チャドクガ(2)

「お嬢さんなら、もし結婚相手に浮気をされたらどうしますか?」

「えっ、えーと……結婚相手って好きな人ってことですよね。でも……」

「おや、お嬢さんは恋愛もまだですか。可愛らしいですね」

「それ絶対褒めてないですよね!?」


 葵はしばらく悩んだ。けれど片目の男の言う通り、葵には「ちょっと好みの男の子」程度の相手すらいない。クラスメートの中には、特定の男子ととても仲の良い子がいたりするけれど、そういう人の気持ちもあまり理解できなかった。

 無理に「好きな人」として考えるなら、担任の先生が少しかっこいいと思う程度だ。

 仮にその担任の先生が、奥さんに内緒で浮気をしていたら……と考えてみて、浮かんだのは「授業を真面目に受ける気がなくなる」というものだった。


「よく分かりませんけど、幻滅げんめつするだけで何もしないような気がします。ドラマなら怒って責めたりとか、復讐ふくしゅうしたりとかするシーンがあるけど、それより先に気持ちが冷めちゃうって言うか」

「ふむふむ。お嬢さんはあまり情熱的なタイプではないのかも知れませんね」

 葵が考え込んでいる間に、また麦茶と饅頭まんじゅうを盆にせて戻ってきた男は、一人でうんうんと頷いた。盆を脇の机の上に置いて椅子に戻ると、「では」と男は話を続けた。


「仮にこの浮気された女性が、同じように思ったとしましょう。彼女には子供がいて、気持ちが冷めたからと言って離婚は現実的ではない。そもそも離婚を切り出すこと自体、面倒くさいですからね。ではどうします?」

「どうするって、そのまんま知らんふりして生活するとか?趣味で気分転換したりして」

「またまたご名答です。まぁ、気分転換が趣味というのはお嬢さんの優しいところだと思いますがね」

 言うと、男は饅頭を少しかじった。喋り疲れていたのか、甘さを楽しむようにほうっと幸せそうな顔をする。そんな男の姿は、どちらかと言うと上から目線でものを言う割に、少し幼く見えて、葵は不覚にも可愛いと思ってしまった。

 そもそもやけどのあとが無ければ、結構なイケメンだったんじゃないか、と思われる顔立ちだ。元が綺麗だからこそ、片目の姿がより不気味に見えるのかもしれないが。


 葵も饅頭を貰って男に付き合った。以前貰った時と同じ、体にじんわりと力が戻ってくるような、指先がほっこり温かくなるような、そんな感じがする饅頭だ。一緒に貰った冷たい麦茶も美味しくて、涼しいこの温室では冷たすぎるくらいな気がするのに、飲んでみると自分の体が熱かったのを感じる。

 葵が最後の麦茶を飲み干すのを見届けると、男は「それじゃあ」と話を続けた。


「お嬢さんに話すのはちょっと気がとがめる話なんですけどね、この奥さんの気分転換は、趣味でも賭博とばくでも酒でもなかったわけです。彼女はね、新しい恋に走ったんですよ」

「え……ええっ!? そんな、え!?」

 葵は混乱した。考えてもみたことのない話で、それはつまり、不誠実に不誠実で返すという話だ。


「おお、やはりいい反応ですね。でもそういう人はいるんですよ。夫が浮気しているなら、自分だってしてもいい、というわけです」

「そんな、それじゃ自分も同じぐらい悪いじゃないですか! あの声、『悪いのはあたしじゃない』って言ってたのに」

「ええ、私もそう思います。ですが彼女はそうは思わなかった。それで自分も若い男と付き合い始めたんです。異変が起きたのはその時でした。

 以前夫の服が顔に当たった時、チャドクガの毒でできた顔のれは、すぐになくなっていたんです。ところが浮気を始めた直後に、今度は夫に触れてもいないのに、顔が腫れるようになったんです。

 最初は洗濯物を洗う時にできたんだと思ったそうです。ですが、どんなに気を付けて洗っても、顔はずっと腫れ続けている。チャドクガは刺されると本当に痛いんですよ。かゆみもありますから掻いてしまって、ますます赤く腫れたりするんです。

 それがだんだんに顔全体に広がって、彼女は浮気相手に振られたそうです。それで慌ててこの温室に駆け込んできたわけです。これは夫が持ち込んだチャドクガの呪いだ、とね」


 そこまで話すと、男は盆に残っていた自分の麦茶を飲み干した。

「……なんだか、かわいそうですね」

 葵はぽつりとつぶやいていた。

「おや、そう思いますか」

「だって、チャドクガは何もしてないじゃないですか。なんで顔が腫れたのかは分からないですけど、罰が当たったようなものだし。呪いなんて本当にあったんですか?」

 疑問をぶつけると、男は意外そうに左目を大きく開いた。葵自身、虫が好きとは言えないのに虫に同情するのはおかしな気分だったが、なんとなくやるせなかったのだ。


「……やはりお嬢さんはお優しいですね。そうです、呪いなんて本当にあったかどうかは分かりません。ですがこの話をした後、彼女は顔の痛みがなくなったと言って、嬉しそうに帰っていきましたよ」

「えっ、それってつまり」

「ええ、彼女の顔は腫れてなんていませんでしたよ。少なくとも、私の目から見た時は、ですが」

 そう言うと、片目の男は天井を仰いで、どこか寂しそうに遠くを見るような目をした。

 ざぁあ、という雨音が、火傷で歪んだ男の顔の上に、優しく降り注ぐようだった。

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