛んで来たんです。その蛾はすぐに踊り場の隅に止まったんですが、背中に髑髏模様のある、噂通りの蛾だったんです。

 子供たちはパニックになりました。落ち着くようになだめようとしましたが、それより先にみんな逃げ出して教室に戻ってしまったんです。


 私はそれからも何度か、階段を確かめて子供たちを説得しようと思いました。

 しかし今度は、いつ見てもその階段の踊り場に、あの蛾の死骸が転がっているんです。見つけるたびに処分しているんですが、また次に見た時は必ずあるんです。

 咄嗟に写真を撮って、後で調べてみましたが、それは「メンガタスズメ」というスズメガの一種だったようです。本当に、何か災いを呼ぶとか、そういう類の話はないようで、ただ見た目が怖いだけのようなんですがね。

 こんな話ですみません、こちらに来れば解決してくれると聞いたのですが……一体何がいけなかったのかも分からなくて、すがれるものならわらにもすがりたい気持ちなんです」


 男性の話は、そこで終わった。虫かごの明かりはすうっと消えて、葵の耳には聞きなれた雨音が戻ってきた。

「これって、本当に『虫との因果』の話なんですか? ただその時期に蛾が増えてただけじゃなくて?」

「どうでしょうね。私はそれを聞いてこの虫かごに封じただけですから、解決したかどうかは本人にしか分かりません。ですがそれ以来、この人がここに来たことはないですよ。なので、そういうことなんだと思うだけです」

 そっけなく言われて、葵は少しもやもやとした気分になりながらも、確かに他人に分かることはそこまでだ、と納得するしかなかった。


「それより疲れたでしょう。今日は水まんじゅうにしましたから、一緒に食べましょう」

 そう言って片目の男が差しだしてきた盆の上の、白くてつるりとした美味しそうな水まんじゅうに、葵の意識はすぐにさらわれていた。

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